黒猫来たりて

ラレ+グリ+心折れた戦士
祭祀場のおじ&お兄さんたちが振り回されるお話。恋愛的な文脈なしですが、原作よりキャラ同士が仲良し気味&捏造設定あるので注意。クールに見えて優しいグリとツンデレの青と猫に話しかけるラレが見たかっただけ。

瞑想をしながら、呪術を教え始めた友人の帰りを待っていた。材料であるソウルが少しばかり足りなかったらしく「そこら辺の亡者を倒してくる」と勢いよく駆け出す背を見送ったのは、まだ陽が東にあった頃。ふと顔を上げれば、夕暮れとまではいかずも、陽が傾き始めている。時間にすると数時間だろうか。彼女にしては妙に帰りが遅い。亡者の一人や二人なら一閃で片付けてしまう彼女が、こんなに手こずるはずはない。すぐ戻ると言い残し、弓やポーチなども俺に預けたままだ。嫌な想像が頭をよぎり、もう少し待つべきか、それとも辺りの様子を見てるか決めあぐねていた。
……その時。何かが背中に触れた。正確には、触れたというより押し付けられた。音もなく背後を取ったその存在に驚き飛び上がると、そこには鋭い二つの瞳を浮かべた黒い毛の塊…黒猫が居た。
黒猫の長く豊かな毛は太陽の光を受け、やや赤茶を帯びながら艶々と輝いている。光で浮かび上がったその毛質は、柔らかく触り心地が良さそうだ。猫は昔から好きだった。人と違って俺を異端呼ばわりしない。それどころか、猫は俺を好いてよく懐く。きっと呪術師は暖かいからだろう。
身じろぎ一つせずじっとこちらを見つめる若緑の瞳は、ナイフのように鋭い眼光で俺を捉えた。怖がらせないようにゆっくりと身を屈め、目を逸らす。視界の隅に映る黒い塊は未だ微動だにしない。随分警戒心の強い奴だ。口元が思わず緩むのを堪え、わざと背を向け瞑想の姿勢を取った。案の定黒猫は油断して、自らこちらへと近付く。ふわふわした尻尾は、歩くたび、機嫌良さそうによくしなり空気を撫でている。風の流れに沿って形を変える毛並みに、早く指を埋めたくて仕方ない。そんな下心を抑えながら、あえて素知らぬ顔をする。顔を背け雲の流れを目で追った。俺の肺がいつもよりも時間をかけてゆっくりと三度上下し切ったところで…黒猫は躊躇いがちに俺の脚の間を登り始める。ふんふんと鼻息を立てながら気が済むまで匂いを嗅ぎ、警戒が解けたのか胡座の中に遠慮なく腰を下ろした。
「どこから来たんだ?」
頭に手を乗せると黒猫は少しハスキーな声で「ナア」と短く返事をした。脅かさないよう静かに背中に触れる。黒猫は一瞬身を縮めたものの、すぐに手を受け入れて鋭い目を満足げに伏せた。そうして撫でられているうちに気をよくしたのか、「ここを撫でろ」と言わんばかりに自ら頭をずいと押し付け始める。
「誰にでもこんなに気を許すと、危ないぞ」
脚の上に乗る柔らかく温かい重みは、なんだか懐かしさすらある。そういえば、まだ大沼にいた頃、いつも同じ場所に腰掛ける猫を連れた老婆がいた。老婆とはついに一言も言葉を交わさなかったが、猫の方は随分懐いてくれたことを思い出した。
「なあ、お前も不死か? ……そんな訳ないか。どうやって神々の国に来たんだ?」
我慢できなくなり抱き上げると、黒猫は不本意そうに「ン〜」と抵抗を示しながら伸びた。しかし顔の高さまで持ち上げられても、逃げ出そうとはしない。そのまま顔を近付け頬擦りしようとすると、猫は前足を伸ばして俺の唇を押しやった。
「……嫌か。分かった、分かった」
もう一度胡座の上に置いてやると、猫は自分から丸くなって落ち着いた。かと思えば、俺の手を甘噛みし始め、綺麗に揃えた両足で蹴り始める。さっきまでの甘えっぷりはどこへやら。随分気まぐれな奴だ。全く猫らしい。
「おい、そんなに気に食わなかったのか? ……きっと飽きたんだな」
長い毛で体格が立派に見えていたが、触ってみると身体は意外と細くまだ若い。これ位の猫ならきっと遊び盛りだろう。俺の指をチクチクした鋭い歯で食み、器用に両手で掴んでくる。マンシェットが被害に遭わないうちに手を引っ込めないと、そのうち巻いた布を解かれ念珠を噛みちぎってしまいそうだ。掴まれた手を引くと、猫は不満げに短く鳴き、満月みたいに丸い目でこちらを見上げた。
「勘弁してくれよ。これは大切なものなんだ」
代わりに何かくれてやれるものはないか……と自分の荷物を漁りかけたその時。崩れかけた瓦礫越しにこちらを覗き込む男と目が合った。
「おい、呪術師。お前もついに狂っちまったみたいだなあ?」
声の主は俺を《手厚く》出迎えたあの戦士の男だ。放った言葉とは裏腹に、少しだけ心配そうな表情を浮かべている。俺が狂って独り言を言い始めたと思っているのだろう。頭を振って足の間にすっぽりと収まった黒い塊を指差す。
「猫がいたんだ。……あんたも撫でるか?」
「猫? ……このロードランに? ハ……噂は聞いたことがあったが、こいつがその猫なのか? 俺は白猫って聞いたが……」
何やら訳の分からないことをぶつぶつ言いながら、戦士は重い腰を上げこちらに寄ってきた。チェインメイルが音を立てるたび、猫は音の出所を探すようにキョロキョロと辺りを見回す。戦士が近付くにつれて警戒するように耳を立て、注意深く足を揃えた。ついに戦士が目の前まで来たところで、猫の耳は後ろに反り、それに合わせて長い髭もぴんと張った。
「おい、猫。喋るのか?」
「喋る? ……何を言ってるんだ、あんた」
狂っちまったのはそっちの方じゃないかと訝しむ俺をよそに、戦士はなおも猫に話しかけた。
「喋る猫じゃあなさそうだな。……猫が喋るわけないよなあ。たぶんあいつはイカれて幻覚でも見たんだろう。そりゃそうと、黒猫は不吉な予兆なんて言うよな……呪われた土地に黒猫。これ以上不吉なことってあるか? なあ、猫」
戦士のガントレットが猫の前に差し出された瞬間、猫は豹変し激しく威嚇をした。空気の漏れる音を発しながら、今にも飛び掛かろうとしている。
「……怒ってるみたいだぞ」
「かわいくない猫だな。ちっこい体して、威勢の良さはまるであの嬢ちゃんみたいだ」
戦士のいう嬢ちゃんとは、今まさに俺が帰りを待っている友人のことだ。そういえば、あれからまだ帰ってきていない。背を撫でて猫を落ち着かせながら、戦士に問い掛ける。
「あんた、彼女を見てないか? 少し離れると言い残してからまだ戻らないんだ」
「嬢ちゃんか? 出て行くのは見えたが……知らねえなあ。亡者にでもなっちまってるかもなあ…」
俺が戦士を睨むのと猫が飛び掛かるのは同時だった。しかし戦士は猫が噛み付くより先に手を引いて、やれやれと首を振った。
「おい。冗談だ、冗談。ったく、過保護な《師匠》だこった。あの嬢ちゃんならきっと大丈夫だろう」
「……ともかく、彼女を見掛けたら教えてくれ」
「分かったよ」
金属の擦れる音を立て戦士が気怠そうに定位置に戻る間も、猫はまだ耳を尖らせて毛を逆立てていた。

******

大きく揺れる篝火は長い影を落としていた。すっかり日の暮れた祭祀場には、各々、使命や目的を抱く不死の旅人達が集まっている。何も特別な催しがあるわけではない。帰る故郷のない不死達はこの祭祀場を拠り所にしているのだ。故に俺も、彼女に呪術を教える間はここに留まっている。
大体いつも同じ顔ぶれ、基本的には無関心と不干渉を貫く間柄。それでも、あの皮肉屋の戦士とビッグハットの弟子とは何度か言葉を交わした仲だった。《彼女》という共通の話題があったからかもしれない。彼女は、愛想が良い方ではないが、俺や魔術師からは魔法を習い、戦士の男には気持ちの良い皮肉の応酬を仕掛けるといった具合に、世渡りが上手かった。それに、鳴らずの鐘とまで呼ばれる不死教区の鐘を鳴らした実力もある。当然、祭祀場に集まる者からも一目置かれていて、少なくとも俺たちは、娘か少し歳の離れた妹のように見守っていた。
その彼女が戻らないとなれば、口でああは言っていても気掛かりだったのだろう。戦士の男は、どこかから戻ったばかりの魔術師に声を掛けていた。
「おい、魔術野郎」
「……私のことだろうか」
「盗賊の嬢ちゃんを見てないか?」
「さあ? 私は見ていないが……」
魔術師は俺の方を振り返る。何も言わずに小さく頭を振ると「なら、分からないな」と呟き腕を組んだ。気まずい沈黙が流れる。
「呪術師が最後に見たのはいつだ?」
「結構前だ。足りないソウルを集めに行ったが、大した量じゃない。すぐに戻ると言ってポーチや弓も置いたままだ」
ポーチには苔薬や緑化草など旅に必要な消耗品が一通り揃っている。これを持たず未だ帰らないことが、一層気掛かりだ。戦士と魔術師が意味深に目配せする。何を言わんとしているかは聞かずとも分かる。
妙な緊張感が漂う祭祀場で、猫だけが腕の中で安らかな呼吸で微睡んでいた。
「辺りを探してみようか。不死街の方では見掛けていないから、下層や森の方を探した方がいいだろうな」
てきぱきともう一度旅支度をする魔術師とは対称的に、戦士は腰を下ろしたまま手をひらひらと振った。
「ハ、俺はここに残らせてもらうよ。全員いないんじゃ嬢ちゃんが戻った時に困るだろう。それに、顔見知りが亡者になったのを見ずに済むからな……」
心なしか戦士の笑い声はいつも以上に乾いて聞こえた。その軽口を咎めることも出来ず、俺はただ肝を冷やし閉口していた。すぐ戻ると思って、何気なく見送ったあれが最後になるなんてことは……考えたくもない。亡者になった友人と対面するのは俺だって御免だ。
撫でる手を止めた俺を見上げて、黒猫は甘えるように頬を擦り寄せた。かわいいが…今はそれどころではない。
最後に頭を一撫でして持ち上げると、猫は短く唸り不服を示した。
「なあ、こいつを頼む」
差し出された猫を一瞥して戦士は眉間の皺を一層深くしたが、思いの外優しい手つきで受け取った。黒猫は戦士を見てまた耳を尖らせる。
「……俺が引っ掛かれる前に戻ってくれよ」
背中越しに聞いた情けない声音に、手を挙げて返事する。先導する魔術師は気を取り直すように咳払いを一つして、早足で歩き出した。
辺りを探すといっても、祭祀場の周辺は行き場所が多く、行き先の分からぬ旅人の居場所など見当も付かない。魔術師曰く「不死街や不死教区周辺では見かけなかった」らしい。考えられるとすれば病み村方面か、小ロンド遺跡、狭間の森の方だ。魔術師もそう考えたのか、昇降機に向かう道、火防女の前に座り込んだ騎士の方へと迷いなく足を進めた。
「なあ、君。赤毛の娘を見てないか?」
よく磨かれた金の鎧は、日が暮れていても景色に馴染むことなく異様な風体だ。鎧はところどころ返り血がついており、騎士はショーテルについた血を布で拭っている。ガチャリと冷たい音を立てて兜がこちらを向いた。その奥から喉を鳴らすような、くぐもった笑いが聞こえたかと思うと、騎士はショーテルの刃先を人差し指でなぞった。
「知らないな。なにせ、私は今戻ったばかりだ。……しかし、興味深い音なら聞いたぞ」
意味深な間を置いて、騎士は続けた。こちらは急いでいるというのに、それを知ってわざと足止めさせるかのような不自然な間だった。
「下の遺跡の方で、女の悲鳴を聞いた。あれは確か……昼過ぎだったか。もう、手遅れかもしれんな。クックック…」
絶句し思わず右手に炎を纏う。纏ったところで騎士めがけて振り上げるわけにもいかず、固く握り締めるだけだ。頭に血が上る俺の横で、魔術師は冷静な声色を保ったまま会釈をした。
「ありがとう。恩に切るよ」
何か言ってやりたかったが、結局何も言葉は出てこなかった。立ち尽くす俺の肩を叩き、魔術師は音もなく歩き出す。今はその軽やかな足取りに着いていくのでやっとだ。胸の奥で不安が渦巻いている。戦士の言っていた《黒猫は不吉の予兆》という言葉が頭の隅にちらついて離れない。
騎士のいた場所から離れ、昇降機が来るのを待つ間も、魔術師はとても静かだった。その沈黙が意味する事実は俺には重く、受け入れ難いもので、何か言ってくれと思いながら巻き取られていく鎖を眺めていた。到着した昇降機が軋みながら下を目指した始めたところで、ついに耐えきれなくなり沈黙を破る。
「……あんたはやけに冷静だな」
「そうだろうか? 私は……もしかしたら、慣れているのかもしれないな」
ため息と共に吐き出された呟きは、どこか投げやりだ。どうして慣れているのかと、問い詰める気にもならない。魔術師は杖を握り直し俯いた。
「落ち着いて見えるかもしれないが、私だって心配だ。彼女は恩人だし、魔術を教えていた。……君の心情は察するよ」
石の上に突き立てられた杖の上で、指が繰り返し同じ所をなぞっている。最悪の事態を恐れているのは俺だけではない。そう知れただけで、幾分かまともでいられる気がした。

昇降機が下層に着くなり目に入ったのは、ここへ来たことを後悔する代物。見覚えのある鍵の束、いくつかのスクロールに……真新しい杖が一本。魔術師が、首を振りながら杖を拾う。
「私が彼女に譲ったものだ……」
最悪の答え合わせだ。散乱する荷物はどれも見覚えがある。ここにないものといえば、俺が預かったものと、身に纏っていた装備くらい。元から寂寞としていた遺跡の景色は、一層物悲しく見えた。暗い海のどこかに、見知った火の気配が混じっていないか意識を向ける。しかし答えたのは冷たい風だけだ。火を消した後のような喪失感が胸に満ちていく。鍵の束は拾い上げると虚しい音を立てた。
杖とスクロールを拾い集めていた魔術師は、難しい表情のまま屈み、静止していた。何かしていないと気が狂いそうで、歩み寄る。彼女の遺したスクロールが気になる。右手を掲げ一緒に覗き込むと、魔術師は小さく礼を呟いた。俺には読めない言語と、簡易的な図が記された随分古びたスクロールだ。
「これは……?」
説明を求める俺に、魔術師は興奮気味に早口で捲し立てた。
「これは……ここにあるスクロールの中でこれだけは、私の知らない魔術だ。きっと失われた古い魔術で……なんと読むのだろう? ウーラ、シール……? いや、それはいいんだ。それより、これを見てくれ。古の言葉は読めないが、この図を見るにどうやら猫に変身する魔術のようで……!」
指差された箇所には、確かに人が猫に変貌を遂げている絵図のようなものが描かれている。希望の火が心に灯る。突然現れた黒猫。荷物を残して行方不明の彼女。点と点が繋がった。
「つまり、あの猫が彼女なんだな!?」
「きっとそうだ! ……祭祀場に戻ろう」

******

息を切らして戻るなり、猫を奪い取り抱き上げた俺と魔術師を見て、戦士は気味悪がって身をすくめた。
「あんたたち、嬢ちゃんを探しにいったんじゃなかったのか?」
「猫なんだ! 猫が彼女なんだ!」
「二人揃って亡者になっちまったのか……? おい、俺と猫に手を出してみろ。タダじゃ済まないからな」
未だ俺たちの正気を疑う戦士と、叩き起こされた猫は、同じくらい機嫌が悪かった。猫をそっと戦士の膝の上に戻し、一部始終を説明する。その間に猫は背と頭を撫でられ、満足げな表情でもう一度眠りについた。
「……つまり、この猫が魔術で変化した嬢ちゃんってことなのか?」
「ああ、恐らくは……。魔術だとしたら自分で解けるはずだが……猫の姿では触媒を持てない。そのせいで今の姿なのだろう。この魔術がどんな経緯で生み出されたものだとして……かなりいい加減なものであることは間違いないな」
魔術のことはからっきし分からない俺と戦士は、説明の間ずっと猫の呼吸を眺めていた。これが彼女とは……とても思えない。しかし、無事である唯一の可能性となれば信じない訳にはいかない。視線を魔術師へ戻す。
「どれくらいで戻るんだ?」
「分からない。一般的な魔術なら効果時間が終われば解けるはずだ。もしこれが、魔術でなく呪いの類なら……解呪石が効果的かも知れない。試してみようか。ちょうど手持ちがある」
ポーチから取り出された石は、髑髏があしらわれていて異様な雰囲気を放っている。魔術師はそれを躊躇いなく猫の額にかざした。すると、戦士の膝の上からたちまち白い煙が立ち上る。戦士が仰け反り瞬きをする間に、膝の上で眠る黒猫は黒革の鎧を纏った盗賊に代わっていた。
「!? ……う、嘘だろ?」
耳と尻尾が失われた俺たちの友人は、戦士の膝の上で猫のようにすやすやとよく眠っている。見たところ傷一つない。安堵から溢れた涙をこっそり拭う俺とは対照的に、魔術師は嬉しそうに微笑を浮かべていた。
「古い不完全な魔法を、魔術に精通していない者が唱えたことで、呪いに変質していたのかもしれない。とても興味深いな。いずれにせよ、無事で良かったよ!」
「あんたのお陰で彼女が見つかった。ありがとう」
友人の無事を喜び固く握手する傍ら、不満げな声が上がる。
「おい。早いとこ、この《デカい猫》を引き取ってくれないか。……腕が痺れてきやがった」
戦士の男は微かに両腕を震わせながらこちらを睨んだ。担ぐ剣の大きさからして非力ではないはずだが、猫と思って抱いていたものが人になったのだから無理もない。元の姿勢から大分無茶な体勢で彼女を抱いている。笑いを噛み殺しながらその身体を引き受ける。
「あんたも……ありがとうよ」
「全く、人騒がせな奴らだ。とっとと使命に向かうか、命が惜しければ余計なことはせず、俺のようにここで大人しくしておくこった……」
いつもの調子で皮肉を呟く戦士の眉間の皺が、ほんの僅かに和らいだのを俺は決して見逃さなかった。

******

翌る日、目を覚ました彼女は辺りをキョロキョロと見回して不安そうにこちらを伺った。
「……私、いつの間に寝て……?」
「何も覚えてないか?」
「……覚えて、ない」
黒猫と同じ色の瞳は、抜け落ちた記憶を辿るようにぐるりと一周してこちらを捉えた。考えても思い当たる節がなかったらしく、小首を傾げ肩をすくめる。
「そりゃ残念だ。……あんたが眠っている間、祭祀場に猫がいてな。猫なんか撫でたのは久しぶりだった。あの戦士の男ですら、満更でもなさそうな顔をしていたくらいだ。……警戒心が強いんだか人懐こいんだか分からない性格で……可愛い奴だったよ」
突然猫について話す俺に、彼女は怪訝な顔をした。
「その猫は? ……死んだの?」
「いや、死んじゃいないさ。気になるなら……あんたの魔術の師に聞いてみると良い。会わせてもらえるかもしれないぜ」
彼女はさらにもう一度首を傾げる。本当に何も覚えていないらしい。その様子すら猫のように見えて、堪えきれず笑い出す。急に笑い出した俺を見て、彼女はますます不思議そうな顔をした。戦士の男は瓦礫の向こうでわざとらしくフンと鼻を鳴らして存在を主張し、魔術師は彼女のずっと後ろで本を読むふりをして横目でこちらを見て笑っている。
「さて、昨日の続きをするか」
差し出した掌の上に、まだ猫の細い毛が一本だけ残っている。そっとそれを指で払った。
一人笑いを堪える俺を見て訝しむ彼女の表情は、気を逆立てて警戒するあの猫そっくりなのだった。

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