愛の萌芽

ラサ→主、ジャヘ→カリ
ジャヘイラ視点。恋の相談をするラサードと、不器用なモンクにカリードの面影を見るジャヘイラの話。時系列的にはSoA2章〜3章くらい。

先の戦いでできた傷に、ウマル・ヒルの清流が滲みる。人里から離れた川の温度は低く、晒した野菜とジャヘイラの手をアイスゴーレムのブレスよりも冷やした。ジャヘイラは、久しく触れていなかった自然の温度に平穏と安らぎを覚えていた。アスカトラの喧騒と腐敗、うんざりするトラブルの数々を目の当たりにした後では、自然のもたらす調和が一層愛おしく感じられる。調和と均衡の取れた世界はこんなにも自由で、静かで、癒されるものだったろうか。ここには、自問を遮るものは何もない。ただ静かに、川に浸した手が冷えていくだけだ。
ジャヘイラは、無意識のうちに虫の声や葉擦れ、せせらぎの音の中に、カリードとの思い出を聞こうとしていた。聞き馴染んだ自然の至る音からも、彼との思い出を辿ることが出来る。それはジャヘイラにとって唯一遺された救いであり、もう二度と埋まることのない空白だった。遺された思い出の痕跡、そのどれをとってもーーもうカリードはいない。分かっている。過去に浸った所で、現実は変わらないのだ。だから川の水に手を伸ばした。未だ悲しみの底で溺れる己の心が凪ぐことを祈り、せめて自然の思い出の中に彼を見たかった。
そんな穏やかな時間を遮ったのは、水とは正反対の、岩のように頑とした男の堅い声だった。
「ジャヘイラ。折り入って相談があるのですが……」
草を踏む規則的な音にハーパーであるジャヘイラが気付かないはずはない。ただ、厄介を察知して意識的に聞かないようにしていただけだ。混沌とした現実に帰る時間を引き延ばすために。
ジャヘイラは籠ごと水に晒していた野菜を引き上げた。冷たい静寂から引き揚げられた手に、生温い現実の温度が戻る。
「どうしたの? モンク」
振り向いた先には、打ち伸ばした鉄よりも真っ直ぐに背筋を伸ばした、サンソウルモンクのラサードが礼儀正しく立っている。鍛え上げられた身体はジャヘイラの何倍も逞しいが、その表情はどこか物憂げで弱々しい。顔を見てすぐ、ジャヘイラは何の要件か察知した。……本当に分かりやすい男だ。呆れてため息をつくと、モンクは表情を変えずに「お邪魔でしたか?」とジャヘイラの顔色を伺った。
「いえ。いいわよ、続けて」
野菜に視線を戻し水切りしながら、ジャヘイラはぶっきらぼうに答えた。
「実はその……伺いたいことがありまして」
モンクは俄かに視線を逸らし、胸の前で合わせた手を落ち着きなく揉み始めた。
「ハ! 顔に書いてあるわね、ラサード。女絡みだと」
ジャヘイラが近付いてその顔を見上げると、ラサードは慌てて首を振った。
「いえ、まさか! まあ、確かに女性が関わりますがーーいえ……そう、ですね……」
段々と尻すぼみになっていくラサードに、ジャヘイラは一歩身を乗り出す。
「図星ね。当ててあげましょうか? 概ね、口説き文句でも教わりに来たんでしょう。坊や」
ラサードは周囲に誰もいないことを確認してから声を顰めた。
「……どうして分かったのですか」
ジャヘイラは呆れてもう一度ため息をつく。
「ハーパーの観察力を侮らないことね。それで?」
「ええと。私は、長らくサンソウルの教えを説く旅をしていたものですから……女性に何と愛を伝えたものか分かりません。内に溢れるこの光を、どう伝えたら良いのか……教えて頂きたいのです」
泳いでいたラサードの視線がジャヘイラへと寄せられる。そのあまりに真剣な眼差しは、迫るものがある。色事など無縁であるはずの敬虔なモンクから発せられている言葉だと思うと馬鹿馬鹿しいが、一人の男の窮状を見て一笑に付すほどジャヘイラは冷たい女ではない。だから、ただ呆れ混じりに短い唸り声を漏らした。
ーージャヘイラは知っていた。この男が口説こうとしているのは、ジャヘイラが古い友人ゴライオンから預かった、殺戮の王べハルの血を引く《彼女》のことだと。イモエン共々過酷な運命を強いられ、ジャヘイラの元にやってきた娘。単に若いというだけでなく、自身と夫の間に子がいないジャヘイラにとっては文字通り娘のような存在だった。血の繋がりがなくとも、今は亡き夫との間で守り続けてきた子供であり、一人の友人でもある。友人ゴライオンと夫カリードの忘れ形見。この男が口説こうとしているのはその《彼女》であると知っているがゆえ、ジャヘイラとしては複雑な心境だった。
この男の素行に憂慮すべき点はない。善の道を直走る実直で誠実な男。サンソウルの僧院でも高い評価を得ていたからこそ、各地での宣教を任されたのだろう。弱きを見つければ救いの手を差し伸べずにはいられない、遍く世界を照らす太陽を体現した、光の求道者。
しかし、それがこの男の最大の欠点でもある。信念と正義を貫き通す為なら、己の兄やかつての友人とも袂を分かち、その手で決着をつける。正しさの前に苦しむ弱さを、秩序と善の強い光の下に落ちる影を知らない。その盲目で独善的な信心は、一歩間違えば悪を裁くまた別の悪たり得るのだ。
調和と均衡を求めるドルイドであるジャヘイラは見抜いていた。この男は、下手をすると悪と同じくらい厄介で危うい存在だということを。真面目で頑固で冗談すら通じない、底抜けのお人好し。出会ったのが我々だから良かったものの、そうでなければこの腐敗の世で食い物にされていたか、敵対組織に目を付けられて葬り去られていただろう。
そんな男が娘を口説こうとしていると知れば、ため息の一つや二つ溢したくなるというものだ。こんな時カリードがいれば何と言っただろうか……ジャヘイラは自分の内にいる繊細で優しいカリードを思い出した。自然に、彼と自分の馴れ初めの記憶の糸を手繰り寄せていた。
夫は戦士の割に内気で、初めは虫も殺せない意気地なしに見えた。人と対峙すれば滑稽なほどオドオドと戸惑い、言葉少なく意見を述べる。しかしカリードは、その一見弱々しい振る舞いの内に、激しい苛烈さと正義を灯した男でもあった。口下手で、頼りなく、手の掛かる人間。そんな彼を愛し始めたのは、胸に秘めた熱情に触れてからだった。穏やかな表情の下に隠された、カリムシャン人の持つ烈火の如き魂の温度。それはまさに、カリムシャンの砂漠の灼熱のようだった。
口下手で内向的なカリードはかつて、あろうことかジャヘイラ自身に口説き方を尋ねてきたことがあった。そう、ちょうど今のように。あの時も見え透いた《恋の相手》の話を聞かされ、呆れと憐れみの目を向けていた。必死にジャヘイラの気を引こうとする亡き夫の姿がーー目の前の哀れなモンクに重なる。カリムシャン人だからなのか、それともこの男と夫は似ているのか。いずれにせよ、瞳の中に燃える激しい恋の炎が見て取れる。説き伏せて諦めるようには見えない。
「……ジャヘイラ?」
生真面目な眉が不安そうに寄ったのを見て、ジャヘイラはわざと大袈裟に肩をすくめてみせた。
「……分かったわ。口説き方ね。まず、相手の長所を褒めるところから始めるのよ」
「長所……? 何もかも、全てです」
曇りなき眼は、その言葉が冗談ではないことを証明している。ジャヘイラはうんざりした。まさかカリードより筋の悪い生徒がいるとは思わなかった。
「ハッ。そんなつまらない口説き文句に黙って耳を傾けるのはトロールくらいよ、ラサード」
「と言いますと……?」
「愛を伝えたいなら、まずどうして自分が相手を好きになったか説明してみせるのよ。いかに特別で、大切であるかをね。あなたが好きになったからには、他の女にはない魅力があったんでしょう?」
ジャヘイラは子供に言って聞かせるような口調になった。要領を得ない顔のラサードに、水切りした野菜の籠を押し付ける。
「ホースラディッシュを口説く時には辛味を。カボチャなら甘みを、ニンジンなら歯応えを。あなたが惚れた娘には、どんな特徴があるか考えなさい」
「なるほど」
水の滴る野菜の籠に視線をやった後、ラサードは空を見上げた。夜空の星に愛しの娘を重ね見ているのは明らかだ。
「彼女は……彼女の微笑みは、月明かりの祝福に似ています。その光は美しく、夜を惑う旅人を見守る、優しい慈悲です。しかし、彼女の夜色の髪が戦場で靡くたび、内に秘めた激しい熱を知ります。見るものを焦がす砂漠の太陽のような激しさを。つまり、彼女は私にとってのあらゆる光。彼女の光が私の心を照らし、闇に堕ちそうになる私に手を差し伸べるのです。いつも冗談で私を和ませて、光が何かを思い出させてくれる。近くにいられるだけで幸福を感じて……こんなことは、彼女が初めてです」
聞くつもりのなかった惚気が耳に入るたび、ジャヘイラは胸焼けを覚えた。口説き方を知りたいなどと相談しておいて、よくもこんなに甘い言葉を吐けるものだと感心すらしていた。愛を語り切って満足げなラサードは、胸に手を当てて幸福そうに目を伏せた。
「私からのアドバイスは一つ。今の言葉をそのまま伝えなさい。……全く、こっちは晩の食事を作る前から腹一杯よ」
「あなたの分の夕食を、皆で分けたほうがよいですか?」
ジャヘイラは石頭のモンクが投げ掛ける頓珍漢な質問をまるきり無視して、遠くの篝火で肉を焼いている娘の方を見た。
《彼女》がこの男に向ける視線にさえ、とっくに気付いている。たとえハーパーでなくても、二人の間に流れる温かい空気は誰だって容易に見抜いただろう。ゴライオンの死、イレニカスからの拷問、過酷な運命で光を失いゆく瞳が、それでも強く瞬く星のように輝きを取り戻すのは、この男を前にした時だけなのだ。
朴訥で口下手なモンクが、たとえどんなに的外れな口説き文句を用意してきても、あの娘は手を引いて導く。今となってはラサードに残された光が彼女であるのと同じように、《彼女》を温める光もラサードくらいなのだ。手が掛かろうと、険しい道だろうと、その恋の炎を吹き消す真似はしないだろう。
ジャヘイラは「誰に似たんだか」と母のような顔で呟いた。その呟きはラサードに向けたものではなく、もうここにいない誰かへの問い掛けだった。
かつて自分も同じように、口下手な男の手を引いた。呆れ、ため息をつきながら、それでも正義の闘志を燃やす男に手を伸ばさずにはいられなかった。その熱が、鋼鉄の冷たさを持って敵に立ち向かうジャヘイラをずっと温めた。そうやって二人は愛を育んだ。困難も少なくなかったが、それでもカリードの手を離さなかったのは……一度芽生えた愛という感情がどこまで育つのか見届けたかったのだ。
ジャヘイラの呟きに答えたのは、編んだ髪を揺らす風だけだった。ジャヘイラにはその風が、弱々しく控えめに笑う夫の声に聴こえた。そして、相槌を打つように一人静かに頷く。
「……その娘を必ず幸せに出来るんでしょうね」
間髪入れずにモンクは答えた。
「ええ。彼女を守り支えることが、全てを失った私に残された、唯一の喜びです。月の処女セルーネイに誓って」
決意滲むモンクの声に、ジャヘイラは宿屋で一生懸命に言葉を紡ぐ夫を思い出した。その額に滲む汗も、必死の形相もまだ全て覚えている。あんなのを求婚と呼ぶのは馬鹿げているかもしれないが、それでもジャヘイラにとって愛を手にした大切な日だった。
温かい記憶を振り払い、ジャヘイラは目の前のモンクに睨みを効かせた。
「もしその娘を泣かせたら、二度と拳が握れなくなると思いなさい。私は毎晩得物を念入りに研いでおくわ」
人差し指を突きつけられたラサードは目を丸くする。
「! もしかして……私の想い人に気付いていたのですか?」
「全部顔に書いてあるわよ」
籠を持たない方の手で、モンクは自分の頬や額をぺたぺた触って確かめた。恐らく、言葉通り顔に文字が書いてあると思ったのだろう。ジャヘイラは冗談の通じない男と野菜をその場に置き去りにして、篝火の方へと歩き出す。一歩踏み出す毎に胸が暖かくなるのは、まだ灯し続けている誰かへの埋み火が、再び激しく燃え上がったからだろう。
「ヨシモ! 鍋の用意はまだなの?」
「ちょっと待って欲しいネ。今油敷いてるのネ」
「さあ、子供たち。今日の味付けはカリムシャン風よ」
ジャヘイラは勝気な顔で仲間を見渡した。面々はその声を号令代わりに料理に取り掛かる。仲間がてきぱきと動き出すのを見届け、ジャヘイラは娘を見る。モンク曰く星灯りのような瞳を輝かせ、《彼女》は「これは、カリードの好物ね」と表情を緩めている。ジャヘイラもつられて微笑んだ。
ねえ、カリード。私たちの愛はまだここにある。そして私達のすぐ側では、新しい愛が萌芽を待っている。大樹の枝の先で間もなく開くまだ若い芽。あなたにも見えているでしょう?
胸の内で投げ掛けた問いに、小さなそよ風が優しく頬を撫でて答えた。

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