カプチーノ・キス

不死×ラレ
不死が生徒でラレが教師の学パロ。手の焼ける女生徒に振り回されるラレ先生。
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開けた机の引き出しに、畳み終えた弁当箱を入れる。午後の始まりを告げる香りを肺一杯に満たし、一息つく。淹れたてのカプチーノから香る深煎りのエスプレッソの香りが、食後の眠気覚ましに丁度いい。同郷の老師が勧めてくれたブレンドは、忙しい日々の小さな癒しだ。
昼下がりの第二準備室は、廊下の人通りが少なく静かに過ごせるのが好きだった。特に晴れた日は日当たりが最高で、窓を開けると心地良い風と太陽が準備室いっぱいに入ってくる。彼女もどうやら、それを気に入ったらしい。
彼女とは、俺の呪術の教え子のことだ。何がきっかけなのか俺に熱心に好意を伝えてくる女生徒。短すぎるスカートや胸を開け着崩したシャツを、何度注意しても直さない問題児でもある。最初は施錠を忘れた第二準備室で居眠りをしているところを見つけたのだが、俺がこの準備室の管理を任されたと知ると「先生に質問にきた」という口実で足繁く通うようになった。いつしか空き時間や昼休みは必ずここに来て、自由に過ごすようになった。やがて彼女が居る風景も珍しくなくなり、今では準備室の備品と同じくらい、ここに馴染んでいた。
「あっつ!」
机を挟んだ向かい側で同じものを口に運んだ彼女は、出来立てのカプチーノを一口飲んで眉を顰めた。俺には何やらさっぱり分からない《ラメ》やら《ストーン》やらがあしらわれた指先でガチャガチャと手鏡を出し、舌の火傷を確認している。そしてそのまま前髪を直すと、もう一度カップに向き直って一生懸命息を吹きかけはじめた。本当に、慌ただしい奴だ。
「大丈夫か?」
「……少し赤くなってた。……超ヒリヒリする! 先生も気を付けて?」
口を尖らせる彼女を微笑ましく思いつつ、慎重にカプチーノに口をつけた。確かに今日は少し熱い。もう少し冷まそうかとカップを机に置くと、彼女はこちらをじっと見てそれからにんまりと口角を上げた。
「……ふふ。せんせ、髭に泡ついてるよ」
「ん? どこについてる?」
「……ここ」
彼女が指差すところをそのまま指で拭う。きめ細かく立てられたミルクの泡が指についた。そのまま舐め取ると、彼女は椅子から体を浮かせて「あー!」と短く抗議した。
「もう〜! 私が取ってあげようと思ったのに」
「はは、自分で取れるよ」
彼女は、拭った指をティッシュで拭いたのを残念そうに見届けて、顎の下で組んだ両手に頭をのせた。まだ熱くて飲めないのか、つまらなさそうにカップを見つめている。いつの間にか彼女が持ってきて置いて帰るようになったペアカップは、初めに見た時よりプリントの色が若干褪せている。その薄くなったプリントを指でなぞりながら、彼女は呟く。
「ねえ、先生。その泡をキスして取ってあげることを《カプチーノ・キス》って言うんだよ。……知ってた?」
「へえ、知らなかった。そんなこと、よく知ってるな」
歳の割に随分洒落た話を知っているものだ。「どこで知ったんだ?」と問いかけ再びマグカップに口をつける。彼女は一瞬答えづらそうに目を逸らした後、おずおずと答えた。
「ん〜……《誰かに教わった》のかも……ね?」
彼女の返答に驚いて、口に含んだカプチーノが危うく肺に流れるところだった。軽く咳き込みそうになるのを堪えながら、もう一度言葉を咀嚼する。誰かに教わった……か。
「そ……そう、か」
彼女の口からまさかそんな言葉が出るとは思ってもみなかった。いや……別におかしなことではない。少し意味深な言い方だから驚いただけで。恐らく、彼氏にでも教わったんだろう。年頃なのだ。恋人が出来ても全く不思議ではない。
むしろ、これまで俺に熱心な興味を向けていたことの方が、よほどおかしな事態だった。一時の憧れや戯れだとしても、歳の離れた冴えない教師に愛だ恋だと宣うなんて大人として心配になる。同じ年頃の彼氏が出来るのは、精神が健全に成長している証とも言える。
……考えてみれば、このところ昼休みや放課後に準備室に来ることが減っていた。友達がいないからと俺を頼り、まるで自分の部屋みたいに準備室にマグカップやらお気に入りの紅茶やら置いていたのに、めっきり姿を見せなくなっていたのだ。おおかた友人でも出来たのだろうと気にせずにいたが、そうか……彼氏ができたのか。
「……なるほどな」
やけに苦みの強い一口を飲み込んだ。彼氏……どんな奴なんだろう。ちゃんとしているといいが。急に不安に駆られて彼女の顔をまじまじと見る。どこにでもいる普通の、でも周囲には少し馴染めない少女。校則違反や風紀違反で浮いているから、真面目なやつからはよく思われていないだろう。となると、相手も不良だろうか。派手な服装で誤解されて、夜遊びに誘われたりしていないだろうか。もし悪い輩と付き合っているのなら、早い段階で大人として正しく導いてやる必要があるんじゃないか……?
しかし、「先生、先生」と俺にばかり懐いていた彼女に、同じ年頃の交友関係が出来たのなら、どんな形であれ、それは喜ぶべきことかもしれない。年上の男に叶わぬ恋をして短い青春を終えるより、多少やんちゃをしていたとしても、同年代の男と付き合う方が、世間一般的にはまともだと言えるだろう。屋上からつまらなさそうに校庭を眺めていた彼女に、年相応の付き合いができたというなら、それは教師として間違いなく祝福すべきことなのだ。そんなことは分かりきっている。
……それなのに、素直に祝福してやれない自分がいる。「おめでとう」の一言くらい言ってやりたいが、うまく笑えない。一体どうしたんだ、俺は。
言葉にし難い幾つもの感情が、カップの中で撹拌されたミルクとエスプレッソのように渦巻いていた。この感情の正体が分からない。何なんだ……この気持ち。他にどんな時に、こんな気持ちになるだろう。次来た時に買おうと思っていた商品が売り切れていたのを知った時?懐いていた野良猫に帰る家が出来た時?それとも、意中の相手に恋人がいるのを知った時か?
まさか。そんなのは……正気じゃない。相手は生徒で、大切な教え子で、齢十いくつの子供だぞ?そんな相手に、どうしてこんな気持ちになってるんだ。彼女を導くべき大人が抱いていい感情ではないだろう。
訳のわからない感情を押し流そうと、もう一度カップを手に取る。ごくりと喉がなるほど勢いよく飲み干し、ソーサーに置いた。喉が灼けるように熱い。飲み終わったカップを持つ指先が少し震えて、カチャカチャと嫌な音を立てる。俺が冷静さを取り戻すよりも先に、熱い液体は胃へ到達した。底に残った色の濃いエスプレッソの後味が、いつもよりずっと苦い。
「……彼氏とは……仲良くやれそうか?」
さりげなく話を聞いて、悪い人間じゃないか確かめるくらいは問題ないだろう。交友関係に口を出すつもりはない。ただ、彼女の未来に悪い影響を残さないか……それを確認するだけだ。
「え……? な、なに……? 彼氏?」
「いや、変なことを聞いたな。……忘れてくれ」
今しがた液体を飲んだばかりなのに喉はカラカラだった。取り繕った言葉は、掠れた声も相まってどこか虚しさを孕んでいた。
教師だから応えられないとさんざん逃げておきながら、向けられた感情は独り占めしたいと、心の底では思っていたのかもしれない。それか、彼女はいつまでも俺のことを好いていてくれると……無邪気にそう信じていた。その気持ちに応えてやることなど、出来やしないくせに。
彼氏の存在でこんなに自分が取り乱すなどとは思ってもみなかった。恥ずべき感情に気付いた今、どんな顔で彼女に向き合えばいいのやら分からない。
当の彼女はといえば、急に真面目な顔になった俺を不審がって頭を捻り、それからうーんと考え込んだ。かわいい教え子に気を遣わせていることが、輪をかけて俺の心を苦しめた。
言葉なくぼんやりと並んだマグカップを見ていると、彼女は椅子に座ったまますぐ隣まで近付いて耳打ちをした。
「せ、先生は……私の彼氏?」
「ん? 先生か? 先生は………んっ?」
「先生って私と付き合ってる?」
そう言って真剣な眼差しでこちらを見上げてきた教え子は、答えを待つ間に耳まで真っ赤に染め目を泳がせた。
「は……な、何を言ってるんだ!? まさか……そ、そんなわけないだろう!? あんたは、俺の生徒だぞ!?」
どくんどくんと耳の奥がうるさい。こいつは突然、何を言い出すんだ。こちらまで顔が熱くなった。いつも突拍子がないといえばそれまでだが、それにしたってどうかしている。
「なーんだ。……なぁんだ」
彼女は期待して損した、と言わんばかりに肩を落とした。椅子のキャスターをカタカタ言わせながら床を蹴って、一気に俺と距離を取る。何が「なーんだ」だ。本当に、心臓に悪い。
「じゃあ私、彼氏いないよ? 先生以外と付き合う気、ないもん……」
拍子抜けして、ため息が出た。目まぐるしい早さで情緒を揺さぶられて……それだっていつものことだが、今日ばかりは本当に疲れた。俺は俺で、どうしてあんな早合点をしてしまったやら。心を落ち着けたくて、冷め始めたカプチーノを啜った。
「それなら、さっきのキスの話はなんだったんだ?」
「えっ? あぁ、あれは友達に聞いたんだよ? 最近仲良くなった子がいてね、恋愛ドラマ好きなんだって。友達が出来たよって先生にいつ教えようか迷ってて……結局、今言っちゃったね」
「それで最近来てなかったのか」
「せんせ、もしかして……私に彼氏が出来ちゃったと思った?」
図星だったが、そうと認めるわけにはいかない。何も言わず苦笑を漏らすと彼女は「ちぇっ」と舌打ちして、子供みたいに頬を膨らませた。
「それより……友達ができてよかったな。今度来る時は、その子も連れてきたら良い」
そこに午後の予鈴が鳴った。毎日聞いている音なのに、その間がいつもより長く感じられる。準備室の前を知らない生徒が走り抜け、少しして二人の生徒がそれを追ってまた駆け抜けた。足音に驚いた彼女は、反射的に引き戸の方を振り返る。それにつられてポニーテールが大きく揺れた。遠のいていくバタバタという足音を見送ると、まるで嵐が通り過ぎた後みたいに辺りは急に静かになった。
彼女と目が合う。淡い黄緑の瞳は何か言いたげだ。何も言わずに言葉を待っていると、予鈴の最後の音が鳴った。
「……ねえ、せんせ。いつかしてあげるね。カプチーノ・キス」
「……次の授業に遅れるぞ」
気怠そうな「はーい」という返事の後、準備室の扉がピシャリと閉まる。環境音と二人分のマグカップと俺だけが取り残された準備室は、妙に味気なくくたびれて見えた。
やっと仕事に取り組めるというのに、心はちっとも平穏ではない。自分の中にある答えの出ない感情が、いつか間違いを犯してしまうのではないかと恐ろしかった。
結局、いくら探してもこの感情は分類できなかった。しかし手放せもせず、ラベルをつけられないまま胸の内に秘め、鍵をかけることにした。
傾けたカップの底では、カプチーノの泡がエスプレッソの上を漂っている。もう少しで溶けそうなのに決して溶け合わず、分離するミルクとエスプレッソの波。それが天井の蛍光灯を反射し、窓の外の景色を映し出していた。澄み渡った空とそこに浮かぶ雲の輪郭がはっきりと見える。
俺はその飲み残しを飲むわけでもないのにスプーンですくって、ただかき混ぜた。ミルクとエスプレッソ。空と雲。混ざりそうで混ざらない二つの運命。その境界に……思いを馳せて。

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