年が明けてから一番寒い朝だった。春の気配はまだ遠く、刃物のように鋭い冷気が耳をなぶる。不用意に息を吸い込めば肺ごと凍ってしまいそうなほど空気は冷え切っていた。どこからともなくひらひらと舞い降りた氷の結晶は朝日を浴びて一瞬輝き、気まぐれに風に吹かれたかと思えば程なくして雪景色の仲間入りを果たした。見慣れたはずの通勤路。しかし今日ばかりはまるで異国を見ているようだった。粉砂糖をまぶしたように雪化粧で彩られた風景は、非日常を感じさせる。クリスマスに雪が降るとホワイトクリスマス。それなら今日はホワイトバレンタインと呼ぶのが相応しいだろう。コンビニやスーパーは浮足立つ男女を後押しするように浮かれた曲を流し、どこを見てもチョコレートが目に入る。
そんな空気に呑まれてか、起きた時から気もそぞろだった。今この瞬間だって何か変だ。そわそわして落ち着かない。職場に着くまでにこの寒さで頭が冷えることを祈るばかりだ。気を逸らそうと深く吐き出したため息が白く立ち昇っていく様子を見届けるものの、心は穏やかではない。何が原因かは分かっている。バレンタインだ。
一体……何を期待しているんだ。俺には縁のないイベントのはずだ。少なくとも今まではそうだった。それなのに、もしかしたらと思ってしまうのは……間違いなく彼女のせいだろう。
貰って嬉しいプレゼントを尋ねられたのが数週間前。上手く答えられず躱してからというもの、彼女はあの手この手で俺の好みを尋ねようとした。心理テストだとか占いだとか…いかにも女子学生が好みそうな話題にかこつけて彼女はしきりに菓子について話した。チョコレート、マシュマロ、クッキーに和菓子、ついには煎餅まで候補に挙げて顔色を窺う様は大層いじらしかった。何を貰うかより誰から貰うかの方が重要じゃないか?という教育的問いかけが彼女の耳に届かなかったのは言うまでもない。ともかくここ数週間はそんな調子で、全く意識していなかった俺でも意識させられるほど彼女は事あるごとに菓子やプレゼントを話題に上げた。
そもそも、校内への菓子の持ち込みは禁止されている。校則違反だ。教師である手前、彼女がそれを持ち込めば取り上げるしかなくなるわけだが……生徒指導常連の彼女はそんなこと気にも留めていない様子。果たしてどんな手で校則を潜り抜けるつもりなのか見ものだ。淡い期待と、期待し過ぎないように張った予防線の間で心揺れるうち、あっという間に放課後を迎えた。
「先生、ちょっといい?」
「どうかしたのか?」
なんとも白々しい返答だった。不自然にならないよう取り繕ってはいたが、内心いつもと違う様子からこの後の展開は察していた。彼女がまごついている理由も、何を言わんとしているかも。
「せ、せんせ……あのさ……」
二人きりでなければ聞こえないであろう声量。緊張が滲む表情。どれ一つとっても彼女らしくない佇まいを何も言わずにただ見守った。もじもじと足の置き場を変えては、何かを言いかけて口をつぐむ。幾度かそれを繰り返したのち、ようやく彼女は顔を上げ、背に隠していたものを差し出した。
「お、落とし物、見つけたから……!」
差し出されたのは、少し落ち着いた色の小さな手提げの紙袋。明らかにプレゼント用包装がなされている。なるほど、そうきたか。ここまでされると呆れを通り越し、微笑ましさから笑みが溢れる。中を覗くと、紙袋のシックなデザインとは打って変わって、丁寧にラッピングされた可愛らしいプリントの袋が納まっている。人生を振り返っても、こんなに心踊る包装でプレゼントを贈られた経験は殆どない。
「……落とし物、なんだな?」
用意された《体》に合わせて聞き返すと、彼女は視線を泳がせながら曖昧に頷いた。
「そう……」
「どこにあったんだ?」
「え!? う、うーん……? 先生の机の近く、とか…?」
顔を真っ赤にしながら見え透いた嘘を吐く教え子。こんな場でなければ通用するはずもない嘘だ。彼女の将来を思うなら正すべきだろうか、と一瞬頭をよぎったが、こんな場でも教師で居続けるほど頭が硬いつもりはない。今ここにいるのは教師ではなく一人の人間としての俺で、それは彼女も同じだろうと目を瞑ることにした。
「……ありがとう」
いじらしさに胸が詰まりそうだった。女生徒でなければ肩を抱いて感謝をしただろうが、あらぬ噂を立てられても困るだろうと自重した。
「もし持ち主が見つからなかったら……先生が食べて? 口に合うか、分からないけど…」
顔から呪術を噴き出すのではないかという程赤面した顔を両手で覆って、彼女はそう付け加えた。落とし物の中身を知っているのはおかしいだろうという言葉は飲み込み、ただ頷いた。
******
帰宅するや否や、没収した《忘れ物》が鞄や荷物で押し潰されていないかを真っ先に確認した。常に持ち歩くわけにもいかず、かといってそのまま保管するのも心許ない。緩衝材代わりに畳んだ弁当箱の包みを挟み、なるべく揺らさないように持って帰ったのだった。
俺が抱えるにはあまりに不釣り合いな可愛らしさ溢れる包装を慎重に解いていく。リボンを解くのに一苦労、中から出てきた箱を開けるにもう一苦労、そうして焦らされ高まった期待を一心に受けいざ開かれた箱の中には……チョコレートを生地に使った洋菓子が控えめに佇んでいた。
「……」
認めたくないほど、心臓が早鐘を打っていた。顔が熱い。言葉にし難い沢山の感情が湧き上がり、押し寄せて……今すぐにそれを外に出さないと心臓が爆発してしまいそうだった。これを俺に?彼女の手作りで?それだけで息が詰まりそうなほど嬉しいのに、箱の底からこれまた可愛らしいメッセージカードが添えられているのに気付く。
《先生いつもありがとう。これからも呪術と先生のこと教えてください。温めて食べてね》
丸く癖のある字を何度もなぞった。呼吸は……こんなに難しかったか?慌ててカードと洋菓子を机に置いた。制御できない感情で暴発した呪術が全て焼いてもおかしくない。そう思うほど、今は心も身体もまるで自分のものではないようだった。
冷静になるために、包装とリボンを綺麗にたたみ直し、着替え、手を洗い、それでも煮え立つ頭を落ち着かせるため冷たいシャワーを浴びた。ようやく少し頭が冷えたところで、一番見栄えの良い皿にその洋菓子を慎重に移し替え、あらためて対面した。
マグカップの底ほどの大きさの円形の生地に、今朝見た景色そっくりの粉砂糖がハート型にまぶされている。ココアと白で分たれた境界を跨ぐようにフォークを差し込むと、中からとろりとチョコレートソースが溢れ出す。凝った作りだなと感心しながら口に運ぶと、密度の高いしっとりした生地からほのかにブランデーが香った。見た目からもっと甘いかと思っていたのだが、甘さは控えめで後味にココアのほろ苦さが残る。至る所から《大人の味》を目指したであろう苦心を感じる。フォークからこぼれ落ちた一欠片すら惜しくて、指ですくって口に運んだ。後引く甘さに負け、一口もう一口……とフォークを伸ばすうち、あっという間に皿の上は空になった。
皿の前に取り残されたのは……焼き菓子よりも大きく膨れ上がった、もっと味わいたいという期待だった。控えめが故に次を欲してしまう、身を滅ぼしそうな罪な甘さ。ほろ苦さの中に込められた幼い甘さ。その虜になっていた。もっと甘くても良かったのに、俺のために控えめにしたであろう甘さが健気で、かえって欲しいと思わせた。
それとも、俺はとっくの昔に虜になっていたのかもしれない。そうでなければ、規則を犯してまで味わったりはしなかっただろう。ぬかるみに足を取られるみたいに、どんどんこの甘くほろ苦い感情の深みにはまっている。ケーキを暴いた先に見たのは、倫理的規範からは程遠いどうしようもない己の性。もっと知りたい。生涯かけて火を育て続ける呪術と同じように、時間をかけてゆっくりと、彼女のことを知りたい。そんな許されない甘い夢想も……今日くらいは味わっていいだろうか。
******
翌る放課後、彼女は心なしか控えめに準備室の扉をノックした。いつも通り迎え入れるも、挨拶もそこそこに教科書を開いて宿題に手をつける。昨日とは打って変わって素っ気ない態度だ。……普段は何かと理由をつけて雑談に花を咲かせているというのに。恐らく、昨日のやり取りが気まずいのだろう。その様子にこちらまで少し緊張しながら、後ろに立って開いたページを覗き込む。ノートに書かれた筆跡は、間違いなく昨日の《落とし物》の持ち主と同じものだった。
「落とし物……ありがとうな。美味かったよ」
「あ……甘すぎなかった?」
「ああ、好みの味だったし気に入ったよ。手間も時間もかかったものだろうな」
「……! そっか、よかった……」
「食べられなかった《落とし主》はさぞ悔しいだろうな」
彼女は視線を教科書から外さないまま、頭の上で括られた髪を嬉しそうに揺らした。それから、少し震えの滲む声色でぽつりと呟く。
「せんせ、あのさ……落とし物だから分かんないけど……多分あれは、本命……だよ?」
ノートを走るシャープペンが動きを止める。丸い文字の横に添えられた手が僅かに白さを帯びていて力が込められている。それを見下ろす俺もまた動けずにいた。壁掛け時計の秒針だけが過ぎていく時を規則的に刻み続けている。答えなら決まっている。だが、それを伝えるのは……今じゃない。選んだ言葉のほろ苦さを誤魔化すように甘い期待を添加した。ハートの形で整えられた、粉砂糖くらいの淡い夢を。
「それなら、受け取るはずだったやつは……幸せ者だな。それに、お返しするべきだ」
「……お返し?」
「落とし物を拾ってくれた礼だ。甘いものは好きか?」
「……うん」
こちらを見上げた彼女は、期待に満ちた眼差しでとびきりの笑顔を見せた。
遠い未来、いつか彼女が本当に大人の味を楽しめるようになった時。それでもまだ俺に甘い夢を見ていてくれるなら……その時はきっと、相応しい答えを贈ろう。