お気に入りのカーディガンの袖口を掴んで、ジャケットに勢いよく袖を通す。あまり着ることのなかったジャケットは、クリーニングに出したわけでもないのに糊で少し硬く、新品のように綺麗なままだ。きっと今年もあまり着ない。でも「今日くらいは」と思い、クローゼットの奥で慎ましく身を寄せていたのを引っ張り出した。
新学期を祝うみたいによく晴れた空。綿雲のアクセントを携え、澄んだ色を纏う今日の空は新しい季節に相応しい装いをしていた。雲の輪郭がはっきり分かる青。それを見て連想ゲームみたいに誰かの顔を思い浮かべて……手元に視線を落とした。
袖から覗くお手製のジェルネイルは我ながら惚れ惚れする出来栄え。空色に桜色が滲んで溶けていくベースの上に桜を模したラメを散らしている。雑誌の占いで見た今週のラッキーカラーと、私が好きな《誰か》の瞳の淡い色。その両方を取り入れたさりげない恋のおまじないだ。中々……いや、かなりかわいいと思う!きっと先生は気が付かないだろうけど、もし気付いたりしたら……なんて甘い夢想をしながら鏡の前で一回転する。
新調したシュシュも、メイクも、3回折ったスカートもばっちり。おろしたてのソックスの感触を味わおうと、爪先が踊りたがってむずむずする。頭のてっぺんから爪先まで完璧。隙なんかない。問題があるとすれば……もう30分くらい鏡の前でこうしていて、登校時刻ギリギリってことくらいだ。去年より装飾が質素になったスクールバッグを引っ掴んで、慌てて玄関に向かう。
今年初めの登校日、始業式ともなれば気合を入れないわけにはいかなかった。なぜなら今日は、一大イベント《クラス替え》の日だから。学内の友達が多くない私にとって、クラスメイトは誰になろうとどうでもよかった。でも、担任と副担任の発表は私にとって何より大きな意味を持つイベントだ。
新人で担任を持っていなかった先生が二年で急に担任を任される可能性は低かったとしても……もし副担任だったら、同じ教室で過ごせるかもしれない。それで今朝は、知りうる限りの願掛けと、お守り代わりの特製ネイルの完全装備で挑むことになった。普段はろくに信じちゃいない神様に、指を組んでお祈りまで捧げた。それさえ、もう五回目だ。祈った回数で確率が上がるわけでもないのに、何度も両手の内に願いを閉じ込めた。
「はー、ドキドキする……」
クラス替えじゃなかったとしても、先生と会うのは久しぶりで心の底から緊張していた。間違いなくこの春休みの二週間が人生で一番長かった。毎日先生が採点してくれた小テストの筆跡を指でなぞりながら、早く始業式になればいいのにと思って過ごした。その間中ずっと自動でリピート再生されていたのは、春休み前最後の登校日の前日。私の学校生活史上、とびきりおかしなことが起きたあの日のことだった。
昼休みに先生がわざわざ私を見つけにきて、バレンタインのお返しをくれた日。放課後、少し遅れて準備室に行ったら、いつもと少し様子の違う先生が何かすごく大切なことを言い掛けて……でも結局、チャイムに遮られて聞こえなかった例の出来事。私はあの日のことを《放課後チャイム事件》と名付け、探偵よろしく先生が口にしかけた言葉を突き止めようとした。前後の文脈から何を言おうとしたか考えたり、あの時の口の形を必死に思い出して読唇したり。知識や記憶を尽くしようやく導き出せたのは……たぶん五音くらいの言葉だったということ。口の形からして《好きだった》《愛してる》なんて愛の言葉ではなさそうだ。でも、きっと大事なことだった。先生を誰より追いかけてきた私が見た中でも、類を見ないほど真面目な表情で……だから余計気に留まっているのかもしれない。
事件について数少ない友達に相談し尽くし、それでも答えが出ず悶々と過ごすうち、ついには腐れ縁のパッチにまで相談した。成績はともかく地頭が良いし、もしかしたら男心が分かるかもしれない……なんて思ったのが馬鹿だった。補足しながら連投した私の相談に対し、パッチからの返事はただ一言。
「《口臭い》だったらどうする?」だ。それを見て閉口する間に、煽りみたいなスタンプの追撃があった。相談したことを本気で後悔しながら、万が一にとこの二週間は本気で口臭ケアに努める羽目になった。
血迷ってパッチに相談した私が悪いけれど、次会うことがあれば、絶対あいつの前に好きな子を呼び出して反応を眺めるって決めた。勝手にツーショ撮ってハート書いて送りつけてやる。乙女を揶揄った罪は必ず精算させよう。
結局《放課後チャイム事件》の謎は誰も解けないまま、「いつか絶対話す」という小指で交わした約束だけを頼りに今日を迎えた。あれから変わったことといえば、通学路を吹き抜ける風の温度が冷たさよりも生温さに変わり、街路樹の中にちらほら桜が混じっていることくらい。私の心はまだ肌寒いホワイトデーの黄昏時にずっと囚われたままなのに。桜の季節も先生も、あの日のことなんか気にも留めず早足で通り過ぎていくのだと思うと、なんだか小憎たらしかった。
遅刻しない程度の駆け足で眺める通学路は、すっかり春の景色に様変わりしている。地元で有名な桜並木はまだ蕾ばかりだ。しかし、ちらほら咲いたせっかちな花びらは、惜しげもなく空と地面を淡い色で飾っている。満開まできっともう少し。先生は桜が好きかな、なんて考えながら、宙を舞う自由を満喫している桜のひとひらをキャッチした。今日のラッキーアイテムは桜。ピンク色したハートの花なんて……恋する乙女にぴったりだ。これがクラス替えに影響するかというと、多分しない。でも、験担ぎなんかいくらあったっていい。この世のありとあらゆる願掛けを試したって、叶うか分からない恋だから。
ホームルームまでの時間を逆算して、校門から玄関前までのラストスパートをかける。遠くからでも分かるお馴染み生徒指導の先生たちの中に見慣れたシルエットを見つけた。
「……せんせ!?」
驚きすぎて危うく躓くところだった。どうしよう。生徒指導の先生に崩れた前髪を見られるのはいつものことだけど、先生に見られるのは絶対嫌だ……。早歩きまでペースを落として、走ってめちゃくちゃになった前髪を撫で付ける。まだそんなには崩れてないよね。歩きながら折ったスカートを戻して、胸のリボンを締め直して、ネイルは……カーディガンの袖伸ばしたらなんとかなるかな。他の生徒と話している生徒指導の先生の横をすり抜けて、先生の列に並ぶ。似合わない腕組みをする先生は、私を見つけるなりクスッと笑みを溢した。
「おはよう。新学期早々寝坊か?」
「先生、おはよ……」
朝、最初に出す声だってこんなに掠れはしないだろうに。思ったよりも自分の声が小さくて自分で驚いてしまった。二週間ぶりの先生は、笑顔が直視できないくらい眩しい。金髪が春風でゆるやかに靡くたび、朝日を反射して透き通っている。普段は着ていないジャケットを着ている所為か、濃色のスーツの色と明るい髪のコントラストでいつもより《教師》らしくも見える。それなのに笑顔はふにゃって効果音が付いていそうなほど柔らかくて……こんなにも眩しく見えるのは、久しぶりだからなのかな。胸を刻むリズムが容易く乱れていく。
「……」
先生はバインダーに挟んだ点検項目のプリントと私の服装とをひとつひとつ見比べながら目を細める。違反に気付いてないはずはない。ただ、わざと目を細めてなるべく見ないようにしてくれているみたいだ。
「ふむ……」
「今日くらいは……ちゃんとしてるよ?」
実はちょっと詰めちゃってるスカートの裾を引っ張ってギリギリまで下げつつ、念入りに爪を隠す。本当は全然ちゃんとなんかしていない!珍しくジャケットを着てきた以外は大体いつも通りだ。特にシュシュなんか、派手な装飾は禁止だから没収されてもおかしくないんだけど……あ、気付かれた。
「これは……帰りまで預かっておくとして」
するするっとピンクのシュシュを没収されて、気合の入ったポニーテールの上が少し寂しくなる。今週のラッキーカラー持っていかれちゃった。でも先生に髪を触ってもらえたから……ラッキーではあるか。雑誌の占いに心の中で感謝しつつ、いつになく鋭い先生の視線に耐えようと俯く。二週間ぶりの至近距離は本当に心臓に悪い。こんなに顔を近付けられたら、アイラインがほんの少しずれたのもバレちゃいそう。始業式から服装点検があるなら教えておいて欲しかった。
「……せんせ? さすがに、もうないよ…? ほら、そろそろ行かないとホームルーム遅れちゃうから……」
これ以上験担ぎアイテムを没収されないうちになんとか切り上げてもらわないと!鞄を盾代わりにじりじり玄関の方へ後ずさると、先生は深くため息を漏らした。「仕方がないな」と言っているみたいだった。それから横目でちらりと他の先生を気にして、こちらに向き直る。背中で他の人の視線を遮ったまま少し屈んだせいで顔が近付いた。一瞬、キスされるのかと思った。先生は私の手首を取って、ワントーン低い声で耳打ちをする。
「……これ、外せないから見逃すが……呪術の授業の時は見逃してやれないからな。今日は袖で隠しておくんだぞ」
きゅん、なんて甘い擬音語じゃ足りない。全力疾走より速い鼓動で、沸騰した血が送り出されていく。顔は《大発火》したんじゃないかってくらい熱い。無意識のうちに息を止めていた。呼吸の仕方を忘れてしまったのかもしれない。服装点検のたった数分だけで、会えなかった二週間分の胸の高鳴りを取り返してしまった。
今のうちにと咳払いで合図する先生の脇を通り下駄箱に向かう。幸い、生徒指導の先生がこちらに気付く前に上履きに履き替えられた。クラス分けが張り出された大きな模造紙から自分の名前を探し出して、なんとか新しい教室に滑り込んだ。私の心だけじゃなく、学校全体が浮き足立ちざわめいていてーーこれが《春》なんだ、と去年は何とも思わなかった季節を肌で感じた。
******
クラス替え後の教室は春の陽気に当てられたみたいな空気に包まれていた。同じクラスになれて喜ぶ女子、早速グループに序列が生まれつつある男子、私みたいに浮いてるタイプ、それともお利口な優等生。悲喜交々の生徒が教師不在のまま同じ教室に詰め込まれるなんて、無秩序を約束されたも同然。都会の喧騒の方がよっぽどマシに感じられるほどうるさくて、私は頬杖をつくふりをしてこっそりイヤホンで音楽を聴くことにした。去年の今頃は興味もなかった流行りの恋の歌を再生すると同時に、先生が触れた手首をぼんやり眺めた。
先生、ネイルに気付いてたな。せっかく見てもらえるならもっとハートのグリッター置けばよかった。ていうか、手首を掴んで囁いたよね!?信じられない。まだ夢を見てるみたい。内緒話する先生の耳打ち声が耳に残っている。起きた出来事があまりにも非現実的で、歌詞が何一つ頭に入ってこない。「恋バナ友達のグルチャに後で報告しないと」なんて思いながら曲を二ループ聴き終えた時、ようやく教室の話し声が落ち着いてきた。先生が来たらしい。
扉が開き切る音より先に、開き掛けの扉の先にいる人の服装が目に入った。ガラガラと音を立て引き戸が迎え入れたのはーー女の先生だ。ショックで言葉を失う私に構わず、黒いマーメイドスカートがひらひら揺れる。ヒールの硬い音が教卓の前でぴたりと止まると同時に、ざわつく教室は一瞬で静かになった。
「馬鹿共、静かに」
凛とした静けさの中に強い意志を感じる声。魔女のような長い黒髪を後ろで一つに纏めている。ほっそりした全身を覆う黒のスーツ。胸元に覗くブラウスまで黒だ。身を包む闇とは対照的に、色を失ったみたいに白い肌。
授業をサボってばかりの私でも知っている。生徒からのあだ名は《魔女》。呪術で成果を上げた、伝説の人。私の好きな先生が、何度も憧れだと言っていた先生。
「今日から、お前たちの担任は私……クラーナだ」
時間が止まったみたいだった。それとも、みんな《魔女》に声を奪われてしまったのか。決して大きな声でないはずの彼女の言葉は、不思議と教室の隅々まで響くようだった。先生が担任じゃないことに落胆するはずだったのに、この人の迫力に圧倒され悲しむ暇もない。声、視線、佇まい。今朝見た先生の姿とは全く異なる魅力が全身から滲んでいる。纏う空気だけでこの人が実力者なのだと分かる。
新担任は一人一人の顔を見るように教室を見渡し、一呼吸置いて自分が入って来た扉の方に視線をやった。誘導された教室中の視線がそこに移る。
「副担任はラレンティウス先生だ。よく覚えておくように」
息が止まった。教壇の横で、少し緊張気味の表情で《先生》が礼をした。途端に、私の心は桜色に塗り替えられる。突風で巻き上げられた桜吹雪のように舞い上がっている。私の春がそこにいた。誇らしそうな満開の笑顔で。
そこから先は、担任の凜とした声すら碌に耳に入らなかった。きっと新年度の挨拶とか、これからのことを話していたんだと思う。でも私は担任より、教室の隅に立つ先生から目が離せなかった。ずっと夢見てた光景。何度も思い描いて、現実になればいいのにと思っていた夢。それが目の前にある。目を擦ってもう一度開けたら、夢だったことになってしまいそうで不安だった。嬉しいのに、嬉しすぎて現実か疑いながら、ただホームルームの終わりを待ち遠しく思う。
先生の視線はずっと魔女の方に向けられていた。時間が経つにつれ次第に堅い表情が柔らかくなり、その視線に混じる感情の色が見える。授業で呪術について熱く語る時と全く同じ顔。……先生って本当に分かりやすい。いつも言ってる《憧憬》。それがまさに顔に書いてある!悔しさや羨ましさも胸の底で燻ったけれど「良かったね」って伝えたい気持ちがギリギリ勝った。……それとも、私でも見惚れるほどカリスマ溢れるクラーナに負けたくなくて……ちょっと強がっているのかもしれない。ポケットの中の桜の花びらを取り出し、ぎゅっと握りしめる。握られた花弁はくしゃくしゃになってあっという間に丸くなる。濃い紅の塊が掌に片思いの色を残した。それは手を洗えば消えてしまうような淡い色だった。
******
ロングホームルームを終えたばかりの構内は、クラス替えと担任発表の余波でまだざわめいている。生徒指導の先生が、たむろする奇跡科の聖女達や、じゃれあって模擬用の剣を振り回す騎士科の男子に目を光らせていた。きっとあと数分もすれば「寄り道せずに帰れ」と注意するだろう。授業のない始業式は居残りが許されない。私だって例外ではない。服装を注意される前に真っ直ぐ下駄箱に向かいかけて……今朝没収されたシュシュを思い出す。そうだ、返して貰わなきゃ。
脱ぎかけた踵をもう一度上履きに滑らせ、生徒指導の目を掻い潜りながら教室に戻った。教室の扉の小窓から、丁度黒板の文字を消す先生の姿が見える。大きく空けた窓から吹き込んだ風がふわりと白衣を靡かせた。
「……先生?」
「おお、あんたか。どうしたんだ? 忘れ物か?」
教室には担任の魔女はおらず、生徒も一人も残っていない。先生一人だったようで、私が声をかけると持っていた黒板消しを置いて、白衣の襟を整えた。
「ううん。あの、シュシュ……返して欲しくて」
「ああ。……これだよな? 始業式から三つも校則違反か。本当なら……反省文ものだな」
先生は朝のように腕を組んで片眉を吊り上げる。そのポーズの慣れなさから、精一杯教師としての威厳を保とうとしているのが伝わってくる。副担任になって、憧れの人の元で働けて、なんだか少し気合が入っているようにも思える。
「でも、かわいいから見逃してくれるんだよね? ……ねっ?」
頬に手を当ててとっておきのウインクをしてみせる。先生は何も言わず、その目は呆れたようにただ細められる。
「去年の担任はそれで許してくれたのか?」
「違うけど……」
交わった視線の奥で何かを思案し、数秒の逡巡のちに先生は再び口を開いた。
「本音を言えば、俺も堅苦しいルールは苦手なんだ。服装を一律にすれば風紀が保たれるなんて思わない。けどな、決まり事を守らないとはみ出し者になっちまうぞ。……俺みたいに。あんたがそうなるのは……嫌なんだ」
ほら、俺は教師の中でも浮いてるだろう?と先生は自嘲気味に笑う。はみ出し者の先生だから重なるところがあって親しみを持っていたのに、そんな言い方はあんまりだ。
「先生と会う前から私ははみ出し者だったと思うよ。……だから、二人ではみ出しちゃえばいいんだよ」
風で送り込まれた桜が教室に一つ舞い込んだ。流れる沈黙を埋めるようにひらひらと花びらは気まぐれに舞っている。教卓の上に落ち着いた桜の一つを拾い上げて、先生はゆっくりと首を振った。
「……とにかく、今度からはだめだ。今日は……今日だけは《特別》だ」
先生は掴んだ桜を空中に返し、宙で転がる花弁を見届けて僅かに口元を緩めた。再び自由になった花弁は先生とは対照的に、元気いっぱいにはしゃぐ子供のようだ。本当に子供でも見ているみたいに先生は眩しそうに目を細めて微笑んでいた。
その時、眠っていた私の記憶が冬眠から覚醒する。見たことがある。桜の軌道じゃない。少し前に先生が放った言葉。その時の口の動きを。……あの日と同じだ。《放課後チャイム事件》の日、放送で遮られ迷宮入りしていた言葉。何度も思い返した音のない言葉。《特別だ》。特別って言ったの?「俺も……あんたが《特別だ》」?
欠けたピースがぴったりと嵌る。そんな訳ないと疑うほど、他の言葉は考えられなくなっていく。絶対にそうだ。でもそうだとしたら……少しは期待してもいいのかな。口に出せない問いの答えを求めて、穴が開くほど先生の顔を見ていた。
「ん? どうした? ぼーっとして」
「……ご、ごめん。春だから、かも」
要領を得ない回答に先生は目を丸くする。
「春だから? ふ、相変わらず……変な奴だな」
風で靡くカーテンと共にまた桜が舞い込んだ。今度はいくつかまとまって飛んで来て、先生と私の間をくるくると踊りながら滑り降りる。親戚の結婚式で見たフラワーシャワーみたいで、勝手に私は幸運の証だと思うことにした。それが全部教卓に落ちるのを見届けてから先生は言った。
「……春といえば、花篝って知ってるか?」
「花篝?」
「夜桜の下でな、篝火を焚くんだ。でも呪術師は篝火の代わりに呪術の火を灯すんだ。風情があっていいぞ。そのまま見るよりずっと綺麗だ」
先生は先ほどまでと打って変わって、少し熱の入った口調になる。二人の間に流れる空気の温度が一度くらい上がった気がした。
「写真映えしそう」
「ああ、きっと映えると思うぞ。でも夜は危ないから……やるなら大人がいる時にな」
「じゃあ、先生が連れてって見せてよ」
先生はまた黙り込んで、散らばった桜を一箇所にかき集めた。集める側から次の桜が舞い込んで邪魔をする。それを一緒に手伝って、並べるふりをしてハート型に整えていく。先生は観念したように呆れ笑いを溢した。
「……あんたが大人になったらな」
「約束する?」
わざと先生の視界に入って仰ぎ見る。恐らく《特別》だと言ってくれたあの日の約束を先生は覚えているだろうかと……探りのつもりで。大人はずるいから、もしかしたら私だけが約束を信じていて、先生はとっくに忘れてしまっているかもしれない。そんな疑いも二週間で何度か芽生えた。先生の口でそれを払拭して貰いたかったのだと思う。先生はなんとも言えない表情で目線を端に落とす。自分の手を持ち上げて小指を少し伸ばした。
「前回のと合わせると、針二千本分になるな」
「覚えてたんだ」
「約束したからな」
新しい桜がまた一つ舞い込んで、ハートの輪の外に落ちた。私がそれを拾い上げてハートに加えると、先生は呟くように言葉を加えた。
「針を飲むことになるのは……あんたかもしれないが」
「私は約束守るもん」
むっとして見上げると先生はからっと笑った。
「『今日くらいはちゃんとしてる』って言って、ネイルを隠してたのにか?」
「それは……ほら、急いでたからさ……」
先生はふう、と息を吐いて冗談めいた口調で「こりゃ証人が要るな」と言った。先生の吐いた息で整ったハートが少し崩れたのを慌てて直す。
「なら、桜に約束しよう? 卒業式の日に桜が咲いてたら、一緒に花篝を見るの」
ハートの輪の上で、人差し指で空中に名前をサインしていく。窓から注がれた陽光がネイルのグリッターをキラキラと反射させた。今度は間を開けずに先生は続けた。
「もう一つ約束してもらうとするか。それまで校則違反はなしだ」
「……ネイルも?」
「呪術の時、溶けたら危ないだろう? 校則違反は爪だけじゃないぞ。スカートも、ブラウスも。……守れそうか?」
先生は小指を差し出し、笑って小首を傾げた。その拍子に前髪が春風にくすぐられ、はらりと落ちる。陽に照らし出された端正な輪郭を指でなぞってみたい衝動に駆られる。もちろん、そんなことはしないけれど。良くない一線を越える想像をしてしまうくらい先生は格好良いのに、自分のことを卑下して、その上いつも優しくしてくれる。どう考えても先生はずるい。こんなの私が断れる訳ないのに。
先生は解ってるのかな。花篝なんて本当は口実で私はただ先生とデートしたいだけだって。先生が言った《特別》という言葉一つで魔法にかけられて、私は薄らと自分に都合のいい未来を期待してしまっている。
「う……ん。んん……放課後は無理かも。でも先生がそういうなら、放課後までは……守って……みようかな」
小指を絡めると、先生は「よし、決まりだ!」と握ったままの手を勢いをつけてブンブンと上下に振った。先生が喜んでいるのは、きっと手の掛かる厄介な生徒が更生の道を歩み始めたからだろう。でも今はそれでも良いと思えた。あの日の言葉の謎が解けたから。
先生が小指を結んだ手を最後に振り下ろした時、教室の窓から入り込んだ突風がハート型に置かれた証人たちを空中に大きく巻き上げた。収拾がつかないくらいあちこちに散らばった花びらを先生は慌てて集めている。プラスチックの籠にまとめられたプリントの束の上や、教卓、教卓から少し離れた机まで。「今日は掃除当番がいないからな」と溢し、白衣が床に付くのも構わずあちこち探し回る先生を私も手伝うことにした。先生には悪いと思いつつ、全部見つからなかったらいいのにな……と願っていた。
集め終わる頃には、廊下から聞こえる声が生徒のものではなく先生方の談笑に変わっていた。二人で手分けをしたものの、掌に回収された桜はどう見てもハートを作った時より数が減っている。先生はそれを怪訝な顔で見下ろしていた。
「証人、何人か逃げ出しちゃったね」
「まあ、そのうち出てくるだろう。言ってる側から……ほら。あんたの肩についてるぞ」
「ほんとだ」
白衣の袖が伸びて、肩に逃げた証人を回収していった。集まった掌一杯の春の欠片を、今度こそ逃がさないよう先生は大切そうに握って閉じ込めた。そのままぐっと握られた拳が一瞬燃え上がったかと思うと、次開いた時手の中は一つ残らず綺麗に燃えて空っぽだった。灰も燃え殻も見当たらない。けれど、見えない約束とたった五音の言葉が私に確かな期待を残してくれていた。
「さあ、帰るぞ」と先生が背を向けた隙に、教室の方を振り返る。締めた窓の向こう側で、証人たちは私たちを祝福するようにひらひらと舞っていた。
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