同棲する新居が無事に決まり、引っ越しの準備をしていた。仕事の都合上、俺は引き渡し日ギリギリまで現居で暮らし、その間に彼女は自分の私物を新居に運び、そのまま先に住み始める流れになった。
土壇場になって仕事が忙しくなり、俺は荷造りが終わらないまま引き渡し日の前々日を迎えていた。それを聞いた彼女が荷造りを手伝うといって来てくれたまでは最高の土曜だった。よく晴れた、まさに引っ越し日和の爽やかな秋の朝。だが、俺は完全にーー油断していた。
「ねえ、せんせ〜」
部屋の奥、本棚の方から機嫌が良さそうな声が俺を呼んだ。冷凍庫の霜と格闘していた俺は、扉を退けて彼女の方を向いた。
「ん? どうかしたか?」
そんなに広い家ではないが、部屋の端と端ではさすがに声がくぐもって聞こえる。遠くから話しかける声を拾おうと首を伸ばした。
「これ、処分するー? 新しいお家に持っていきたいー?」
呪術以外の本は古書店に持っていくから、呪術書だけ段ボールに入れるようあらかじめ伝えていた。確認が要るような本なんてあっただろうかと立ち上がりーー満面の笑みの彼女と目が合った。俺は血の気が引いた。
「月刊○○特装号!出演本数○本記念!ビキニに収まらない豊満Eカップを見せつけて!清純派卒業後の奇跡の一枚を捉えたグラビーー」
「うわぁああああっ!?」
目にも止まらぬ速さで彼女の両目を塞いだ。人生で一番早く体が動いた。しかし、時すでに遅し。彼女はとっくに致命傷を負っている俺の心に更なる一撃を加えた。
「巻頭グラビア10ページ!袋とじは今SNSで話題の50万フォロワー裏○女子!」
「……はぁっ……」
我ながら情けない声が出た。それ以上何を言うべきかも分からず、両目を塞いだ勢いのまま彼女を腕の中に閉じ込めていた。今この腕から彼女を離したら、そのまま二度と俺の元には帰って来てくれない恐れがあったからだ。
「せーんせ?」
大罪人が発して許される音について思い馳せてみたが、答えは見つからなかった。だから代わりにスゥ……と息を吸い込む音で返事をする。いや、待てよ。俺はこれから別れを告げられるんじゃないのか? 返事をしない方が良かったんじゃないか? おそらく俺はこれから家と彼女を同時に失うだろう。
「その……! ま、待ってくれ、あんた! 違うんだ……!」
彼女はいかがわしい雑誌を重ねられた段ボールの山の上に載せ、空いた手で目隠しする俺の手を退けようとした。ダメだ。今あんたの視界を解放するわけにはいかない……表紙をめくればすぐに目の当たりにすることになる巻頭グラビアを見せるわけにはいかないんだ。
「これはその……! 最近買ったものじゃなくて……そう、昔……昔に買ったんだ結構前にな?」
口の中がカラカラだった。砂の呪術師が暮らしていたとされる塔よりもずっと。だが身体中の水分が蒸発してしまったとしても俺は話し続けなければならない。懺悔を聞いてもらえる間に伝えなければいけない。
「ふーん」
冷たい。大沼の夜より堪える寒さ。さきほどまで霜取りしていた冷凍庫の中の方がまだ暖かそうだ。彼女がこんなに冷たい声を出す日が訪れようとは思ってもみなかった。
「昔に買って……ずーっと、ずーっと大事に持ってたんだ?」
しまったーー間違えた。そうか、そうなってしまうのか。つう、と背中に嫌な汗が流れた。
「いや……な? その……昔になんとなーく買って、今の今まですっかり忘れてたんだ。ハハッ」
笑ってる場合か? ここで間違えたら、俺は金輪際笑えない人生を歩むかもしれないんだぞ? ……現に今だって泣きそうだ。なんと申し開きすれば腕の中の愛しい存在を失わずに済むか、ちゃんと真面目に考えてくれ。さもなくば明日の新聞の一面に焼身無理心中したカップルのセンセーショナルな事件が載ることになる。いざとなれば、そうだな……その手もあるな。
「でもさ、せんせ? 本屋さんっていっぱい本があるでしょ?」
「よく知ってるな」
「どうしてこれがよかったの?」
あっ……。おしまいだ。視界を塞いでいるのは俺の方なのに、目の前が真っ暗になった。
彼女の声は先ほどまでと打って変わって、一段と甘く場違いに優しさを帯びる。
「正直に答えてね? 豊満Eカップ? 清純派卒業? 裏○女子?」
「違うんだ……」
「先生?」
「なあ、全部話すから、どこにも行かないでくれ……」
沈黙。少しの間を開けて彼女は身体を震わせた。あ、もしかして泣かせたのか……? 恐る恐る視界を塞いでいた両手を離し、顔を覗き込んだ。彼女はーーそれは楽しそうにケタケタと笑っていた。
「せんせ、もう……かわいすぎ! 大丈夫だよ〜。先生だって男の子だもん、えっちな本くらい読むよね?」
その時、俺は確かに後光を見た。俺が泣いていたから部屋の電球がそう見えたわけでは断じてない。
安堵から深く息をついて、そのまま肩を抱いて柔らかい髪に顔を埋めた。もうこの香りを二度と嗅げないかと思った……。
「それで? 発行日は……5年くらい前? 巻頭グラビーー」
「あ! その……待ってくれ、それは」
「ふーん、その感じだとグラビアがお気に入りなんだ……」
彼女は俺に構わず表紙をめくった。紙がわざとらしく音を立てて、そのあとすぐに彼女の細い指は動きを止めた。俺の心臓も同時に止まって欲しかった。
「あれ…? この子……ん……?」
全ての罪が明るみになった。全身の熱が一気に顔に集まる。彼女はスマホを取り出してカメラロールをスクロールしはじめている。今度こそ、申し開きの言葉が見つからない。
「えっと……私に、似てる……? ちょっと、というか、わりと……?」
雑誌の横にスマホを並べて、彼女はこちらを振り向いた。その苦笑は、まだ初々しくぎこちない巻頭グラビアの微笑にそっくりだった。
「……そういうことだ」
「えっ……!?」
「こういう雑誌を買ったのは、一応……これが初めてでな。呪術書を買いに行った時に、たまたま目に入って……表紙の端に、そのグラビアの子が見えて、思わず足を止めちまったんだ……。めくったら、あんたにすごく似た子がいて……いけないと思いつつ、買っちまったんだ……」
「えっと、その。5年前って……たしかまだ私が制服着てた時だよね。私が先生〜って毎日準備室押しかけてた時、でしょ?」
「……俺のこと、嫌いになったか?」
「んふふ、なるわけないよ。でももう一つだけ答えてもらおうかな〜?」
「なんなりと聞いてくれ」
彼女はニンマリと笑いながら、顔を近づけた。キスでもされるのかと思ったら、俺の耳に口を添えて、そのまま吐息混じりに囁いた。
「これで何回したの?」
******
彼女の助けもあって、引き渡し日当日、散らかっていた部屋はすっかり片付いていた。教員時代、多くの時間を過ごした部屋だ。いざその時になると郷愁に似た離れがたい気持ちが湧いて、少しだけ胸が締め付けられた。彼女が初めて遊びに来た日、冷蔵庫のありあわせで手料理を振る舞った日、初めてキスしたのも、そういえばこの家だったな……。蘇る思い出の数だけ後ろ髪を引かれる思いをしたが、「でも、新しい家で新しい思い出を作れるでしょ?」とカラッと笑う彼女のお陰で未練は綺麗に置いていくことができた。
結局ーー例の雑誌は、どういうわけか彼女が気に入って新居に持っていくことになった。頼むから処分させてくれと頼んだものの、彼女の首が縦に振られることはなく、3人目の家族みたいな顔をして堂々と我が家に迎え入れられた。
そうして事あるごとに話題にされ見慣れるうち、気付いたことだが……よくよく見ると例のグラビアと彼女はあまり似ていない。第一印象や髪の色の雰囲気、立ち姿が似ているだけだ。見れば見るほど違いが際立つ。
今俺が胸を張ってはっきり言えるのは、慣れない仕事で初々しい笑顔を浮かべるこの新人グラビアの奇跡のショットより、隣で毎日更新される彼女の寝顔の方が断然かわいいということだ。
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