Ignis Fatuus

不死×ラレ
二人旅をしていた不死ラレが誤って催淫効果のある毒きのこを食べてしまう話。

勢いよく振り上げられた短刀が、樹人を背中から串刺しで貫いた。身動きの取れなくなった樹人は腕をだらりと下げ抵抗をやめる。短刀を引き抜くと同時に、それは乾いた音を立てて崩れ落ちた。
「……これで、終わり……」
肩で息をする彼女。頬の側面から目元にかけて、樹人に切られて出来た切り傷が刻まれている。出来立ての傷はまだ痛々しく、つうと一筋の血をにじませた。流れた血がマスクの方へ流れ、黒い布地をじわりと赤く染める。頬を指して教えると、彼女はいつものように手の甲でそれを拭った。
「あんたもそろそろ疲れただろう? ……今日はもう休むことにしよう」
休息を促すと、彼女は「まだ疲れてはいないのに」と言いたげにこちらを見た。だが、いくら平気な顔をしようと身体にダメージが蓄積していることは明らかだ。傷の手当てもした方が良い。もう一度ゆっくり首を横に振ると、彼女は素直に折れて短刀を懐に差した。
木々や植物が鬱蒼と生い茂るこの森なら、警戒さえ怠らなければ腰を掛けて落ち着いて休めるはずだ。辺りを見渡すと、大きな岩のある水辺が目に留まる。あそこなら休息にうってつけだろう。
「そこで休もう」
陽の差さない薄暗い森。生い茂った木がそう見せているのか、それとも今が夜なのか。ぱっと見て判断がつかない程辺りは薄暗い。しかし、木々の合間に咲く青みがかった花の光や、青白い光を纏う光虫が辛うじて照らしているお陰で、迷わずに済みそうだ。特に岩近くに流れる小川には、とりわけ多くの虫が集まっている。小さな光の集合によって、森そのものが光るっているかのようだ。小川の傍なら、水分も確保出来て休息向きだろう。軽く見渡す限り、獣の巣も見当たらず、危険はなさそうだ。
安全を確かめる俺を横切って、彼女は青白い岩の元へ真っすぐ吸い寄せられていった。
「見て。宝石より、ずっと綺麗……」
先程まで疲労が滲んでいた横顔は、つい今しがた見つけた光る花を前に、夢見るような表情に変わる。鼻から下がマスクに覆われていても、今では手に取るように感情が分かる。ずっと横で見てきたからだろう。瞳を輝かせながら、彼女は青い花の前で足を止めた。
岩の周囲に群生する花は、大沼でも水が清浄な場所でよく見られる発光する花だった。花弁が大きく良く目立つ花で、香りはあまりしないが年中咲いている。だから俺にとってこの花はそれほど物珍しいものではない。花を見た彼女の反応の方が新鮮に感じられるくらいだ。
彼女は恐る恐る花に近づき、不思議そうに花弁に触れたり、顔を近づけて香りを確かめたりしている。……仕草が子供みたいだ。微笑ましい光景に緊張が緩む。戦闘続きで疲弊した心は、案外こういう反応一つで癒されてしまうものだ。これは一人では決して味わえない旅の妙だ。そう噛みしめる俺の横で、彼女は花の一つを摘み取った。無駄のない動作。全く鮮やかな手さばきだった。俺が呆れて口を開けるより早かった。
こんなに時間を共有していても、時折、彼女が盗人であることを忘れてしまう。盗んでいない時は、年齢相応の普通の娘にしか見えないのだ。まあ、《盗人らしい》盗人など、そういないだろうが。
彼女はひとたび気に入ったものは必ず手に入れる。欲しいと思ったものへ手を伸ばすことが間違っているか?とでもいうように。共に旅を始めてから、俺は数々の盗みを目撃してきた。全く悪びれず、時に欺き、誘導し、最後には奪い去る。筋金入りの盗人だ。それなのに、稀に見せる無邪気な反応はあまりに純粋で、手癖の悪さなんか忘れさせてしまう。彼女がその気になりさえすれば、盗めるのは備や宝飾品だけではないだろう。
「おい、あんた……」
今更、花泥棒ごとき咎めるつもりはない。しかしこの花に限っては話が変わる。
「その花は……手折ると光らなくなるぞ」
彼女は驚いて摘み取った花を見る。その光はみるみるうちに失われ、やがてただの萎びた白い花になった。彼女は目を丸くし、助けを求めるように両手に乗せた花をこちらに差し出す。俺にできることなどなく、ただ頭を振る。
「その花は……根から吸収した養分を糧に光るんだ。だから、摘むと光らなくなる。手を伸ばしたくなる気持ちは分かるがな」
俺の返事に、彼女は気まずそうに視線を落とした。
花を手折るくらい、盗人じゃなくとも誰しも覚えがあるはずだ。一輪くらいなら、バチが当たることもないだろう。だが、彼女にとって余程気に入った《獲物》だったのか、意外なほど落ち込んだ様子を見せた。すっかり表情は曇っていて、両手の中で輝きを失ったその花を眺めている。彼女はしばらくの間何も言わず俯いていたが、やがて手近な岩の上に、弔うように優しく花を寝かせた。
自然に馴染みのある呪術師といえど、花を蘇らせてやることはできない。せめて気落ちした彼女を温めてやれるようにと、土に枝を並べ火を焚いた。手招きする。彼女は焚き火を挟んだ向こう側に足を抱えて座り込んだ。
「……」
彼女は火に両手をかざしながら小さくため息をついた。
「花が一輪萎れただけじゃないか」とは言い難い雰囲気だ。花は見渡せばまだ、いくらも咲いている。それなのに、何が彼女の心を動かしたのか、俺には見当がつかなかった。励ましの言葉を掛けてやりたくとも、掛けるべき言葉が分からない。人と深く関わることを避けてきたツケが回ったのだと思いながら、ただ沈黙を聞いていた。
「師匠は……」
焚火が弾ける音の向こうで、舞い上がる火の粉を掴むように彼女は手を握った。
「心から欲しいと思ったものが、手を伸ばせば壊れてしまうと分かっている時。手を伸ばす? それとも……諦める?」
薄いヘーゼルグリーンの瞳がじっとこちらを見つめる。先ほどの花の話だろうか。少し考え込む。俺はきっと、花を手折ることは出来ないだろう。
「俺なら、そのまま咲かせておくだろうな。自分の手で何かを壊してしまうのは恐ろしい」
「壊してしまうとしても、絶対に手に入れたい。……なんて思わないか」
「……あんたは違うのか?」
「ふふっ。それは見ての通り。欲をかいて、自分の物にしてしまいたいと思って……結局壊してしまう。盗人の悲しい性だね」
皮肉っぽく笑って、彼女は花の方を振り返る。周囲の花の淡い光が、もう光らない岩の上の萎びた花を無情に照らしている。
盗賊らしい答えだと思った。欲に目が眩み、危うい選択を選ぶ。そんな様子を実際に何度か見てきた。欲しいものには迷わず手を伸ばす、その姿勢に惹かれるところもあった。彼女の持つスキルは、俺が大沼で学んできたものとは全く異なる処世術だ。欲しいものを我が物にする意思と力強さ。彼女のように器用で、身軽に生きられればと願ったことは幾度もある。
同時に、彼女の貪欲さは己の中で脈打つ野心を思い起こさせる。まだ見ぬ呪術の故郷と、未知の呪術の探求。胸の奥に秘めた、尽きることない炎への渇望。それを忘れるなと言われているようだった。もしあの花が俺の求める未知の呪術だったら……俺は同じように手を伸ばせるだろうか。いや、迷わず手を伸ばすだろうな。手を伸ばせば何かが壊れてしまう代物だったとしても。きっと、彼女に伝えた返答は、俺自身への戒めでもあった。そうあるべきだという理想。師として格好良く見られたい気持ちも、あったのかもしれない。
彼女は焚き火に向かって小さな石を転がした。
「綺麗なものほど、欲しくなるのに……手に入らない」
「ああ。それはよく分かるよ。呪術も似たようなものだ。俺の師匠が言うには、火への憧憬の強い者が、その神秘の一端を手にできるらしい。つまり、あんたの性分は呪術に向いてるぜ」
「……またすぐ呪術の話になる」
手痛い指摘に苦笑を溢すと、つられて彼女も笑い出す。ひとしきり二人で笑い、ようやく焚火の熱を感じた。
じんわりと指先を温める焚火。よく見ると、火は先ほどよりも弱まっている。彼女をどう励まそうか悩む間、火加減の調整がうまく出来ていなかったみたいだ。薪を焚べようと思い立つ。しかし、適当な枝は手近にない。水辺が近いせいか、辺りの葉はどれも湿っており、燃やすのには適していなかった。もう暫くはこのままでも持つだろうが……薪がなければ朝まで凍えて過ごす羽目になる。腰の手斧を握り、おむもろに立ち上がった。
「薪を探してくる。あんたは火を見ていてくれ」
「わかった。気を付けて」
幸い、少し離れたところに切り株が見える。あの辺りなら、焚き火からそれほど離れることなく、薪探しができるだろう。鼻先を掠めて飛ぶ蛍の群れに導かれるように、切り株の方へと足を進めた。

******

小さな焚き火の前に一人取り残され、少しだけ心細さに駆られる。
彼が使命の旅に帯同する前は、一人きりの旅を孤独と思うことなどなかった。それなのに、一体いつから私は人恋しさを感じるようになったのだろう。昼も夜も一人きりで生きていた生活が、遠い昔のように思える。彼が側にいない時、私は何を考え何をしていたのか、今は全く思い出せない。
それくらい、あの《自称人嫌い》の呪術師の存在が当たり前になっていた。
この頃は旅の終わりのことばかり気になっている。戦闘に身が入らないことがあるくらい。彼が目的としている呪術の故郷イザリスを見つけたら、私はまた一人に戻る。隣に誰もいない感覚を思い出せなくて……内心、不安だった。
なにも彼の呪術だけを頼りにしているわけではない。強敵を前に励まし合い、勝利を分かち合う仲間がいること。思いやってくれる温かい言葉があること。かつては予想もしなかった環境が、当たり前だった《孤独》を忘れさせてしまった。今の私には、《孤独》がどれほど寒いかすら思い出せないのだ。
だから、いずれ訪れる未来を見て見ぬふりしながら、せめて隣にいるうちに彼のことを知ろうとした。いつか一人になった時、それを灯火代わりに抱いて孤独を慰めるために。
彼が何を感じ、何を思うか全て知りたい。そう願うのは、呪術を知る師への憧憬なのか……それともまた別の感情なのか。霧の深い森を彷徨うが如く、正体の掴めない感情に思い煩う時間が増えていた。
「自分の手で壊してしまうのは怖い」か。彼の言葉を思い返してなぞる。こんな私だって、その感情には身に覚えがある。
深く被ったフードの下から覗き見える笑顔を、瞳を、自分だけのものにしたい。単純な所有欲とも似て非なる思い。しかし、一度この感情に名を与え正体を暴けば、彼との師弟関係や友情が壊れてしまいそうで恐ろしい。それ故、この感情に名は与えず、目を逸らし続けてきた。いつか終わりのくる旅。この手で壊してしまうくらいなら、怪物のように予測も制御もできない感情は、土を掛けて埋めてしまうのが良い。彼の言葉を借りるなら、花は手折らず咲いているのを見るべきなのだ。岩の上に横たえられた萎れた花も、それが賢明だと云っている。
ただ火が絶えぬよう見守るのは、存外退屈だった。と腰を上げ、辺りを見渡す。火の近くには、これといって目ぼしいものは何もない。薪になりそうな乾いた枝もなく、あるものといえば湿った草土と落ち葉、萎れた花を取り囲む、まだ光っている花。木の根を覆う苔と水辺の植物。あとは、妙に青光りしているきのこくらいだった。先ほどの光る花といい、この辺りの植物は何か不思議な力を帯びているかのように、幻想的な青い光を放っている。蛍とも違うその光は、祭祀場の魔術師が教えてくれた魔術の矢の色に似ていた。
あの花ほど目立った光を放っているわけではない。だが、その水縹の光も十分私の関心を引いた。陽光が降り注ぐ祭祀場で見た、ラレンティウスの瞳の色に似ている。目深に被ったフードの下に秘めた、清流のように澄んだ色。それとよく似た色彩の柔らかな光が、きのこの傘の上から優しく周囲に光をもたらしていた。
青い花に手を伸ばしたのと全く同じ理由で、私は自然にきのこの方へ引き寄せられていた。自分でも愚かだと思う。花を萎れさせたばかりなのに、もう次の獲物が欲しくなっている。人目を避け、森の奥深くでひそやかに命を燃やすきのこ。他人に誇示するため美しくあつらえられた宝石にはない輝き。金銀や宝石をくすねてきたからこそ知っている。金銀硬貨で買えない、値がつかないものの価値を。本当に価値があるものは、鍵をかけた宝箱の中にはない。それを私に教えたのは——皮肉にも、この奇妙な使命の旅の同行者だった。
全てを平等に柔らかく照らす、優しい光。見れば見るほど誰かの瞳の色そっくりだ。先ほどの花のこともあり、すぐに手に取ることはせず、慎重に顔を近付ける。すると、ほのかに爽やかで甘い香りがした。彼が旅の傍ら、好んでよく食べている木の実の香りに似ている。何という名だったか忘れたが、大沼にもある木の実らしい。香りが似ているなら、似たような味がするだろうか。試しに一つ手に取ってみると、発光していたきのこは輝きを失い、鮮やかな青さも失われ、根本から傘まで全てが白一色へと変化した。
……やはり、手折るべきではないということか。月明かりのような蠱惑的な光は、もう二度と戻らない。手に入らないからこそ美しいのだと、盗人に知らしめるかのようだ。見張りのいる城から宝石を盗み出すより難しいこともあるのかと、苦笑する。
もう思い入れのある色ではないが、この香りなら食用に用いることができるかもしれない。彼に見せて判断してもらおう。香りも似ていることだし、もしかするとこれも好物かもしれない。好物であれば良いなと、身勝手な想像を膨らませながら、両手がいっぱいになるまでそのきのこを摘み取った。焚火から見える範囲のきのこを取り尽くしたところで、再び火の前に腰を下ろし、彼の帰りを待った。揺らめく焚火の中に、また誰かの姿を重ねていた。

******

見当をつけていた切り株の周辺には、薪の端材のような木片がいくつも落ちていた。自然に発生したものではなく、明らかに人の手が入った木材。こんな森の奥に人の営みの痕跡があるのは少し不自然だ。俺たちのような旅人が、他にもいたのだろうか。山賊などの輩が潜んでいる可能性もないとは言い切れない。そうとなれば、早めに戻った方が良いだろう。気持ち急ぎながら、横たわる端材に斧を叩き入れた。部分的に腐った木は、大して力を入れずとも容易に割れていった。
「こんなもんか」
これだけあれば、間違いなく朝まで持つだろう。薪になりそうな木材をあらかた拾い終え、帰路に就いた。
その道すがら、切り株の影に白いきのこが群生しているのを見つける。よく見知った色、特徴的な傘の形。これは大沼でもよく見る、湿地に群生する食用きのこだ。神々の国にも生息しているとは思わなかった。まさかこんなところで出会うとは。……彼女の口に、合うだろうか。
彼女がエストや苔玉以外のものを口にしているのは見たことがない。まぁ、物は試しだ。たまの食事は気晴らしにもなるだろう。群生している中でも、とりわけ大きく形の整ったものを手に取り、土産のつもりで腰の巾着に入れる。彼女がどんな反応をするか楽しみで、ぬかるみを歩く足も不思議と弾むようだった。
足取り軽く彼女の元へ戻った。焚き火は先ほどよりも勢いを失っており、彼女は火の前で膝を抱いて座っていた。
「少し待たせたな。……寒いか?」
「火は弱まったけど、大丈夫だよ。無事でよかった」
腰を下ろし、薪をくべていく。少しすると、火は順調に勢いを取り戻していった。安心して一息つく視界の端に、白いきのこが沢山あるのが目に入った。俺が収穫したものではない。彼女の小脇にきのこが沢山あるのだ。先ほど俺が採ったものより少し小振りで歪だが、恐らく同じものだろう。思わず苦笑し、腰の布袋に手を伸ばした。
「それ、あんたも見つけたのか? 俺も同じものを見つけて採ってきたんだ。一緒に食べようかと思って」
よく見えるよう掌に載せて差し出すと、彼女は目を細めた。
「……同じものを?」
「そうみたいだな」
師弟は似ると言うが、こんなところまで似てくるのか。
「これ、毒はないの?」
彼女は俺の手のひらに置かれたきのこを訝しげにまじまじと見つめている。
「大沼のものと同じものなら、毒はないな。俺の師匠が好きだった」
「ふうん?」
薪をくべ勢いを増した火の周りに、きのこを刺した枝を立てていく。彼女も自分の採ったきのこをてきぱきと並べ、焼けたものから裏返していく。彼女の採ったきのこの方は、小さく形が不揃いなものの、数が多い。俺の採ったきのこは傘の部分が大きく、形が整っている。せっかくならば彼女には綺麗な方を食べてもらいたい。満遍なく綺麗な焼き色がつくよう、串を動かして調整した。
穏やかな時間だ。使命や戦闘で奔走するのも悪くないが、俺はこういう時間の方が好きだ。そう思いながらぼんやりしていた俺に、彼女は焼き上がったきのこの串を差し出した。
「くれるのか?」
「一番綺麗に焼けたから……これは師匠に」
さりげない彼女の思いやりに胸が詰まる。
「ありがとう。ほら、これはあんたに」
自分が採った大きく形の良いきのこの串を手渡す。結果的にそれぞれが採ったものを交換した形で、盃を交わすように互いにそれを掲げ交わした。
焼きたてのきのこから立ち上る湯気は、美味しそうな香りを鼻に運ぶ。呪いでとうに失せてしまった食欲すら刺激する良い香りだ。ただ、それよりも俺の気を惹きつけるものがあった。マスクを外した彼女の素顔だ。彼女はエストや苔薬を口にするとき以外、いつも顔の半分をマスクで隠している。たまにしか見せないその顔を見られるのを密かに楽しみにしていた。
「……おいしい」
マスクを完全に外した彼女は、無防備にきのこを頬張っている。戦場でエストを飲むときとは異なり、とても穏やかな表情だ。こうしていると、本当に普通の娘だ。武器を持たず生きていたとしても不思議ではない。不死の呪いと使命さえなければ、きっと今もどこかの国でのらりくらりと盗みをしながら、それなりに平穏に暮らしていたに違いない。そんなことを想いながら、自分が食べるのも忘れてただ彼女を眺めていた。
「師匠、食べないの?」
「ん? あ、ああ……」
怪訝そうな声にはっとし、慌ててきのこを口に放り込む。横顔に見惚れていたなんて知られたら、また揶揄われるに違いない。俺が急いできのこを貪るのが可笑しかったのか、彼女はあどけない表情で笑った。
「あはは! そんなにいっぺんに頬張らなくてもいいのに」
今まで見てきたどんな表情よりも力の抜けた、屈託のない笑顔だった。そんな笑い方もできたのか。驚きと幸福が胸の奥で湧きあがる。こんな気持ちは初めてだ。焚きつけられた未知の感情を前に、俺はどんな顔をしていいのか分からなくなった。
「……そう、だな。ははは」
こんな単純なことで心を揺さぶられるなどとは思ってもみなかった。彼女は俺の気も知らずに、もう視線を串に向けている。食べるのに夢中になって、小さな口を目一杯開けて頬張っている。なんだか小動物みたいで可愛らしい。俺はすっかり彼女から目が離せなくなり、味も咀嚼も忘れてその様子を見守っていた。
普段滅多に見る機会がないせいか、口から覗く舌がやけに目に留まった。柔らかそうな唇がきのこに押し当てられる。触れたらとても柔らかいだろうな。その感触を勝手に想像して生唾を飲み込む。愛らしい表情を見ていたはずなのに、段々とその姿がなまめかしく見えてくる。何か、見てはいけないものを見ているような……背徳的な気分だ。細い喉が咀嚼したものを嚥下するのすら、煽情的だ。……何を想像している?俺は一体、何を考えてるんだ?
どうにも変な気分だった。温かい気持ちとは別の、邪な想像が思考に混じる。気を紛らわせるべく、俺も彼女に負けじときのこを口に放り込んだ。口元を眺めるだけで、こんなことを考えるなんて……まったくどうかしている。敬意を欠いた邪念を頭から追い払い、今この瞬間に集中しよう。
瞑想の時のように、己の感覚に集中する。こんなに静かな森の中だというのに、鼓動が耳に響くほどうるさい。どくどくと脈打つ度に肺が重くなり、呼吸しづらくなる違和感。それに、心なしか頭と視界がぼんやりして、靄がかかっているようだった。体も少し熱い。……火に近づきすぎたのだろうか。焚き火から少し距離を取り座り直し、彼女に異変を感じ取られないよう食事を続けた。
しかし、やはり彼女から目が離せない。
その小さな口がきのこにかぶりつく度、よからぬ想像が駆け巡る。艶やかな赤い舌が、ぺろりと指を舐めた。ああ、触れたい。自分の舌で、あの舌に触れたら、どんなに心地が良いだろう。
「師匠?」
流石に何か感じ取ったのだろう。彼女は火の横を通り、俺のそばまで来て顔を覗き込んだ。上目遣いでこちらを案じる表情が、背筋に痺れるような刺激をもたらす。火に照らされた白い頬も柔らかそうで、触れてみたい。もし触れたら、どんな顔をするのだろう。そんなことをすれば、きっと嫌われてしまうに違いない。慌てて正気を取り戻す。
「ああ、悪い……喉が渇いたみたいだ。水でも飲んでくるよ」
少し離れた水場で顔でも洗おう。そう思って立ち上がったが、腰に上手く力が入らない。足元も覚束なくて……まるで酒にでも酔っているみたいだ。木に寄りかかってようやく立ち上がるも、なんだか軽い眩暈までする。大沼の質の悪い酒でもこんな酔い方はしない。明らかに何かがおかしい。
「本当に……大丈夫?」
「……大丈夫だ。すぐ側だからな」
彼女の瞳を見るだけで、血が騒ぐような感覚に襲われる。その唇に、肌に、触れたくて、もどかしい。あの柔らかい唇に噛み付いたら、さぞかし美味いだろう。気を抜けば獣みたいなことを考え始める自分に、嫌悪を覚える。最低だ。こんな風に彼女を見てしまうことに罪悪感がある。
青い花の光に照らされた小さな水辺は、透き通った清浄な水で満ちている。その冷たさが、今の俺には心地よかった。両手で掬い慎重に口元に運ぶ。しかし手が震えていて、水は指の隙間から溢れてしまう。何度か掬い直し、やっとのことで口に入れた水も、飲み込むと喉を焼くように熱い。喉から胃に流れ込む灼熱の水にむせ込み、慌てて胸を叩く。
よく見れば、水の底の方にふやけた綿のような……青い塊が落ちている。とても柔らかく、摘むと容易く解けてしまう。これは菌糸か?嫌な予感がして辺りをよく見ると、彼女が摘んだあの青い花とよく似た光を放つきのこがある。
「まさか、な……」
青いきのこの内いくつかは、ところどころ白い傷が見える。試しに傘の一つに爪で傷をつけると、きのこはその傷を中心に白く変色していった。根本から摘み取ると、青い光はみるみるうちに失われ、瞬く間に白一色に染まる。まるで初めから白いきのこだったかのようだ。
……全て合点がいった。彼女が採ったきのこと、俺が採ったきのこは別物だ。彼女が採ってきたもの。つまり、俺が食べたきのこの本来の姿は、この光る青きのこというわけだ。
これがそうかは定かではないが、大沼で使われる薬の中に、白きのこを原料にしたものがある。乾燥させて砕き粉末状にして用いる薬だ。滋養強壮や媚薬効果、果てには幻覚の効果まである作用の強い薬で、まともではいたければ、口にすべきでない代物だ。大沼に辿り着いた異端の中でも、尋常ではない者が縋る。俺の予感が正しければ、目の前にある白きのこは恐らく、その薬の原料だ。確証はないが、それで全て説明がつく。
それならこの体の反応にも納得出来る。動悸も、めまいも、じくじくと熱を帯びていくような気だるい感覚も。全てこのきのこのせいだ。よからぬ想像も……恐らく幻覚が誇張して見せているのだろう。時間が経てば収まるだろうが、それまでどうしたものかと髭を撫でる。
待てよ。そういえば、彼女の採ったきのこは、俺の物より数が多く、まだ残っていたはずだ。早く戻らないと、彼女までこれを口にしてしまうかもしれない。不自由な身体に鞭を打って、彼女の元へと急ぐ。相変わらず足は縺れそうになるが、この旅始まって以来の火急の事態ともなれば、甘えたことは言っていられない。

******

熱っぽく、どこかぼんやりとした目。優れない顔色。立ち上がるのにも一苦労といった様子で、足取りもふらついていた。明らかに様子のおかしい彼を見送り、何が原因なのかを考えていた。
食事をする前は問題なさそうだったことを踏まえると……恐らく、今食べたきのこの所為だろう。きのこの生食は禁忌だ。もしかすると、私の焼いたきのこが生焼けだったのだろうか?焼け具合が足りないまま彼に渡してしまった可能性は充分にある。
試しに、一番最後に焼いたきのこをひとつ口に入れてみる。火はしっかり通っていて、食感も生ではない。ただ、気になるとすれば、先ほど食べたきのことは食感や風味が若干異なっていた。焼け具合だけでこんなに味が変わるものだろうか。それとも……たまたま今口に入れたものが、味が悪いものだったのだろうか。もう一つ食べて確かめてみようと手を伸ばしたところで、後ろから腕を掴まれる。
「?!」
驚いて咄嗟に短刀を抜こうとするが、利き腕を掴まれていて反応できない。慌てて左手で呪術の火を構え振り向くと、血相を変えたラレンティウスが、少しばかり乱暴に肩を掴み声を荒げた。
「食べたのか!?」
「一口だけ……火が通っているか確認したくて……」
私の回答に彼は安堵の声を漏らした後、困ったように頭を搔いた。
「一口なら、まぁ……大丈夫だろう。その、いきなり腕を掴んで悪かった」
穏やかな彼が声を荒げるのはとても珍しい。これまで聞いた中では戦闘中くらいだ。それもたった数回。余程のことがなければ、こんなに声を荒げることはない。
「このきのこに何か……?」
私が顔を覗き込むと、彼は答えにくそうに目を泳がせた。
「いや……別に大したことはない。心配するほどのことはないんだ。それはそうと、あっちの水は飲まない方がいいぜ。気味の悪い虫がいたからな、はは……」
明らかに、挙動も言動もおかしい。先程までの体調が優れない様子とはまた違い、今度は何かを誤魔化しているようだ。盗人の目を欺けるはずがない。訝しみ彼の目を覗き込もうとすると、今度は両手で肩を掴まれる。
「……っと。それ以上は近付かないでくれ」
「……?」
「頼む、理由は聞かないでくれ。出来れば……今は俺の方も見ないでくれ。どうにかなっちまいそうなんだ……」
さっぱり訳がわからない。その頬は見るからに上気していて、額に汗まで浮かべている。熱でもあるのかと手を伸ばすと、今度はその手を掴まれる。
「頼むよ、触らないでくれ……俺は大丈夫なんだ。……本当に」
全く大丈夫には見えない。こんなに様子がおかしいのに、旅の朋輩として出来ることがないのはどうにも歯痒い。やはりきのこのせいだろうか?先程口に運びかけたきのこをもう一度口へ運ぶ。すると、またしても慌てた様子で彼が私の手を口から遠ざけようとする。
「ダメだ。これは食べない方がいい」
「どうして?」
「その……いや……。どうしてと言われれば……どうしても、だ」
しどろもどろで要領を得ない彼の返事に痺れを切らし、掴まれていない方の手できのこを口に放り込んだ。それを見た彼は短い声を漏らした後、心配そうに私の顔を覗き込んだ。間違いない。このきのこに原因がある。
「このきのこ……毒でもあるの?」
「毒がないといえば……嘘になるな。ただ、少量なら少しふらつく程度で済むはずだ。あんたが食べたくらいなら、きっと平気だ。厄介なのは……毒というより、他の影響でな」
ラレンティウスは視線を泳がせて、言葉を詰まらせる。かと思えば、今度は大袈裟なほど深く息を吸い込み、吸い込んだ息をゆっくりと吐き出す。全部吐き切った後、目を伏せ言った。
「元は薬の材料なんだ。薬といっても、病を直すものじゃない。適量なら、滋養強壮や夫婦和合の秘薬に使われる。それ以外では、幻覚を見たりして、現実から逃避するための……異端の中でも、道を踏み外した者が頼るものだ。……あんたの国にも、きっとそういうのがあったろう? つまり……そういうことだ」
彼はこちらが恥ずかしくなるくらい顔を真っ赤にして俯いた。
「夫婦、和合……」
なんと声をかけて良いか分からず、今度はこちらが狼狽える番だった。彼は私を掴んでいない方の手で口元を覆っている。その指の間から見える肌も耳も、火のように真っ赤だった。
「……どうしたら治せるの?」
「時間が経てば、良くなるはずだ。まあ……とりあえず、俺のことは放っておいてくれ。食べた量が悪かったのか、あんたのことを見ているだけで、おかしくなりそうなんだ……」
そう言って私の手を離すと、彼は瞑想の姿勢を取って自分を抑え込むよう腕を組んだ。
しばらく沈黙が続いた。焚き火が時折爆ぜる音だけが森の中に虚しく響く。お互い、石化したかのように身じろぎ一つできないまま、ただただ時間だけが過ぎていった。
******

顔から火が出そうなほど熱い。いや、顔だけじゃない。体の内が煮え立つように熱かった。熱にうなされている時のように、頭も上手く働かない。大沼の師に初めて呪術の火を分け与えられた時だって、こんなに熱くはなかったはずだ。
彼女が俺の体に触れようとした時、自分の奥深くに隠された本能が目覚めたのを感じた。そのまま力尽くに押し倒して、彼女の柔らかい肌や唇を我が物にしたいという、衝動。咄嗟に肩を掴んで距離を取ったが、いつまでこの衝動を抑え続けられるか、自分でも分からない。過ちを犯さない自信がない。
彼女はいわば俺の弟子で、命の恩人で……大切な友人なのに。身体はそんなことお構いなしに、彼女を異性と認め反応してしまっている。華奢な腕も、肩も、仰ぎ見る目も、今はその全てが、爛れた欲望を呼び覚ます口火に他ならない。今だって、邪な空想が沸き起こるのを、なんとか振り払おうとしている。気が緩むと、彼女の艶めかしい舌や唇を思い出して、気が狂いそうだった。
こんなことを考えていると知られたら、間違いなく嫌われる。下手をすれば今後俺から呪術を教わることもなくなるかもしれない。……それだけは嫌だった。
「あんたは……大丈夫そうか?」
背を向けたまま声をかける。俺の食べた量でこれなら、彼女も少なからず影響を受けているだろう。
「……若干、体が熱いかな。動悸もする……変な感じ」
少し上擦った声から戸惑いが滲んでいる。こんな状態でさえなければなんとかしてやりたかった。だが、実際のところはきのこの解毒方法が分からない以上、お手上げだ。今の俺にできることは、昂りが収まるまで彼女から離れて、瞑想をすることくらいだろう。
「……ごめんなさい」
聞こえるか聞こえないかくらいの小さな声で呼び掛けられる。その申し訳なさそうな声色に、居ても立ってもいられず振り返る。彼女は自分の両膝を抱いて、座り込んでいる。
「こんな効能のきのこだと知らなくて……沢山食べさせてしまったから」
それは仕方のないことだ。彼女が知るはずもない。俺が彼女の採った白いきのこを見て、自分が採ったものと同じだと早合点しただけだ。不明瞭な頭でなんとか励ましの言葉がないか探す。しかし、俺が言葉を見つけるより先に、彼女はおずおずと口を開いた。
「もし辛かったら……その、私が責任、取るから……」
「責任? ……どういう、意味だ?」
彼女が責任を取る?言葉の意味を理解するまでに暫くかかった。事態の責任を取るということか?彼女が言わんとしたことを理解し、また顔が熱くなる。火を跨いだ先にいる彼女の顔は、火よりもっと赤い。こんなことを言わせてしまったのが情けない。
「いや! あんたは悪くないさ。これは俺の不注意が招いたことだ」
「でも……」
夜の森の空気はひんやりと冷たいはずなのに、その感覚すら忘れさせるほど、体は熱を帯びていた。病の最中のような灼熱感に「本当にこのまま時が経つのを待てば治るのかという疑念がよぎる。まだ辛うじて本能に抗っているが、理性を失い、亡者のように彼女に襲いかかってしまわないか。それだけが気がかりだった。
「あんたは俺にとって……大事な存在なんだ。こんな成り行きで責任を取らせるなんて……そんなことは絶対にしたくない」
「……私は、師匠なら……いいよ」
その消え入るような小さな呟きは、熱ではっきりとしない頭に、冷水を浴びせるのと同様の衝撃を与えた。頭の中で言葉をなぞる度、言葉の意味が分からなくなる。いいってことは……そういうことなのか?見て見ぬ振りをしていた疑問が鎌首をもたげる。
俺が彼女を想うように、彼女も俺を特別な存在だと思っていたら?
そうあればいいと願ったことは何度もある。だが、そんなことは決してあり得ないと思っていた。こんなきのこを食べなくたって考えたことはある。この旅が終わった時、彼女の中で俺はどんな存在になるのかと。師や友人で満足できるのか?決して手を触れぬまま、遠くから花の輝きを愛でるだけで本当にいいのか?岩の上の萎れた花が俺に問う。心に芽吹いた懊悩が、糸操りのように俺を動かそうとしていた。
「……俺も、あんたなら……」
そう言いかけて、口を噤む。このまま彼女に触れたとして、その先は。今のこの状態では、一度触れてしまえば、もう二度と自分が抑えられなくなりそうだった。花など容易く踏み躙ってしまいそうなほど、心を焼く火は燃え滾っている。彼女が相手となれば尚更、抱いてきた想いの分だけ止められなくなりそうだ。
俺にとって彼女は、この鬱蒼とした暗い森を照らす、あの青い花の光と同じだ。他のどんなものより目を引く、一際美しい光。それがたった一度の過ちで光を失い萎びていくのは嫌だった。たとえ彼女がそれを許したとしても、俺は静かで穏やかな今の関係を、そんな風に終わらせるつもりはない。失われて二度と戻らないくらいなら、淡い幻想のまま咲いていた方がずっといい。少なくとも今は、心の底からそう思う。
彼女の言葉で沸き上がった心を鎮めるため、もう一度深く息を吸う。ひやりとした森の空気が肺に満ち、少しの間熱を冷ました。
「いや。……あんたを大切に思うからこそ、こんな成り行きでは触れたくない。もっと時間をかけて、あんたのことを知りたいんだ」
静寂を埋めるように篝火が弾ける。彼女はそれ以上何も言わず、俺の目を見て頷いた後、再び膝を抱いて篝火に向き直った。今夜は、俺も彼女も一夜の燐火に惑わされただけだ。まだ長い旅の途中。こんな夜だってあるだろう。
岩の上に置かれた萎びた花を手に取り、最後の薪と共に焚き火の中に放り込む。まだ僅かに水分を含む茎は、激しい火の粉を巻きあげながら炎に沈んでいく。弾けるような音も茎も葉も全て炎に飲まれていった。俺の体を燻る青い熱が抜け切る頃には、この花は燃え尽き白い灰になっているだろう。
微睡に誘われたのか、彼女は眠たそうに目を擦っていた。俺と彼女の間に咲く花は、きっとまだ美しく光っている。燃えるような情欲に身を任せなくとも、いつかこの感情が自然に芽吹き、花開く日が来る。そう信じられるのは、静かに燃える心の温度が、燐火にも勝ることを確信しているからだろう。音や煙なく燃える、高温の炎は青い。純粋に燃えるこの情は、間違いなく。

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