消せない燈火

不死+ラレ
ラレンティウスが介錯を頼まれる話。

祭祀場へ戻る道すがら、どこか見慣れた格好の人間が膝を折り、蹲っているのを目の端に見つけた。
ただの亡者なら気にも留めずに早足で通りすぎるところだ。しかし、どうも見覚えがある。控えめな装飾のなされた黒革の鎧に、肩にかかる軽やかそうなケープ。夜の闇に紛れる影のように黒い装束。何より、その内によく知る《火》の気配を感じた。
「おい、あんた! 一体どうしたんだ……?」
まさか、亡者になったんじゃないだろうな。駆け寄りながら、腰のハンドアクスに右手を伸ばす。柄に指が触れるか触れないかというところで、その影は聞き慣れた声を発する。
「……師、匠……?」
喉の奥から辛うじて搾り出したような掠れた声だった。……怪我でもしているのだろうか。向き合うように膝をついて肩を起こす。時間が経って乾いたであろう、泥のようなものが腰の辺りまで覆い、ブーツには粘性を帯びた蛭の残骸がところどころ付着している。……恐らく、沼地を歩いたのだろう。見るからに顔色が悪く、生きた人間のそれとは思えない程蒼白だ。
「……エストはどうしたんだ?」
「さっき、最後の一瓶を飲み切った……」
会話が通じるあたり亡者ではないようだ。しかし、亡者と言われても疑わなかっただろう。全くと言っていいほど生気を感じない。彼女は、普段鼻まで覆っているマスクを外し、呼吸しづらそうに時折咽込む。きっと毒に冒されたのだ。
「毒紫の苔玉は……? 持ってないのか?」
不浄な沼地に向かうと分かっていて、苔玉を持たないはずはない。自然の脅威に強い呪術装束を身に纏う俺ですら、沼に行く時は必ず持ち歩くくらいだ。
「……沼の中に落としたんだ。……盗んだ品を落とすなんてさ、らしくないよね……」
彼女はそう言いながら弱々しく笑う。その直後、掻きむしるように胸に右手を伸ばす。相当体に毒が蓄積している。この様子ではあまり猶予がなさそうだ。だが生憎、俺も最下層で捕まった時に奪われてからというもの手持ちがない。エストも苔玉もないとなれば、もう篝火にでも戻るしかないだろう。
「なら、篝火まで連れていこう。……いいよな? 祭祀場の篝火まで行けば……」
そこまで言い掛けて思い出した。祭祀場の篝火は消えている。噂では、イカれたどこかの騎士が火守女を殺したのだと聞いた。本来火があるはずの篝火は、今や燃えさしの残る灰の山。火守女のいない今の祭祀場は、不死人を瀕死の苦しみから救ってくれない。
「畜生、あの野郎! とんでもないことしやがった……」
このままじゃ、目の前で友人の死に際を見る羽目になる。何か手はないかと思考を巡らせるものの、生憎使えそうなものは何もない。ここからでは、苔を売っている商人からも程遠い。俺の焦りを悟ってか、彼女はいつもの気丈な声音を絞り出した。
「……大丈夫。どうせ私たちは……そう簡単に、死ねやしないから」
気丈に振る舞う努力も虚しく、彼女の体は肩から力が抜けたように地面に崩れた。
不死人にとって、死は普通の人間ほど深刻でないのは確かだ。それでも死は死。不死の呪いは痛みや苦しみから逃れる救済ではない。苦しみ抜いて死んだ記憶は、亡者でなければはっきりと残るのだ。それに、真っ当な人間なら……身近な人間の死を目の当たりにはしたくない。こんな過酷な土地だろうと、俺の心はそこまで冷え切っちゃいない。
「……何か、ないのか」
地面に倒れ込んだ体を抱き留め、仰向け抱え直す。毒に冒された肌がじわじわと変色している。このまま放っておけば、助からないのは明らかだ。
「気にしないで。たぶん、持たないと思う。……見なかったことにして、行って」
またすぐ会える、と彼女は小声で付け加えた。
「あんたがこんなに苦しんでいるのに、そうはいかないだろ……」
俺も不死人だからよく分かる。不死になり何度繰り返そうとも、死は恐ろしいものだ。一人で死ぬのは、他のどんな時よりも心細い。意識を手放す最後の瞬間にはいつも、冷たくなっていく手を握る誰かがいればと願ってしまう。彼女をここに一人置いていくわけにはいかない。孤独に死んでいく虚しさなど味あわせたくない。
せめて少しでも苦しみが和らげばと、肩をさする。すると彼女は少しだけ表情を和らげた。
「……ねえ、師匠。ひとつだけ……頼み事がある」
今、俺に出来ることならなんでも。そう言った俺に彼女は、掠れた声で頼んだ。介錯して欲しい、と。一瞬、耳を疑った。縋るような視線に耐えきれず目を逸らす。
何を言っているのか、分からない。いや、理解したくない。俺に……あんたを《殺せ》と云うのか。俺を救ってくれたあんたを?
手の掛からない弟子だと思っていた。それが、この期に及んでとんでもない我が儘を言うものだ。仮にも師ならば、この手で引導を渡すべきなのか?
彼女はただの弟子ではない。俺の命の恩人で……大切な友人でもある。友人をこの手に掛ける?……出来るわけがない!たとえ彼女が亡者にならず何度でも蘇ったとして、そんなこと出来るわけが……。
肩を支える腕が、急き込む彼女に合わせて震える。いよいよ苦しそうだ。
話すうちに毒が回ってきたのか、容体はみるみるうちに悪化している。その度、彼女は眉を顰め、顔をこわばらせた。心苦しいが、彼女の言うとおり、もうそんなに長くは持たなさそうだ。こんな姿を見るだけで、心が痛むというのに。
……楽にしてやるべきか。逡巡する思考に、答えは出ない。彼女を支える腕の先で、指が震えた。咳き込む度に上下する喉元。その首は存外、片手でも締め上げられそうなほど細い。そう気付いた瞬間、それまで忘れていたはずの腰のハンドアクスの重みを思い出した。これを振り上げ、その首に突き立てれば……彼女は楽になるだろうか。
「……冗談じゃない。そんなこと、俺には……」
嫌な想像を振り払うよう。俺の返事を遮るように、彼女は弱々しく肩を震わせながら笑い出した。とても笑える状況ではないのに。苦しみに耐えかね狂ってしまったのか?
驚きと困惑の入り乱れた感情で彼女の顔を見下ろす。すると彼女は、心底愉快そうに口の端を吊り上げて続けた。
「……そんなに困った顔しないでよ」
冗談のつもりだったのだろうか。どこか満足げな笑みを浮かべてひとしきり笑った後、彼女は苦しそうに深い息を吐きながら半身を起こした。
「そんな顔されたら……満足しちゃった」
まるで、俺にはできないと初めから分かっていたかのような口ぶりだ。
「ねえ……また次、会う時は」
そこで彼女は、胸を抑えてそのまま逝った。肩を抱く腕に力を入れる。もう、動かない。
「亡者になんて、ならないでくれよ……」
届かなかった言葉と共に、空しく取り残された。相当苦しんだはずなのに、なんて顔だ。人を揶揄うだけ揶揄って、笑って逝きやがった。その顔は微笑んでいるようにも見えた。
間もなくして、彼女の体が光の粒を放ち消滅していく。それは、夜の闇を穏やかに照らし、とてもゆっくりと宙へ還る。腕の中は段々と軽くなっていき、そこには虚空だけが残る。
——なあ、大沼の師匠。弟子がいなくなると、こんな感情になるんだな……。
何とも形容し難い強い虚しさと、この手にかけずに済んだ安堵。鉛のように重く苦い感情が、胸の内に沈んでいく。のしかかる鉛の重さに耐えきれず、俺はしばらくその場から動けなかった。何もできなかった。死にゆく苦しみから解放することも、気の利いた言葉の一つもかけてやれなかった。……師匠失格だろうか。誰に問うているのかも分からない。答えの出なかった問いを繰り返し頭の中でなぞった。
後悔に苛まれる間も、宙に浮いた光の粒は、休むことなく発光していた。酷く長い時間、ただそれを見ていた。そして最後の光の粒が闇に紛れた時、そこには彼女のソウルが輝いていた。
眩く、時に陰りながら発光するソウル。触れると少しだけ温かく、彼女の体温を思い出させる。このソウルを他の亡者に渡すわけにはいかない。これを守るくらいは……俺にもできるはずだ。小さく明滅を繰り返すソウルを慎重に拾い上げ、腕に抱く。彼女のもとに返そう。
篝火は消えているが、祭祀場にいればまた会えるはずだ。これまでだって、彼女は様々な苦境を乗り越えてきた。何度死のうと、変わらず俺の所へ顔を出し、旅の話を聞かせてくれた。
だから、きっと大丈夫だ。なんて言ったって、師である俺が誇る、手のかからない優秀な一番弟子だ。どれだけ時間がかかろうと、彼女の帰りを待とう。彼女なら大丈夫だ。
祭祀場を目指す足取りは重い。しかし、胸に抱いたソウルの温もりが俺の希望を灯し続けていた。呪術の火とは異なる温もり。それは持ち主のように、悪戯に明滅し揺蕩っていた。
彼女が無事戻った時には、どんな言葉をかけようか。師を揶揄う不届きな弟子には、少しだけ厳しく言い聞かせる必要がありそうだ。
渡した火は、脈々と受け継がれてきた呪術師の絆そのもので、俺の半身だということ。それは絶やすことなく燃やし続けた意志だということ。
その命の灯火を、俺が消せない——理由を。

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