夢を見た。とても寝覚めの悪い夢だ。起きて真っ先に思ったのは「夢で良かった」だった。それを裏付けるように、マスクは冷や汗でしっとり湿っている。革の手袋も汗で肌に張り付き、握る手に合わせてぎしりと軋む音を立てた。
まだ少し震える体を両腕で抱く。鼓動が不安によって急き立てられていた。乱れた呼吸を整え起き上がると、青い瞳が心配そうにこちらを覗き込んだ。
「……大丈夫か?」
どうやら私は、彼の膝を枕にして眠っていたらしい。いつ眠ったのかはっきりと思い出せないが、恐らく彼が斧の手入れをする横で、そのまま眠ってしまったのだろう。最近はやけに眠たい。戦闘続きで体力を消耗しているだけではない。繰り返す死の中で、私の身体は確実にダメージを負っていた。蓄積された疲労や怪我はエストを飲んでも癒し切れず、眠気という形で私を蝕み始めている。この分では、亡者になる日もそう遠くないだろう。
「うなされていたから、起こそうとしたんだが……なかなか起きなくてな」
ラレンティウスは小さく首を振った。眉尻が心配そうに下がる。きっと彼も、薄々気付いているだろう。私が亡者に近付いていることを。
ただの悪夢だと分かっていても、今しがた見たその光景は瞳に鮮明に焼き付いていた。
——足場の悪い毒沼に立つ影が、私目掛けて迷いなく火球を振り下ろす。火の粉を迸らせ熱く燃え上がる火の玉。それが轟轟と音を立てながら、辺りを焼き尽くす。焔は悪戯にその人物のフードの内を照らし出す。見知った色。しかし同時に、まだ私の知らぬ色を宿している。憧憬でも渇望でもない。空虚だ。自我のない瞳は虚ろな闇だけを映している。
猛攻の末、膝から崩れ落ちた亡者は、最後に声を上げて笑うのだ。まるで「呪術の祖なんていないじゃないか」と自嘲するような、悲痛な笑いだ。右手の炎はその身を焼くように火柱を上げ、後には灰一つ残らない。……そんな悪夢。
「……悪い夢を見たんだ」
「どんな夢だ? ……悪夢は人に話すと現実にならないらしいからな」
未だ震える私を気遣って、ラレンティウスは肩に手を置いた。その手はいつも通り温かい。向けられた眼差しが虚空を映していないことに安堵した。良かった。彼はまだ亡者じゃない。
所詮は悪夢。与太話と変わりない。きっと昔の私なら、夢の内訳など話さなかったはずだ。
「……あなたが亡者になって、私に襲いかかる夢」
気を遣わせないよう、冗談めかして笑うつもりだった。だが考えとは裏腹に、口はぎこちなく引き攣った。思い出したくもない光景の断片が、瞬間的に視界をよぎる。
夢の内容を聞き終えたラレンティウスは、落ち着いた声色で続けた。
「大丈夫だ。俺は亡者にはならない」
肩に乗せられた彼の手から伝わる温もり。そこには、篝火にあたる時のような安心感と心地良さが宿っている。生きた人間の体温。彼もまた呪われた不死人なのに、私とは違い、その体温はいつだって温かい。彼が内に宿す呪術の火なのか、心で燃やす情熱なのかは分からない。熱を帯びた指に触れられると、自分はまだ呪われていない生身の人間だった気さえしてくる。
「……ありがとう」
顔を上げると、真昼の木漏れ日のような眼差しがこちらを向いた。
「あんたを置いて、どこにも行かないさ」
穏やかな笑み。その表情にどれだけ安心させられてきたことか。だが、私はそれが優しい嘘を含んでいることを知っていた。
彼の知る呪術は、もう一通り全て教わった。私は命を助けた礼として、呪術を教わっていた。つまり、彼はとうに私への礼を果たし終えているのだ。
大沼の呪術師であるラレンティウスが、何を求めこの地を訪れたか。それは、彼の口から繰り返し聞かされ知っている。彼は呪術の祖、イザリスの魔女の痕跡を求め、このロードランを訪れた。誰もが忌々しいと思うこの不死の呪いすら、《自分は選ばれたのだ》と祝福して。
そうとなれば、約束を果たし終えた彼が今なおここに留まる理由は、不死人が多く集まる拠点で呪術の祖の情報を集めることくらいだ。もしかすると、恐ろしい人食いのいる病み村に再び訪れる時を先延ばしていたかもしれない。だとしても、彼の性格上、ずっとここに留まるとは考えにくい。旅立つのは時間の問題だった。彼はいつか必ずここを離れる。そんなことは、呪術に焦がれる彼の表情を間近で見ていれば、分かりきったことだった。
「私が呪術を覚える間に、師匠は嘘が上手くなった」
人差し指を彼の唇に沿わせ、そのまま輪郭をなぞった。ラレンティウスは「嘘か……」と小さく呟き、困ったように眉を下げた。
「嘘のつもりは……ないんだがな。イザリスを目指したとしても、必ずここに戻るよ。そこで見つけた新しい呪術をあんたに教えるために」
曇りなき瞳は却って私の不安を煽った。あの悪夢の前日譚を見せられているようだった。夢の中の彼も、きっとそう信じて旅立ったのだろう。だが結果は期待を裏切ることがある。彼がどれだけ誠実だろうと、この世界は彼ほどお人好しには出来ていないのだ。
「そうなって欲しい。でも、必ず戻るだなんて約束は、この世界では……」
口にしてから酷く後悔した。なんて子供染みた言葉だろう。彼の言葉がもたらそうとした安心より、約束なんて不確かなものを持ち出すなんて……馬鹿げている。私らしくない。盗人の私が《約束》?全く笑える話だ。
彼は大きく目を見開いて、それから伸び放題の無精髭を撫でた。
「《約束》か。……あんたから、そんな言葉を聞く日が来るなんてな」
感慨深そうに何度か顎を摩ったあと、彼はふっと鼻から笑みを漏らして言った。
「あんたが望むなら、約束しよう。呪術の火に誓ったっていい」
呪術を習う中で、彼の色んな表情を見てきた。楽しげに呪術を語る口元。大沼での暮らしを懐かしむ瞳。私の身を案じて送り出す柔らかい微笑。でも今の彼は、そのどれでもない表情をしていた。きっとこれは《覚悟》だ。穏やかな瞳の中で燃える火は、子供染みた私の言葉すら包み込もうとしていた。不安を焼き払うためなら、なんだってする。青い眼は静かにそう伝えているようだった。
私はというと、少しずつ視界が歪んでいくのを感じた。きっと炎が迸っている。目が熱くて、景色が段々と滲んでいく。その中で彼の瞳だけは、揺らぐことなく色彩を保つ。熱い何かが頬を伝い、瞬く間にマスクの布を濡らした。
彼はそれに気付くと、温かい指先を伸ばして、まだ頬に残る液体を拭う。
「……あんたを泣かせちまった」
「泣いてない。きっと葉露が落ちてきただけ」
ラレンティウスは目を細めてこちらを覗き込む。
「……あんたはちょっとばかり、嘘が下手になったんじゃないか?」
「じゃあきっと、あなたの所為だ」
責任を押し付けられたにも拘わらず、ラレンティウスは声を出さずくすくすと笑った。
「お互いに《悪い》影響を与えたみたいだな。それで? 約束がしたいんだよな?」
躊躇いながら軽く頷くと、ラレンティウスは自分の右手に火を灯した。炎は凪ぐように穏やかに揺れている。
「大沼では、呪術の火に誓いを立てる儀式がある」
「儀式?」
「ああ。呪術師同士で約束を交わすときに使われる、古い儀式だ」
そう言って彼は自らの火をとても愛おしそうに見下ろした。彼が日頃から呪術というものにどれだけ真摯に向き合っているかを知っている。その火に誓うというのだから、並大抵の口約束ではない。掌の上の炎が焔を広げる。私が頷くと、ラレンティウスは話を続けた。
「この儀式は、互いの身体に火傷を残すんだ。揃いの火傷を残すことで、誓いを忘れないようにってな。つまり……この儀式で約束を交わせば、あんたの身体にも火傷痕ができるんだ。よく考えて決めてくれよ」
火傷くらい、私には今更のことだ。使命の中で負った傷が身体中にいくつもある。不死の呪いだってあるのだ。傷の一つや二つで躊躇することはない。
それより気に掛かったのは、彼の身体にも痕が残ることだ。この約束を持ちかけたということは、彼も火傷を負う覚悟を持っているということ。私との約束のためだけに、火傷を背負うつもりなら……やっぱり相当なお人好しだ。
「あなたの方は……いいの?」
ラレンティウスはにこやかに答えた。
「あんたのためなら、火傷の一つや二つ朝飯前だ」
掌の上の炎が軽やかに跳ねる。本当に、どうしようもないお人好しだ。
彼が肩をすくめると同時に、夜の風が掌の上の火を揺らした。彼に倣い私も左手に火を灯す。掌の上で激しく踊る炎はパチパチと勢いよく燃えて火の粉を巻き上げた。
「それじゃあ、誓いを立てる準備をしよう」
そう言って、ラレンティウスは荷物袋から動物の骨や琥珀色の石などを取り出し、てきぱきと並べていった。何らかの呪術的意味がある形。それを興味深く眺めていると、彼は何かを思い出したように動きを止め、気まずそうにこちらを見た。
「いや、ちょっと待ってくれ。一つ思い出したことがある……」
言いづらそうに眉を顰めた彼に、頷きを返し続きを促した。
「この儀式は、古くは婚姻の儀式として用いられていたんだ。ほら、火傷痕を残すと、伴侶がいるってひと目で分かるだろう? だから、呪術師が結ばれるときもこの儀式が行われる。俺と誓いを残せば、あんたにまるっきりそのつもりがなかったとしても、呪術師からは伴侶に見えちまうんだが……」
ラレンティウスは不安げな笑みを浮かべ、こちらの顔色を窺っている。
伴侶と言われてもイメージが湧かない。伴侶を持ちたいと思ったことすらなかった。だが、彼との協力関係は、私にとって無くてはならないものだ。彼の持つ呪術に限った話ではなく、時に心情を吐露し励まし合う関係を含めてそう感じていた。彼に感じる情に《友人》という名がつこうと《伴侶》という名がつこうと構わない。無二の存在である彼と、温もりを分かち合えればそれでいいと思っていた。
「私は構わない。……盗人相手じゃ嫌?」
ラレンティウスは血相を変えて大きく首を振った。
「まさか! 嫌なわけがない! むしろ……あんたに伴侶になってほしい」
火を灯した左手が彼の両手に捕まる。時間が止まってしまったみたいだった。言うべき言葉を取り上げられてしまったみたいに、静かに見つめ合っていた。木の葉擦れが答えを急かすようにサラサラと音を立てる。彼の手から迸る炎は、絶え間なく不安定に形を変えている。
契約も約束も嫌いだった。縛られるのは御免だと思いながら生きてきた。北の不死院で騎士から使命を託された時、冗談じゃないと思った。でも今は、その使命に自ら身を投じている。彼から呪術を習ったのだって、全て私が選んだことだ。この旅の中で、私は気付いてしまった。繋がりを持つことは、存外悪いものではないと。誰かに貰った熱は、この身を牢に縛りつける拘束具とは違う。凍えた時、ただそばで温めてくれるだけだ。
「あなたを私だけのものにできる?」
私の返事にラレンティウスは勢いよく首を縦に振った。
「……なら良かった。他の誰にも盗られたくないと思ってた」
この底なしにお人好しで、触れるといつも温かくて離れがたい呪術師を独り占め出来るというなら、悪い話ではない。ロードランに来てからというもの、どんな時も彼の言葉に救われていた。血と罪に塗れたこの手を躊躇なく握ってくれたのは彼だけだった。その手の温もりに導かれて、私は今こうして、選ばれた不死として使命に向き合っている。いつだって彼の与えた火が私を守ってくれた。その手を取るのに、何を思い悩むことがあるだろう。
手を強く握り返すと、彼の炎は嬉しそうに大きく燃え上がり、周囲を強く照らした。
「今日は人生で最高の日だ」
彼の言葉のせいか、それとも火の熱のせいか分からないが、頬は火照っていた。慣れない感情をごまかそうとして俯く。それをきっかけに、ラレンティウスは火が付いたように勢いよく私を抱きしめた。啄むような優しい口付けが額に落ちる。何度も、何度も。くすぐったくて目を閉じようとすると、顎を持ち上げられ、彼の顔が間近に迫る。近付くほどに、彼の虹彩に吸い込まれそうになる。こんな風に彼と触れ合えるなら、《伴侶》になるのも満更ではない。私が完全に目を閉じると、唇が重なった。不思議と、身体が温かくなった。口を通して彼の熱が注ぎ込まれているよう。もう一度目を開けた時、彼の瞳には慈悲が滲んでいた。
「……これが誓いの儀式?」
「いや。これは違う。あんたへの気持ちが抑えられなくなっただけだ」
ラレンティウスは照れくさそうに笑って、もう一度火を掲げた。
「誓いの痕はどこに残したい?」
少し考えてから、胸に手を当てる。
「……ここがいい」
心臓の上。不死の呪い、ダークリングにちょうど重なるところを指す。もしいつか亡者になり全てを忘れてしまったとしても、誓いの火傷は残り続ける。心臓なら、きっと最後まで一番近くに居られるはずだ。忌々しい呪いを、彼との誓いに書き換えて生きていきたい。
「じゃあ、俺も同じ場所にしよう」
ラレンティウスは私の頬にもう一度口付けてから、自分の胸元が見えるように上衣を持ち上げた。それに倣って、私もコルセットを緩めて上着をたくし上げる。外気に晒された肌が寒さに鳥肌を立たせた。それに気付いた彼は、着ていた外套をふわりと私の肩に掛けた。
「準備はいいか」
彼は火を灯していない手で私の左手を掴み、そのまま自分の胸に宛てがう。私の火が彼の肌を勢いよく焼いてしまうのではないかと思い、手を引こうとする。ラレンティウスは大丈夫だと笑いながら首を横に振った。呪術の火は、まるで彼も体の一部だと認めたかのように、肌を焼くことなく燃え続けている。目を見張る私をよそに、彼は「触れるぞ」と小さく呟いて右手を胸に置いた。触れた手は、鼓動を確かめるように肌の上をゆっくり滑っていく。その感触があまりにくすぐったくて、思わず息を飲む。鼓動も呼吸も全て聴かれていると思うと、息の仕方が分からなくなりそうだった。
ラレンティウスは聞いたことのない言葉で誓いの呪文を唱えていく。
私の左手と彼の右手の炎が、その誓いの呪文に応えて勢いを増す。ごうごうと揺れる焔は血のような赤から紫へと変化し、最後には青くなった。見た目は涼やかでも、その炎は今までにないほど高温だった。肌の表面にちくちくと針を刺すような痛みが断続的に与えられる。手を当てた胸に何かを縫い付けるよう、繰り返し小さな刺激が往復する。あまり心地のよい感覚ではない。だが、それ以上に肌を灼く炎の熱の心地よさの方が強く、熱に集中していれば気にならない程度だった。
ぴり、と一際鋭い稲妻のような刺激が走り、顔をしかめる。彼はゆっくりと息を吐き私の胸から手を下ろした。
「っ……」
恐る恐る彼の胸から手を離すと、そこには赤く生々しい痕が浮かび上がっていた。誓いの火傷は、何もない皮膚と比べて少し盛り上がり鮮やかな肉の色をしている。めらめらと燃え上がる炎をそのまま焼き付けたような形だ。
自分の胸を見下ろすと、彼の胸にあるのと同じものがそっくり残っている。私たちだけの秘密の誓いがこの身に刻まれている。
「火の誓いを交わした気分はどうだ?」
「……あまり実感がない、かも」
「ははっ。まあ、約束なんてそんなものだ。だが、この痕がある限り、俺はずっとあんたと共に在る。忘れることはない」
「盗人の私が、誓いを立てる日が来るとはね」
私の軽口にラレンティウスはただ微笑んで、体を引き寄せた。
「……寒くないか」
「寒くなったら、温めてくれる人がいる」
どちらからともなく互いの誓いの痕に触れた。まだ少しひりつく肌をなぞるうちに、彼のことをもっと知りたいと思った。心だけじゃなく、身体も、秘めた温度も全部。彼はどう思っているだろうと顔を上げる。そこには、同じ問いの答えを探している青い瞳があった。
この先のことは分からない。使命を果たす時が来るのか、それとも道半ば亡者になるのか。ただ一つ分かるのは、胸に刻まれたこの火傷が、私たち見届けるということだけだ。陽炎のようにおぼろげで不確かな私たちと、その温度を。
燃える誓いは知っている。