喝采なき血濡れの円舞

連盟の長×狩人
Bb長夢らしきもの。一応狩人の設定はありますが、短編内で名前は出てきません。設定を読まなくても作品は読めます。R15程度のグロテスクな表現(食人・食肉)、不衛生なスキンシップ(口移し)などが含まれます。弊長は連盟のパパです。

古狩人ヘンリックは、小屋を訪れるなり目に入った異様な光景を前に、思わず入り口で足を止めた。状況を把握しようとヘンリックが選んだ沈黙を埋めるように、かつん、かつんという軽い音が繰り返し響いた。軽やかだが硬質なその音は連盟の長であるヴァルトールの兜が出所だった。正確に言い表すなら、最近連盟に加わった新顔が投げる小さな石ころがヴァルトールの兜目掛けて打たれ、命中し、そのような音を立てていた。
「報告があるのだろう? ヘンリック」
ヴァルトールは己に向けて投げられる石ころなど全く意に介さず、ヘンリックに報告を促した。ヴァルトール目掛けてまた一つ投げられた石ころは、壁に当たってそのまま古屋の隅の方へと転がった。きっとそうして散らばったであろう石がそこら中にばら撒かれ、小屋の中はいつになく雑然としている。
ヘンリックはどうしたものかと思いながら、入り口で手短に報告を済ませた。連盟への貢献を示し、狩人狩りの動きを伝え報告を締めると既にヴァルトールの視線はヘンリックにはない。兜越しにどこを見ているのかは相変わらず分からないが、少なくとも長は私を見てはいない、とヘンリックは思った。ヴァルトールの体は、たまに笑い声を交えながら石を投げる新顔の方を向いていた。

ヘンリックは常々こう考えていた。長の考えていることはまるで分からない。最近連盟に加わったこの新顔は、男とも女とも、大人とも子供とも判別がつかない奇妙な人物だった。強いていうなら……歩行を覚えたばかりの獣に近い。気まぐれに動く物を追いかけ、殺し、死体を弄び、そこら中の物を手当たり次第口に入れ、破壊を尽くす。とかく尋常ではない。人の姿こそしているが、人間と呼ぶにはあまりにも壊れている。人語も辿々しく、複雑な会話は成り立たない。純粋無垢ゆえに凶暴な、混じり気のない狂気、その具象としてヘンリックの目には映っていた。
ともすれば連盟が屠るべき対象にも見えるその者を、あろうことか連盟の長ヴァルトールは勧誘した。長が誰彼構わず声を掛け拾ってくるのはいつものことだったが、それでもこの狩人は群を抜いて初めから常軌を逸していた。
晴れて仲間入りを果たした獣のような新顔を、ヴァルトールは時折聞き慣れぬ言葉で呼んだ。あの狩人の本名なのか、長がそう名付けたのか、連盟員は誰も知らない。連盟は互いを助け合う同志なれど、深入りはしない。虫を駆逐する間柄において、名が持つ価値など無に等しい。だからヘンリックは新顔の名を覚えることはしなかった。どうせいつ死ぬとも知れないヒヨコだとみくびっていた。
ヘンリックは何度か新顔と同じ戦場に駆り出された。意外なことに、狩人としては優秀で、身体能力も戦闘における立ち回りも申し分なかった。多くの狩人を見てきたヘンリックからしても、不足ない十分な働きを見せていた。それどころか、許されるならこの者を狩りたい。全力でやり合って血を見たいとさえ感じていた。しかし連盟への忠義から、ヘンリックはそうしなかった。
実力を発揮し結果を残したことで正式に連盟の仲間入りを果たした新顔は、気まぐれに獲物を仕留め、腸を暴き、弄んだ。そのあまりに無邪気な暴虐は、見慣れてしまえば、もはや一切が児戯のようだった。

立ち尽くしたまま石を受け入れているーーそれとも無視を決め込んでいる長は、兜を少し傾げて、身を屈めて石ころの一つを拾った。流石に腹を立てたのか、だとすれば珍しいものだと見守るヘンリックをよそに、連盟の長は再び姿勢を伸ばすと、その石を新顔の方へ投げ返した。
「連盟の使命は順調かね?」
いかにも長らしい全くいつもと変わらない調子で、ヴァルトールは問い掛けた。ヘンリックは入り口の縁に軽くもたれかかり、興味深い問答を見守ることにした。
「ん? 使命って、なあに?」
投げ返された石をしっかりと受け止めて、新顔は首を傾げる。
「我ら連盟の使命は、一匹残らず、蠢く汚物を、すべての虫を徹底的に踏み潰すことだ。お前は得意だろう? 努々忘れないでくれ」
長はすぐ足元にあった石を踏む。踏んで、踏んだその足を煙草の火でも消すように左右に動かした。木の板に石が食い込んでいく音がする。それを見て新顔は、何を思ったかケタケタと笑い出した。声は体と不釣り合いに幼く、大層不気味だった。そしてひとしきり笑い終えると、新顔は嬉しそうに立ち上がった。
「虫さん、見た! さっきね、一つぐちゃぐちゃにしたよ! いっぱいのばらばらになった!」
「ほう」
「長もお肉食べたい?」
そう言って新顔はおもむろに自分のポケットを漁る。間も無く現れた、赤黒く何とも判別がつかない肉片を見て、ヘンリックは顔色こそ変えなかったが、妙な緊張を覚えた。
「前に食べたお肉はすっぱくてまずかった。でもさっき拾ったのはおいしかった。お腹いっぱい!」
獣喰らいの異名を知るヘンリックは、ゆっくりと視線を動かしヴァルトールの顔色を伺った。しかし凹凸のない無機質な兜から読み取れることは何もなかった。小屋に戻った静寂は、禁域の森のひんやりとした冷たさを帯びていた。ヴァルトールは決して声色を変えることなく淡々と答えた。
「使命に励んでいるようで、何よりだ。……だが悪食は、頂けないな」
コツコツとヴァルトールの杖が小屋の古板を突き、それに続いて濃紺の制服が静かに擦れた。毅然とした足取りで新顔に近付くと、ヴァルトールは差し出された肉片を左手で掴み、兜の眼前へと掲げてからーーそれを握り潰した。一連の動作は狂喜を伴っていた。まるでそうすることが生まれついて唯一の愉しみであるかのように、嬉々として、力強くヴァルトールは拳を握った。肉片は彼の白い手袋を無惨に染めた。
ヘンリックはそれを見て、情緒不安定な新顔が喚き出すのではないかと身構えた。だが新顔は案外平気そうだった。代わりに、握り潰され飛び散った破片を長の手から摘み、躊躇なく口に入れ始めた。注意されたばかりだというのに、次から次へと肉片を口に放り込む。握られたままの白い手袋は、少しずつ時間をかけ、綺麗さっぱり拭われていった。ちゅっと短い音を立てて最後の肉片を舐め取ると、新顔は満足そうに腹を撫でた。
「おいしかったぁ」
向き合った狩人と連盟の長はしばらくそのまま無言で立ち尽くしていた。やがて沈黙に飽きた新顔が勢いよく走り出しヘンリックの横を抜けていったことで、小屋の中には転がった沢山の石ころと何も言わぬ連盟の長が取り残された。蹴散らされた石ころが一つヘンリックのブーツにぶつかって跳ね返り、また小屋の内側へと転がり出した。
「新顔を随分と甘やかすじゃないか、ヴァルトール」
「クク……さあ、どうかな? 俺は血濡れの同志たちを隔てなく連盟に迎え入れるだけだ」
長の相変わらず自分に酔ったような大仰な口振りにヘンリックは辟易した。
「ああ、そうかい。じゃあ、俺は追われているんでな。例の狩人狩りだ。ここはまだバレちゃいねえが、あんたも気を付けてくれよ」
「勿論だとも、ヘンリック」
そう言ってヴァルトールは機敏な動きで杖を掲げた。連盟の誓いの動作だ。ヘンリックも同じく胸に手を当てたが、長ほど洗練されていない形式だけの動きだと自覚していた。小屋を出る前にもう一度ヴァルトールの血に染まった手袋を一瞥する。甘やかしてる自覚はない、か。長の酔狂には慣れっこだが、ありゃあ救えない。呆れつつ、好奇心が満たされたヘンリックは漸く自分の仕事へと戻ることにした。

******

マダラスの弟は、長の足元でとぐろを巻き眠っている狩人を見て懐かしさを覚えた。毒蛇の巣と呼んでも差し支えないこの禁域の森の至る所で、自分もかつて兄とこんな姿で眠ったことを思い出していたのだ。
我々ほど長くはない割れた二つの尾を畳み、腹の方へと引き寄せ、卵にでもなったかのように丸くなる。それが許されたのは、この森に虫が蔓延るずっと前のことだった。
挨拶も報告もそっちのけで、とぐろを巻いた人間に視線を落としていると、ヴァルトールは堂々とした口調で問い掛けてきた。
「今日はいくつ潰した?」
マダラスの弟は直感的に理解した。長が、自分の考えていることを恐らく見抜いており、あえて感傷に触れぬ話題を口にしたであろうことを。だから心配をかけまいと、素早く舌を三度伸ばしてみせる。バケツに似た兜をカタカタと揺らしながらヴァルトールは頷く。
「いい調子だ。引き続き、虫の根絶に尽力してくれたまえ」
それに短く舌を出して答え、マダラスの弟はもう一度長の足元で眠る狩人を見下ろした。

不気味な金属を被った男が、我々の前に現れた日。雨が降った街はいつも以上に空気が湿気っており、それは我々にとって好都合だった。住民たちに供する素材集めのため、二人で死骸の山を漁っていた。尾を打つ雨の心地良さに浮かれながら、いくつもいくつも折り重なった同じ色の二本足たちを無造作に引っ掴む。すぐに荷袋はいっぱいになった。だがそれは悪夢の始まりだった。
二本足から這い出した虫が毒蛇に取り憑き、それは瞬く間に森に蔓延し、ついに兄も虫に憑かれた。兄は言った。虫を殺してくれと。間も無く半身はぐったりと力を失い、目の前で動かなくなった。もうとぐろを巻く力すら失った身体はだらりと伸び切っていた。その時から、私は兄と一つになった。
途方に暮れる我々の前に現れた見たことない兜の男は、動かない半身を見るなり「虫に喰われたか」と呟いた。男は虫が見えていた。
「なあ、俺と共に来ないか? 虫を、人の淀みを徹底的に潰し、根絶しようじゃないか」
男は荷袋に詰め持ち帰った二本足たちと同じボタンのついた制服に身を包んでいたが、濃紺の制服は血に濡れ、殆ど全身真っ赤だった。頭から被った血が滴り、白い手袋の指の先を伝っていた。腑分けに興じる兄の姿が重なって見えた。だから、迷いなくその手を取った。

勘が良く聡明な男だった。いちいち頭巾の下を覗き込まなくとも、きっとヴァルトールは全てお見通しなのだ。そうとしか思えないほど、この男は我々を容易く理解し丸呑みした。マダラスの弟は、かねてから彼の儚い色の瞳は何もかも見抜いているのだと思っていた。私が人の言葉を介さずとも、この男の慧眼なら全て読み取れる。
案の定、ヴァルトールは気を利かせて数歩後退りし、もう一人分の場所を確保してからコツンと杖の先でその場所を示した。お前もそうしたいならそうしろ、と。
眠る新顔の狩人は、我々の家族とは似ても似つかない。小さくて、ごわごわした毛に草や枝をくっつけて、好き勝手に動き回る、体温の高い、うるさい獣。……我々はもっと静かで湿った暗い場所が好きだ。マダラスの弟は頭を振った。ヴァルトールは腰に手を当て頷く。
「ああ、そうだな。この新顔は……お前たちとは随分違うだろう」
私と兄を未だに二匹として呼び続ける、私をまだ「マダラスの弟」でいさせてくれるこの男だから私はついて行くのだと、マダラスの弟はあらためて思った。
ヴァルトールはおもむろに外套を肩から外し、いつか兄の死体の前で震える蛇にしたのと同じように、慎重に狩人に外套を掛けた。マダラスの弟は、その様子を眺めながら満足気に舌をちろちろと出した。

******

「それでね、血がぶしゃあっていっぱい出て、中からゴソゴソって出てきた虫さんを、いち、に、さんって全部捕まえて、ちぎってポイしたの! それから、えーっと、ピンクのぶよぶよのリボンをね、ずるずるって引っ張って、おめかしして……」
前を歩く狩人が大きく身振り手振りするのを背後から眺めながら、ヴァルトールは早足で続いた。狩人の足首に巻き付いたままの臓物からするに、大型の獣を屠ったばかりのようだ。新顔の狩人の報告は、要領を得ずまとまりがない。話を聞くより、姿を見た方がよほど状況把握し易い位だ。今日は頭から爪先まで綺麗に血に染まっている。髪や装備へもしっかり染み込んでいそうだ。たとえ倒した敵の上に寝転んだとて、こうはなるまい。大方、拓いた敵の上で狂喜乱舞しながら臓物に頬擦りでもしたのだろう。
まともではない。お世辞にもまともだとは言えないがーーそれは己とて同じこと。ヴァルトールはこの新顔に明らかに大きな期待を寄せていた。まだ若いものの、確かに《虫》が見えている。すなわち自分と同じく常人には理解されぬ使命を背負う者なのだ。ヴァルトールは血濡れを運命づけられた同志を愛さずにはいられなかった。
「それでね、がしゃんってしてから、どーんって爆発させて……いっぱいいっぱい飛び散ったの! ぜーんぶ、ばらばら! 長にも見せたかったな」
話し終え嬉しそうに振り返った狩人は、元の肌や衣服の色も分からぬほど赤一色だ。しかし、瞳孔を取り囲む白目だけは染まることなく純粋で穢れなき色を保っている。気味の悪いナメクジや見上げた者の正気を奪うような月とは異なる穢れなき白。まこと美しい純白に、ヴァルトールは連盟が目指す最終到達地点、汚物を根絶しきったあるべき世界を見ていた。あるいはーーそうあって欲しいという淡い願いの幻を。
「ああ、本当に……よい目になってきたな」
ヴァルトールは懐から取り出したハンカチで、狩人の頬を拭った。繊細な刺繍が入った白い絹のハンカチは、血を吸い上げてみるみるうちに赤く染まる。当然手袋も血に濡れた。狩人は少し嫌がって顔を背けたが、ヴァルトールはそれでも構わず顎を掴んで強引に顔を拭い続けた。華奢な顎、細い首。少し力を加えれば簡単に壊れてしまいそうだ。こんな体の一体どこに、蹂躙と破壊を尽くす怪物のような力を隠しているやら。
「おさ、やだ」
「汚れを拭うだけだ、じっとしてくれ」
「……やっ!」
「もう少しだ」
狩人は逃げ出そうと体を捩っていたが、力で敵わないと気付いたのか徐々に抵抗をやめ、やがてされるがままヴァルトールに顔を預けた。拭き残し一つなく綺麗になった顔を眺め、頰の膨らみに親指を沿わせそのまま輪郭をなぞる。狩人は指が目に入るのを恐れて、びくっと瞼を閉じた。皺の見当たらない張りのある肌、やや長い睫毛、きゅっと引き結ばれ緊張した口角。こうして口を閉じて大人しくしていると、成年の狩人らしい凛々しさがある。壊れる前は。……そう考え掛け、野暮な推量に自嘲する。
「フッ」
「?」
「さあ、終わったぞ」
顎から手を離してやると、狩人は瞳をぱちくりと見開き、いつもと変わらぬ獣に戻り颯爽と跳ね回った。
あまりに自由に動き回るため、少しよそ見をした隙によく視界から消えた。しかし、新顔の行き先はすぐに判別出来た。通った後に残された、転々と残された血溜りと惨たらしい躯の先。そこで誰より無邪気に、残酷に殺戮に興じるのが新顔だった。古狩人にも劣らない狩りの腕は、ヴァルトールが期待を寄せるには十分すぎる理由だった。

無事狩りを終え、新顔が虫を潰した。何度聴いても心地よい音だ。革靴の底に当たるこの汚い残骸の感触で動かなくなった後も、何度だって潰して、潰して、潰して、繰り返し踏み潰してーーまた一つこの世界から汚物が消えた! 最高だ、素晴らしい。だが、まだ終わらない! 一匹残らず全て潰すまで、この世界から虫が、淀みがなくなるまで我らの使命は続くのだ!
「フフ、ハハハ! ハハハハハ!」
「あはははっ! ねえ、長、虫さん動かなくなっちゃったね。あははは」
新顔が潰した虫の上に革靴を踏み下ろす。ああ、堪らない。血が沸る。身体を流れる血が一滴残らず熱く煮えたち興奮している。頭が茹る。それが堪らなく心地よかった。どれだけ血に塗れようと、虫を潰して回ればいつかきっと世界は清浄へ向かう。淀みない世界のためなら、俺はいくらだってこの身を汚物に晒そうとも!……ああ、途方もない使命にクラクラする。狩りの後の酩酊ほど快い瞬間が他にあるか?
兜を置いて恍惚を全身に浴びた。きっととっくに潰れて元の形を留めていないであろう虫を、今の俺には見えていないその死骸を、もう一度大きく蹴り付け放り出した。新顔は倒した獣の前に膝をつき、ノコギリ槍を往復させ、一心不乱に躯を暴いている。
「ん、開かない」
新顔は見当違いの場所に刃を当て、力任せに断ち切ろうとしている。実力はあるが、経験値はまだ少ないらしい。
「ここを切るといい」
肋を繋ぐ筋肉を指差す。狩人は素直に従って、指差した場所にノコギリの刃を当て往復させた。そうして曝された内臓を見て歓声を上げながらパチパチと手を打った。
「わあー! お肉いっぱい!」
「ああ」
狩りの興奮か……獣の血に当てられていたのかもしれない。気付けば庇護欲のようなものに突き動かされていた。
「……どうせ、食べるつもりなのだろう?」
「うん!」
瞳を輝かせる狩人の手からノコギリ槍を取り上げ、柔らかく食べやすそうな器官を引きちぎった。獣の匂いがする。そのまま自分の口に持っていくと、狩人は小さく首を振って抗議する。……俺が独り占めすると思ったのだろう。
「口を開けたまえ」
狩人は聞き分け良く、期待に瞳を輝かせ、雛鳥のようにぱっくりと大きく口を開けた。跪いて、顎先を掴んだ。顔を拭った時とは違い、全く抵抗していない。ゴミや木屑の絡みついた長い髪に指を絡め、後頭部を支えた。視界の外で素早く内臓を喰み、噛みほぐす。口の中に生臭さが充満した。肉が形を失い、噛むほど溢れ出す唾液と混じり合い、薄味の液状になったところで唇を重ねた。
「ん……」
少しずつ、少しずつ舌で肉だったものを押し出し口移しする。歯の裏や頬の内側に留めていたものを全て流し込んだ。肉欲や官能とは程遠い。これは原初的な営みに過ぎなかった。口がすっかり空になる頃、惜しむこともなく舌と唇の繋がりを外した。ごくり、と狩人の喉が美味そうに鳴った。
「ん、おいしい!」
昂った血も鼓動も、波が引くようにゆるやかに穏やかに凪いでいった。俺の知る狩りの全てを、使命を、こいつに注ぎ込まねばならない。内臓をもう一口齧った。雛は、今度は何も言わずとも口を開けた。理性も狂気も混ぜこぜの生温い泥を口移しで分け与え続けた。
きっとこの狩人は、俺と同じ幻想を宿すだろう。それだけが、今や虫の見えなくなった俺にもはっきりと見える光なのだ。血の昂りにも勝る狂気が、勢いよく全身を駆け巡っていた。

******

幾体かの死骸が折り重なった山を見下ろしながらヴァルトールは兜を置き息をついた。頭をすっぽりと覆っていた鉄兜にはべったりと血や肉片や言葉にもしたくない汚物が付着している。回転ノコギリはヴァルトールが対峙する全てを血と肉塊に変えた。名も、生きた痕跡も、脈打ち死に抗う本能も全て平等に切り刻んできた。ただ一つ、彼の愛した連盟員たちを除いて。
「長! お肉、見てて!」
狩人は展開していた槍を折り畳みノコギリ状にすると、手際よく躯を拓いていった。腑分けに慣れたマダラスの弟が見てもきっと文句の出ない解体だった。狩人は連盟の中で誰よりも飲み込みが早く、いまや教わった全てを忠実に狂いなく再現していた。全てヴァルトールの見立て通りだった。
「見事な手際だ」
「長も、食べる? お肉」
ヴァルトールは笑って首を横に振った。今となってはもう、そんなことをする必要はない。だが、マントの裾を握り自らの方へと手繰り寄せる狩人に抗うこともしなかった。
ヴァルトールが適当な臓器を指差すと狩人はそれを手に取り頬張った。大きな一口を咀嚼しながら、マントをより強く引く。ヴァルトールは体格差を理解して血に濡れるのも構わず両膝をつき、立ったままの狩人を見上げた。狩人が何をしたがっているのかをヴァルトールは十分理解していた。
狩人の細い指がヴァルトールの耳の横から髪の間に差し入れられる。ひやりとした感触にヴァルトールの背筋が震えた。近付く唇の端から溢れた一筋の血を舌で舐め取る。そのまま狩人の唇を自分から迎えにいき、流し込まれるものを受け取った。
ヴァルトールは口移しで与えられる肉を飲み込みながら、以前自分がそうした時には全く考えもしなかった別の感情を自覚した。親鳥から雛鳥へ命を継承する営みのすぐそばにある、違う形の本能。だがそれは、使命に生きる己には既に不要なものだと、ドロドロの肉と共に飲み下した。そうでないと、狂気から目覚めてしまいそうで恐ろしかったのだ。
ヴァルトールが口の中を空にすると、狩人は首を支えていた手を頭の上に持ってきて、淡い亜麻色の髪を撫でる。兜によって少し蒸れしっとりした髪が狩人の手で解されていった。
「……何をしている?」
「えらいえらい、だよ」
サラサラと音を立てくしゃくしゃにされた髪の一房がヴァルトールの視界を妨げる。自分の髪の向こうで、少し腰を屈めながら微笑む狩人を見ていると、どうしてか汚物に塗れながら咆哮し獣を喰らったあの日のことを思い出さずにはいられなかった。泣き叫んで喉が焼けて声も枯れ、喉を潤すため、一心不乱に獣を喰らった。俺だけが生き残った。俺だけ取り残されてしまった。なぜ俺なのかと問いながら、仲間を喰らった忌々しい獣を、報復として貪った。
ーーあの日、この狩人の手があれば。今と同じようにされていたなら、もしかすると俺は虫を見出さなかっただろうか。それとも、狩人の心が壊れる時に俺がいれば、助けてやれたのだろうか。
無意味な問いだと分かっていた。そう、糞ったれの現実は……とうに手遅れなのだ。死んだ仲間は決して蘇らず、世界はあの日からずっと淀んでいる。ああ、全く残念ながら!
「ククッ……フ、ハハハハハ……!」
あの日俺を繋ぎ止めたのは使命だった。この世界を汚物から、淀みから……獣や虫から救うのも、使命だ。全ての虫を根絶やしにする。淡き幻想こそ俺たちの、全ての同志たちの血塗れの夢なのだ!
ヴァルトールは立ち上がり、狩人を抱き上げた。回転ノコギリを担ぐように軽々と狩人を宙に浮かせてその場で回った。獣を喰らって以来、清々しく晴れやかな気持ちだった。明瞭な幻想の輪郭は、獣喰らいを苛んでいた迷いを寸断した。
狩人は訳がわからないままヴァルトールの首にしがみつく。しかし振り回されるうちに段々と楽しくなって、やがて一緒に声を上げた。
「きゃはははっ!」
「ハハハ、ハハハハハハ!」

笑い、踊り疲れたヴァルトールは血と皮と肉の上に腰を下ろした。狩人はまた自分だけの遊びに没頭し、筋や骨や臓器と向き合い始める。ヴァルトールはそれを隣で眺めつつ、兜の汚れを拭っていた。
しばらくすると、狩人は取り出した腸を身体に引き寄せ、くるくると身体に巻き付け始めた。巻き付けたせいで引きちぎれ、腐った内容物がどろりと溢れ出しても狩人はそれを辞めない。狩人の奇妙な言動に慣れたヴァルトールですら流石に眉を顰めた。
「何をしている?」
狩人は少女のようにクスクス笑い、ヴァルトールの耳元に口を寄せて答えた。
「……ドレス?」
「そうだよ。ねえ、長、お姫さまにして」
ヴァルトールはそれを聞いても笑わなかった。代わりに、兜を拭う手を止めた。共に使命に身を捧ぐ同志、そうでなくても自分が引き入れた連盟員が求めることなら、どんなことであれ力を貸してやりたいとヴァルトールは思っていた。それは俗にいう親心に近かった。だが、半生を虫潰しに捧げたヴァルトールにはあまりに難しい要望だった。
「姫、か」
ヴァルトールはかつて護衛任務で一度だけ貴族の姫君を見掛けたことがあった。腐乱と退廃を極めたヤーナムの貴族ではなく、故郷の国のまともな貴族の話だ。素人目に見ても手の込んだ美しい装い、凛と澄ました頭の上に輝くティアラ。そんなものはたとえヤーナム中を駆けずり回っても見つけることは出来ないだろう。
悩み抜いた末、ヴァルトールは獣の頭蓋から奇妙な形の骨を拾い上げる。半月状に弧を描いた骨は、かつて見掛けたティアラに少しだけ形が似ていた。それをズボンの腿の部分で拭って、そっと狩人の頭に載せる。獣の臓物を纏い骨を載せられた狩人は、まごう事なき狂気の姫君だった。
「フフ……我ら連盟に相応しき姫君よ」
ヴァルトールは狩人の足元に恭しく傅き、手を取る。紳士的な手付きで狩人の手袋を脱がせて、礼儀正しく首を垂れる。そして手の甲に短く口付けると、ヴァルトールは妖しく笑った。誰一人、時を巻き戻すことも、壊れる前にも戻れぬのならーー幻想の上で踊り続ける他ないのだ。
狩人はぎこちなく拙いお辞儀で応えた。物言わぬ躯を観客に仕立て上げ、その児戯は続いた。音楽もなしに彼らは踊った。手を取り合った二人の瞳は、寸分違わぬ同じ狂気を宿していた。

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