触れた指の先から、体の内側……一番奥底に眠る火に触れる。
まだ目覚めたばかりの幼げな火にソウルの名残を焚べると、それは異物に逆らうように大きくうねり、しなった。制御を逃れようと踊る火へと意識を向けて、全ての注意を傾ける。魔女の火に語り掛ける。どうかその迸る熱で、我等の命を照らし給え。
呪術師だけが知る炎との契りの文句を幾度か唱えると、火は焚べられた糧を取り込んで大きく揺らめいた。
「……ふむ。こんなところじゃないか」
目を開け、触れていた手をゆっくりと離す。それを合図に彼女の手が見えない何かを逃すように開かれた。ぎこちなく開いては閉じ、閉じては開きを繰り返す。内なる火の強化具合を確かめているようだ。
「ありがとう、師匠」
彼女が小首を傾げるのに合わせて、暗い赤毛がさらさらと音を立てた。その音で一気に日常に引き戻されて脱力し、深く長い息を一つ吐いた。
「力になれて何よりだ」
凝り固まった姿勢を正すように大きく伸びをし辺りを見回すと、とうに日が暮れていたらしく、祭祀場はすっかり夕闇に覆われていた。俺と彼女が灯す呪術の火と、少し離れた篝火以外、夜の色に塗り潰されている。
「あんたも……今日はもう休むんだろう?」
声をかけ振り返ると、彼女は何か興味深いものでも見つけたように眉を顰め、目を凝らしていた。
「? ……何かあったか……?」
「……あれ、」
彼女の視線の先、暗い夜空には弱々しい光の粒がいくつも並んでいた。
「星……だな」
「……すごくよく見える。それに沢山……」
灯りを失った暗闇の中で、星屑達は地上を照らす使命でも帯びたかのように一際明るく瞬いた。ロードランに来てから星を見たのはこれが初めてだった。俺が寝転ぶと、それに倣うように彼女も体を横たえる。
「懐かしいな。大沼は……こんな風に星がとてもよく見えた。星が明るい夜は、こうして寝転びながら、満天の星を見上げたりしたもんだ……」
大沼の夜空はもう少し白んでいて明るかった。街のように暖炉の火もなく、木々に覆われていたからだろう。夜空一面に光を溢す満天の星空は、何度見ても息を呑むほど美しかった。俺にとって星空を眺める時間は、孤独を忘れさせてくれる特別な時間だった。
この夜空も、満天とはいかないまでも無数の小さな星が距離をとりながら闇を隙間なく埋めている。沢山の星がその命を懸命に燃やしているかのようだ。そして時折、その小さな星の間を縫うように流星が落ちては消える。少しすれば、そのあとを追ってまた別の星が夜空を滑り降りた。
「あ……流れ星」
「ああ。……綺麗だな」
見る者を虜にする儚い光は、その短かい一生を終えると後には何も残さず闇に溶けていく。美しく、あまりに侘しい。すぐ隣に並んだ翡翠の瞳も、何か思うところがあるのか星が消えた後の闇をじっと見つめている。
風の一つでも吹いていれば違ったのだろう。こんなにも空は明るいのに、何か言わないとこのまま二人とも星々に飲まれてしまいそうなほど静かな夜だった。
「……あんたも、故郷で星を見たりしたのか」
肩越しに振り返ると、その横顔にはどことなく郷愁が滲んでいた。懐かしむように細められた目が、何かを思い出すようにゆっくりと閉じられる。その一連の動作は、刹那に消える星とは対照的にやけに緩慢だった。睫毛の揺れすら捉えられそうなほど、時間の流れが遅く感じられる。
そして再び両目が開かれると、目一杯の星灯りを取り込んで朝露のように輝いた。
「……意外かもしれないけど、たまにね。明るい夜は空を見上げて、憎たらしい星を数えることもあった」
「憎たらしい? 星が嫌いなのか? ……珍しいな」
「夜闇を照らされると困るんだ。盗人は」
生命力に溢れた力強い眼差しは儚い星明かりとは比べ物にならないほど安心感がある。
「……はははっ! そうか。……そうだったな。なら星月夜は店仕舞いってわけか」
「そう。だから星の明るい夜はあれが金貨だったら……と思いながら酒をあおるんだ」
「あんたらしいな」
ひとしきり笑ったあと、そこからまた長い静寂が訪れた。
夜が音を何もかも飲み込んでしまったかのような静けさ。その中に自分の心音と呼吸だけが聞こえる。それ以外は、何も聞こえない。あまりの静けさに不安になって横目で彼女を見やると、いつの間にか肩が触れ合いそうな距離にいた。星が見やすいよう火を消したからか、少し肌寒そうに両手で体を抱いている。
「もしかして……寒いのか?」
「……そんなには」
天を眺めたまま、顔色ひとつ変えずに盗賊は強がりを吐いた。もういい加減長い付き合いだ。それが嘘だってことくらい俺には分かるのに。何を今更強がるのかと笑いを堪えながら、右手を掲げ小さく火を灯す。
「……あんたが嫌じゃなかったら、もう少し近付くといい。呪術師は温いぜ」
星を邪魔しないよう控えめに灯した火を差し出すと、彼女は少し驚いた表情を浮かべながら躊躇いがちに手を取り身を寄せた。……素直に従うあたり本当に寒かったらしい。外套をかけてやろうと起き上がりかけたところで、彼女が手を引き静止した。
「このままがいい」
少しひんやりした手に掴まれて、胸がどきりと跳ねる。呪術の火に照らされた顔がすがるようにこちらを見ているのに気付き、石にでもなってしまったかのように動けなくなる。
「……そう、か。ならこのままでいよう」
静かだった夜の中に、どくどくと脈打つ心音が聞こえ始める。彼女のものか自分のものかも分からないその音が、二人の間で奏でられている。
「うん」
先ほどよりも強く手を引かれ、そのまま彼女に寄り添う形で横を向いた。
差し出した右手は彼女の小さな両の手でしっかりと挟み込まれている。華奢な指が俺の手から熱を欲しがって優しく手のひらを撫でる。呪術を教える時は全く意識していなかったその手に何とも言えない感情が湧き上がる。妙な気分を紛らわせようと適当な話題を口にする。
「……あんたの手、こんなに小さかったか」
「手袋をしていないから……?」
風があれば紛れていたであろう呼吸まで聞こえてくる。すぅ、と彼女が息を吸うたびに胸が小さく上下しているのまでよく分かる。横になっているからか、いつもより肩まで細く薄く見える。俺を庇って前を進むあの背中が、力強く短刀を握る手が、こんなに小さい訳ないのに。
「……師匠の手も、意外に大きい」
彼女はそう呟きながら、俺の手の指を勝手に伸ばして、大きさを比べるように重ねた。指の関節一つ分程は俺の方が長い。その結果が不服だったのか彼女は眉を顰めながら小さく首を傾げた。——おかしいと思ってるのはあんただけじゃないさ。俺もおかしいと思っていたところだ。どうして今更あんたの手に触れるだけで、こんなに鼓動がはやるんだ。あんなに近くで呪術を教えてきたのに、俺は何を今更……。
なんとか気を落ち着かせようと、手は委ねたまま体だけ星の方を向く。幾千もの星々は俺たちなど意に介さず瞬き続けている。最初から何も変わりはない。彼女の手が急に小さくなったわけでも、俺が大きくなったわけでもない。初めから二人ともそうだった。意識していなかっただけで、出会った時からずっと。
燦然と輝く小さな星に紛れて、また一つ星屑が空を流れた。
「星って……こんなに綺麗だったんだ」
「憎たらしいんじゃなかったか?」
少しからかって顔を覗き込むと、彼女は決まりが悪そうに目を逸らした。
「あなたと見るのは好き。……寒くないから」
「ははは、なんだそれ」
握られた指先にほんの少し力が込められる。暖をとるためだとしても、呪術の師としてではなく一人の人間として彼女に必要とされていることに悪い気はしなかった。
それどころか、心の奥底ではもっと必要とされたい欲が顔を出していた。
「俺も……あんたとこうして星を眺められて嬉しいよ」
握られた手を軽く握り返すと、翡翠の瞳の奥が微かに揺れた気がした。その瞳に映り込む、星のせいかもしれないが。こんなに長い旅を共にしても、滅多に取ろうとしない黒革のマスクの下は、どんな表情をしているのか読み取れない。その瞳に映る感情を読みとるしか、今の彼女の心に触れる術はなかった。
「ねえ、師匠」
「ん? どうした?」
華奢な指が掴んだ手に力を込めるのを感じた。
もうとうに冷たくはないが、力を込めているせいか少し震えている。
「いつか……使命を果たしたあと、また一緒に星を見よう?」
しん、と静寂が耳を打った。時間が止まった気がした。それが言葉通りの問いなのか、純粋な願いなのか判断がつかない。
普段の俺なら、即座に肯定の言葉を返しただろう。儚く流れ消える星の下でなければ、きっといつも通り穏やかに「もちろんだ」と返せたはずだ。だが、今はとてもそうはできない。心の中では「どうだろうな」と返していた。だってあんたには火継ぎの使命があるだろう?と。
この目で見たわけじゃないが、旅に同行していればその儀式がどんな代物なのかくらい理解し始めている。この世界は、神話によれば《はじまりの火》によって照らされている。呪術の火は、その火を大きく燃やすために魂の名残を……ソウルを材料に焚べる。それが意味するところ。この世界を普く照らす火継ぎの儀式には、大きなソウルの贄を必要とするということだ。
彼女が火継ぎの使命のため各地の王殺しに奔走させられているのを鑑みると、その行く末に待っている玉座は、供物台のように思えてならない。つまり俺はこう考えていた。その火継ぎに一度向かえば……きっと彼女は帰らないだろう。そして彼女もそれに気付いていないはずがない。
だから俺は、止めることもできず葛藤していた。彼女が使命を果たすと決めているなら、たとえ俺が止めたって、彼女は一人で玉座に向かう。寒さを誤魔化したのと同じように、命は惜しくないと自分に言い聞かせながら。
その身を使命に捧げるつもりの人間が、どうやってまた一緒に星を見るっていうんだ。そう言いたいのを飲み込んで、俺は誰かさんに倣って嘘をついた。
「ああ、もちろん」
平静を装ったつもりが、声の震えは抑えられなかった。盗人の口八丁を間近で見てきたはずなのに、まだ誰かのように嘘をつくのは、慣れていないみたいだ。星明かりを取り込んで宝石のようにキラキラと光るその目を、まっすぐに見られない。こんなに近くにいるのに、遠い。
使命が何よりの栄誉であることも、十分理解している。彼女は借り物の使命だと表現していたが、誰かに託されたものだとしても、果たすことに意味があるんだろう。それか、尊い犠牲を払っても、守りたいと思えるものが……この世界にあるのだろう。
どれだけそれを理解したところで、彼女がその使命に向かうことを心の底では受け入れられていなかった。いや、受け入れられなくなった、が正しい。いつからか、俺はこの旅の終わりを恐れるようになっていた。目が覚めて隣に誰もいない朝が、彼女の笑い声を二度と聞けないことが……この世界の火が陰り、光を失うことと同じくらい恐ろしかった。
俺の嘘を見抜いてか、それともいつもの気まぐれか……彼女は触れていた手をそっと離し夜空を指差した。
「師匠。あの一番綺麗な星は……今から私達のものにしよう」
突然何を言い出すのかと思えば、星泥棒ときた。
「……それはまた、随分大層なものを盗んだな」
「私が盗んだから、私の名をつけた」
彼女の名を頭の中でなぞる。最初に会って名乗られたきり、口にしたことはない名。相手は盗賊だ、恐らく本名ではない。けれど俺にとって何よりも特別な名。
「……それはいいな。夜空を見上げれば、いつでも星泥棒の名を思い出すことになる」
「そう。……あの星を覚えていて。私たちは星を盗んだ共犯者。……ふふ」
そう言って彼女は指差した手を再び俺の手に添え、そのまま祈るように胸の前で両手を組んだ。彼女の言わんとしていることを理解し、俺はただその小さな両手に包まれながら泥棒が盗んだ一等星を眺めていた。月にも勝るその輝きは、誰よりも激しく命を燃やす彼女の命の瞬きそのものだった。こんなに目立つ星、忘れも見失いもするものか。熟れていない木の実のような渋い感情が胸を満たし、ほんの少し苦しくなった。
その時、彼女が盗んだ星の横を星屑が流れた。一つ、二つと並んで駆ける星は涙のようにゆっくりと夜空を伝う。
「……願えば、星は叶えてくれるという話を知ってるか? 消えてしまう前に願いを三度繰り返すんだとか」
「じゃあ、使命を無事に果たせるよう祈らないと」
俺の手を掴み、彼女はそのまま目を閉じた。境遇からして神への信仰心などないだろうに、星には素直に祈るらしい。願い事を真剣に呟く姿を見ていると、愛らしさと、喪失の恐怖と、未来への畏れが同時に襲い来る。一言では言い表せない感情は、心の中で処理しきれずに煙った。
本当なら、俺も彼女と同じ願いを唱えたい。しかし、今の俺はこのまま時を止めてくれと願わずにいられなかった。この願いを叶えてくれるなら何を差し出してもいい。彼女の手が俺の手から離れてしまう前に、時間を止めて欲しかった。イザリスの魔女に会うより、まだ見ぬ呪術を求めるより、あんたとここで星を見ていたい。そう願う俺はもう……呪術の師などとっくに名乗れはしなかった。ここにいるのは、ただ彼女を想う一人の男でしかない。
「……願いは叶いそうか?」
「さあ、どうだろう。こんなに星があるなら、一つくらいは聞き入れてくれないかな」
「そうだな……。あんたの願いと俺の願い、どちらが先に叶うかな」
「師匠は何て願ったの?」
「あんたと、このまま……ずっと星を眺めていられたらってな」
俺の言葉に彼女は明らかに動揺したようで、握る手の力が強まった。
「それは……」
「ハハッ! なんだよ、その顔。……そのままの意味だ。あんたと一緒にこうして星を見ているだけで俺は幸せなんだ」
見開かれた翡翠の瞳の端で、濃紺の空に光る一筋の白い涙が流れて消えた。時が止まりそうなほど長い沈黙に、冷や汗が背中を伝う。もう、いつこの手を離されてもおかしくないのだろう。だが不思議と彼女はその手を離そうとはしなかった。
「私も、そう願えばよかったな。ずっとこのまま、星を眺めていたいって」
「……そうだな」
俺は、彼女が絶対にそう願わないことを知っている。彼女は不死に侵されたまま永遠を過ごすより、誰かの願いを背負う星になる方を選ぶ。自由をこよなく愛する盗人が、呪いなどに縛られるものか。
「……ねぇ、師匠。かわいい弟子のわがままを聞いてくれる?」
「うん? 言ってみてくれ」
「朝まで、このまま……あたためて」
風の音があれば掻き消えてしまいそうなほどか細い囁き。だが、胸の奥を締め付ける何とも言えない痛みを紛らわせるには十分だった。
——その言葉たった一つで、この先何十年も生きていける気がした。
もう冷たくなくなった手の、どちらのものか分からないぬるい熱を逃さないように力を込める。
「ああ、もちろん」
重なり合った二つの命の火、星を盗んだ共犯者たちの睦言に耳をそば立てるように、星屑達はその光を潜めていく。
緩やかに更けていく夜と星々だけが、その物語の結末を知っていた。