瞑想の最中、ふと篝火の中から強い炎の気配を感じた。
はっとして顔を上げる。火の粉を上げて一際大きく燃え盛った篝火の向こうに、人影が見える。その影は陽炎のように揺らめき、見る者を焦らすかのように、時間をかけて輪郭を鮮明にしていく。このロードランに訪れてから一番待ち遠しく思う時間。それは、篝火の中で踊る火の一端が、見慣れた暗い赤毛へと変わる瞬間だった。
彼女が戻る度期待に胸が高鳴った。再び言葉を交わせる安堵と、彼女から聞かされる冒険譚への期待。それだけで思わず顔が綻ぶほどに。その時間は、まるで大沼の師から新しい呪術を習う時のように嬉しかった。
長旅から帰ってきた弟子を迎え労おうと背を正す。次に視界に映ったのは……傷だらけでボロボロになった黒革の外套と、だらりと力なくぶら下がった利き腕。それを引きずって俯く彼女だった。
冷や水を浴びせられたみたいに、胸の興奮が冷めていくのを感じた。瞬く間に胸の内が心配と不安で塗りつぶされていく。彼女の身に何があったのかはその全身の装備が物語っていた。度重なる擦過で褪せてしまった外套に、裂け目がいくつも覗く革のレギンス……上から下まで傷だらけだ。それなのに彼女は、力強く篝火から立ち上がり、堂々とした足取りでこちらに向かってくる。今しがた見た光景が見間違いかのように、全力で《普段通り》を演じている。心配をかけまいとしているのだろう。そんな姿に、声をかけていいものかと一瞬葛藤が生まれる。怪我について触れられたくないのかもしれない。
結局、見て見ぬふりはできず、彼女が口を開くより先に言葉が出てきた。
「また無茶したのか」
彼女は何のことだと言わんばかりに小首を傾げたが、痛みで顔を引きつらせ、それからややあって小さな溜め息を漏らした。
「……ばれちゃった」
腕が鈍ったと笑い、俺の前に腰を下ろす間も、動かない右手を庇うように姿勢を変えている。ばれるも何も、隠す気があったなら詰めが甘い。
支えになるよう手を出すと、彼女は素直に手を取り体重を預け腕にもたかかった。
「その腕……まさか、動かないのか?」
ずたずたに引き裂かれた革から覗き見える右腕は、すっかり変色している。見たところ、彼女の意思で動かせていないだ。そっと肘の先に触れるも、彼女は触れられていることにすら気付いていない。感覚が残っているかも疑わしい。俺の質問に彼女は考える素振りを見せ、躊躇いがちに口を開いた。
「……いつもなら。篝火に触れると、すぐに治るんだけど。今回はエストを飲んでも、篝火に触れても、この調子。まあ……きっとそのうち良くなる」
本人はさほど気にしていないのか、あっけらかんと笑っている。利き腕が動かないなんて、笑っている場合じゃないだろうに。
幸い俺は、不死になってからそう何度も死を経験していない。伝え聞く話や口振りからして、恐らく彼女の方が死の縁から蘇った経験は多いだろう。その彼女が言うなら、そうなのかもしれない。だからといって、不安なことは変わりはないが。思わず彼女を支える手に力が入る。
「でも、師匠の呪術はすごく役に立ったよ。ほら! こっちは無傷でしょう? この間教わった《火の玉》だって、ちゃんと使えた。……見せたかったな」
呪術が役に立っていると聞かされても、彼女が傷だらけでここへ戻る限り、俺の不安は消えない。それを彼女は知らないだろう。守ってやることも、その成長を見届けることもできない己の無力さが歯痒かった。浮かない心持ちを悟られないよう曖昧に笑う。しかし詰めが甘いのは俺も同じで……彼女は俺の思わぬ反応に、不安そうに眉を顰めた。
「……師匠?」
言葉を選んで取り繕うより、彼女の手を取る方が早かった。擦り切れた黒革を纏った小さな左手を両の手で包み込む。するとそれに驚いた彼女の瞳が小さく揺れた。
「俺は……正直にいえば、あんたが心配だ。出来ることなら、傷付く姿なんか見たくない。もし亡者になったらと思うと……気が気じゃないさ」
言葉が耳に痛かったのか、彼女は無言のまま目を伏せる。もう随分長い付き合いだ。こういう話をすると、気まずそうに茶化すか、何も聞こえなかったふりするのを知っている。それでも彼女の瞳を正面から捉え話し続けた。
「俺があんたに出来ることは、呪術を教えるくらいだ。でも、他に何か助けになれることがあるなら……何でも言ってくれ。いつでもあんたの力になる」
瞳に滲んだ気まずさを追い払うように、案の定彼女はおどけたリアクションを見せ、すかさずこちらを覗き込む。
「……ふうん。何でも?」
握られていた手をするりと抜き去り、取り残された俺の両手に重ねた。
「……ああ。俺に出来ることなら、だが……」
にやりと三日月型に細められた瞳に、不穏さを感じ取る。身構えつつ頷くと、彼女はなおも身を乗り出して念を押した。
「本当に?」
たじろいだ俺を追い詰め、獲物でも見つけたような、得意げな表情で覗き込んでくる。翡翠色の瞳は、取引だと言わんばかりに輝いている。戸惑いを隠せず、もう一度だけ軽く頷く。力になりたいのは事実だ。とはいえ、呪術以外に俺に手伝えることなど、俺にあるだろうか。髭を撫で考えあぐねていると、彼女は崩れかけた結髪をほどき、指でなぞって毛束を梳いた。
「……それなら、髪を結って欲しい。利き手がこれじゃ、上手くいかないから……」
普段は首の後ろで綺麗にシニヨンにまとめられている赤毛。それが肩にかかり、さらさらと流れていく。彼女の指の動きに合わせて靡く髪は、一本一本とても細く、陽に当たる度炎のように輝いた。その様子があまりに美しくて、思わず感想が漏れる。
「あんたの髪……そのままでも十分綺麗だけどな」
言い終えてから、「しまった」と思った。しかし、彼女は全く意に介さず革紐を俺の手に押し付けた。
「ありがとう。でも、戦ったり盗んだりするのには不向きだから」
肩甲骨の下まで伸びた長い髪。この長さなら、彼女が短刀を振るうたびに揺れる様が容易に想像つく。赤毛はよく目立つし、盗み先に髪を残すわけにもいかないのだろう。彼女の旅に不向きだというのは、想像に容易い。実際、長い時間を共に過ごす中でその髪を靡かせているのを見たのは、ほんの幾度かだ。
人前では滅多に解かない髪を結い直す姿を見る度、心を許しているからではないかと……甘い考えが頭をよぎることもあった。それがどんなに身勝手な幻想か理解しているからこそ、仄暗い欲望は都度心の奥底に沈めていた。そんな折、彼女の方から髪を結って欲しいと申し出られたら。呪術の師や友人である前に……俺も一人の男だ。秘めていた暗い感情が、甘い期待が、鎌首をもたげる。
「俺は構わないが……あんたは、嫌じゃないのか? その、俺に髪を触られても……」
彼女は当然だと言わんばかりに大きく頷いて、俺に背を預けた。
鼓動が早鐘を打つ。髪に触れることを許すのは、師弟や友人の域を出ない信頼の証なのか、それとも……。考えれば考えるほど深みに足を取られてしまいそうだ。
頭では分かっている。彼女は親しい友人として、俺を頼っているだけだ。髪に触れることに特別な意味を見出しているのは俺だけで、彼女にとっては些細な頼み事なのだろう。これは一時的に彼女の利き手の代わりを引き受けただけだと、何度も自分に言い聞かせる。そう理解していても、指は小刻みに震えた。
恐る恐る、指を伸ばす。触れた指先に伝わる髪の感触は、想像よりもずっと柔らかく、絹のように心地が良かった。頭の形に沿って指で梳いていくと、髪は太陽の光を受けて焔のように揺れる。その感触と、彼女が髪に触れることを許した事実だけで、理性を揺さぶるには十分だというのに。梳くたびに香る、微かな甘い芳香が余計に俺の心をかき乱した。
「この香り、懐かしいな。睡蓮、だったか」
甘く柔らかい髪の香りに惑わされて、自分がおかしなことを口走っているのではないかと、気が気でなかった。そんな俺の胸中も知らず、彼女は首を傾け逆さになってこちらを仰ぎ見る。
「睡蓮?」
「ああ。きっと、あんたが髪につけている、香油か何かだろう? 睡蓮は沼地に咲く花だから、馴染みがある。俺もこの香りは好きだ」
遠い故郷への郷愁が心を掠める。沼地で嗅いだ優しく甘い睡蓮の香りは、不死になるより前、大沼での穏やかな生活を思い出させた。
しかし彼女は、訝しむように眉を寄せる。
「香油は……つけてない、けど……」
互いを見つめながら沈黙の時間が過ぎていく。その言葉で不安になり、もう一度深く息を吸い込む。するとやはり鼻腔を蕩かすような甘い香りが押し寄せてくる。
「本当に、つけてないのか?」
なら、この芳香はなんなのか。これが香油の類でないというのなら、他に考えられるのは、彼女自身の香りということくらいだが。いくら俺が彼女に惹かれているからといって、こんなに甘い香りがするわけないだろう。
自分の鼻が信用できなくなり、彼女から遠い空気を吸って、もう一度髪の香りを嗅ぐ。うーん、やっぱり甘い香りがする。何度も確認する俺が可笑しかったのか、彼女は呆れたように笑った。
「私は盗人。盗人は、わざわざ好んで香りを纏ったりしない。そこにいる証を残したら、足がつくんだから……」
全くもってその通りだろう。ならこの甘い香りの出所は。……とんでもないことを口走った事実と、鼻を抜ける甘い香りに頭がくらくらする。
「……じゃあこれは……あんたの香りか」
睡蓮みたいな香りがするんだな、と付け足して、すぐに酷く後悔した。
恥ずかしさでだんだんと尻すぼみになっていく俺の隙をついて、彼女は体を翻す。
こちらに向き直り、わざわざ笑っていることを見せつけるように、不自由でない左手で鴉羽色のマスクを外した。そして、にやりと口の端を上げる。
「……へえ。いい香りがしたんだ?」
睡蓮っていうと、甘くてみずみずしい香りでしょう?と続けて、そのまま顔を近づけてくる。空いた左手が、俺のフードの裾を掴んで強く引いた。あともう少しでも力を入れて引けば、俺の唇が彼女のそれに触れてしまいそうな距離。呼吸の温度が分かるどころか、お互いの鼓動まで聞こえる。糸に足を取られた羽虫のように、俺は動けなくなっていた。
「……な、にして……」
翡翠の瞳は探るように俺の目を捕らえる。生暖かい吐息が、頬のあたりを掠めていく。
彼女はたまにこうして、俺を揶揄う言動をする。そこまでは普段通りだとしても、いつになく距離が近い。過ちを犯してしまいそうな距離だ。間違ったら触れてもおかしくない近さに面食らう。
「意外だった……甘い香りが、好きなんだ?」
顔から火が出そうだった。咄嗟に顔を背けようにも、彼女の手は俺を逃すまいとしっかりフードを握っている。問い掛けに答えられず、ただ押し黙ってその瞳を覗く。俺の反応に気を良くしたのか、彼女はさらに挑発的な笑みを浮かべた。
「ねえ師匠。さっき言ったでしょ……なんでも力になるって」
彼女が言葉を発する度に、吐息がかかる。フードの中は、二人分の呼気でしっとりと湿っていた。皮肉なことに、距離が近づいた分睡蓮のような彼女の甘い香りが立ち込めていて……息を吸うだけで気が遠くなりそうだった。《心を奪われる》とは今のような状態を指すのだろう。なんとか抗おうと理性を奮い立たせるが、やっとの思いで出たのは情けないほど掠れた声だった。
「……いつもこうやって、男に迫ってるわけじゃ……ないよな?」
「まさか」
そうは言っても、こんな言動をされてはまるで信ぴょう性がなく、疑わずにはいられない。俺の知らないところでも、こうやって人を翻弄して、心を盗んで回っているんじゃないか?この祭祀場には魔術師や聖職者なんかも集まっている。出会った全員にこんなことをしているなら……世紀の大泥棒だ。ただの友人や師相手にこんなことをするのなら、恋人になったらどんなことをするつもりなんだ!誰にでもこんなことをして、ただで済まされるわけがない!
混乱する俺を見透かしてか、それとも追い詰めるためか、彼女はわざとらしく声をひそめ、やさしく囁いた。
「師匠にしか、こんなことしない」
「っ……」
葉擦れや小鳥の囀りくらい、小さくてくすぐったい息が耳にかかる。本当に、すぐにでも、どうにかなりそうだった。こんなことされなくたって、俺はとっくに彼女の人間性に惹かれているというのに。どうして彼女は、こんな挑発的な誘惑をするのだろう。
彼女の言う通り、本当に俺にしかこんなことはしないのか?だとしたら……彼女も俺と同じ気持ちなのだろうか。彼女を特別に想い、慕っている…のか?なら、彼女がそのまま外套を引いて、仮に口付けをしたとしても……拒む理由はない。拒むどころか、欲に塗れた本音を言えば、このまま流れに任せて、その甘さを貪ってしまいたかった。
しかし、もしこのまま身を任せたら?互いの唇が触れて、そのままタガが外れてしまったら。彼女と俺の関係はどうなるのだろう。師弟や友人ではなくなるのか?彼女にとって俺は何なんだ?呪術の師か?友人か?それとも……遊ばれているだけなのか?
幾度となく彼女の児戯めいた駆け引きに付き合わされてきたが、本心はちっとも読めやしない。知ろうとすればするほど、霧の中に引き込まれて迷子になる。正体を掴ませないことにかけては、天賦の才がある。
救いを求めるように、フードを掴んでいる彼女の手を取った。彼女が一歩も引かないとなると、もう力尽くで距離を取るしかないと。そうして掴んだ手は、驚くべきことに小刻みに震えていた。まるで何かに怯えているかのように。俺が彼女の髪に触れた時と全く同じように。
彼女はそれに気付いていないのか、余裕そうな笑みを決して崩さない。
「……その気になった?」
得意げな声の調子とは裏腹に、その指先は、すがるように力一杯フードを握りしめている。それを見てようやく理解した。彼女も、後に引けなくなっているのだ。児戯の延長で揶揄ってみたら、想像以上に俺が拒まなくて、さぞ困惑したことだろう。自分で始めた手前、その態度を崩すわけにもいかない。そんな本心を明かすなんてもってのほか。欺き続けてきた盗賊は、本音の打ち明け方など知るはずがないのだ。
本心を打ち明けられないというなら、俺も同じだ。こんなにも彼女に惹かれているのに、打ち明ける決意ができず、胸の奥に秘めてきた。異端として忌み嫌われたことは数あれど、真正面から向き合ってもらえたことなどない。本当はどうしたいか、心の底では分かっていても……なんと伝えたものか見当もつかない。
かといって震える彼女の左手を、その不器用な勇気を無下にするわけにもいかない。俺にはできない方法で前に進もうとした、その気持ちに誠心誠意応えたいと思った。これが俺の勘違いや思い上がりではなく、彼女も同じ想いなのだとしたら……師と呼ばれる手前、俺が導くべきだろうとも。勝手に覚悟を決めて、左手を彼女の頬に添える。その肌は俺の体温よりも少しだけ冷たく、触れるとひんやりとした感触に包まれた。
「あんたが始めたことだ。……本当に、いいんだな?」
明るい翡翠の瞳は、動揺の色を浮かべる。何か言おうと開きかけた唇を親指でなぞる。声の代わりに喉を通ったのは、重たい沈黙を飲みこむごくりという音だけだった。冗談みたいに震えているくせに、逃げる気はないらしい。
それを返事と見做して、掴んだ手首と彼女の頬を、そのまま引き寄せた。
熱が唇に触れる。フードの中で共有していた湿った体温よりずっと熱い。その奥に秘められた体温を思うと、こんなのはまだ序の口だろう。でも想像していたよりずっと熱く……柔らかい。触れただけでは物足りず、無我夢中で唇を探りあった。
気付けば、どちらともなく口を開け、舌を絡ませていた。はじめは互いの輪郭を確かめ合うように、慎重にゆっくりとなぞる。舌の先から裏へ進み、やがて輪郭も分からなくなるほど深く絡めあった。どちらのものとも知れない熱と唾液が流れ込んできて、溶かされそうになる。理性で押しとどめていた欲望を暴かれ、自然にその背に手を回し、強く抱き締めていた。息をするのも煩わしくて、苦しいと感じながらも、その唇を乱暴に食む。彼女が誰にも見せなかった全てが堪らなく欲しかった。身体の内側に隠された熱を、全部奪って俺の物にしてしまいたい。そんな感情が抑えられなくなり、時間も忘れて唇を貪った。熱いと感じた彼女の体温が、ぬるく心地よくなっていくまで。
力が抜けてしまったのか、彼女は掴んでいたフードを手放した。しかし、既に抱き寄せられていて距離を取れないことを悟り、今度はもがくように俺の胸を掴んだ。そろそろ息が足りないらしい。仕返しだとばかりにわざと様子を見ると、潤んだ瞳で抗議してくる。なんと可愛らしい抗議だろう。その目で凄まれても、もうちっとも怖くはない。少しの間その光景を楽しんで、最後にもう一度だけ唇を食んで、身体を放した。
離れた瞬間、彼女は溜め込んだ熱を吐き出すように、苦しそうに肩を上下させ浅い呼吸をした。上気した頬、熱に浮かされたような瞳に、抗いがたい強い衝動を覚える。
こんな本能が不死になった今もまだ残っていたとは驚きだ。人目さえなければ、もう一度抱き寄せていつまでもこうしていたい。残念ながら不死が立ち寄る祭祀場ではそうもいかない。まだ唇に残る甘い余韻を惜しみつつ、力の抜けた彼女に手を伸ばす。
「大丈夫か」
彼女はそれに答えず、恨めしそうに「け、けだもの」と呟いてよろめいた。しかし手を伸ばすと素直に体重を預けてくる。そのまま抱きしめて、長い髪を耳にかけて口を寄せる。
「俺がどれだけあんたを想っていたか知っているか? 《けだもの》にならないよう自分を抑えるのが大変だった。……それくらい、あんたが好きだ」
「~っ!?」
耳の先から顔まで、みるみるうちに真っ赤に染まっていった。散々人の心を弄ぶような言動を仕掛けておいて、自分から口付け一つ出来ない。なんとも可愛らしい話だ。思わず頬が緩んでしまう。
「……にやにやしないで」
「……悪い、悪い。あんたがそんな反応をしてくれるとは思わなくてな」
彼女は、大層きまりが悪そうに背を向けた。
「髪、まだ結って貰ってないから……」
「そうだったな」
しなやかな髪をもう一度手に取る。先ほどまで感じていた甘い香りが、今は自分からもしている。この短時間で、彼女の香りがうつってしまったみたいだ。指の間からさらさらと溢れてしまいそうになる毛を優しく撫でつけながら、手の内に掬い集めていった。口づけを交わす前と後で何も変わっていやしないのに、いつになく穏やかで温かい時間に思えた。
「ねえ、師匠」
「ん? ……どうした?」
「……私も」
続く言葉はなく、風に紛れる程のささやきだけが発された。音が伴わなかったその言葉も、俺にはちゃんと聞こえた。胸の内でくすぶり続けた問いの答え。口付けより甘く脳をとろかす言葉。
師や友人以上であることを告げたその言葉は、炎より、篝火より俺の心を温めた。微熱のようにくすぶっていた感情が、熱を加えられて一気に燃え上がる。ひそかに抱いていた感情、その全てを肯定された気がして、言葉にならない幸福感を覚える。……また彼女に気取られないようにするのが大変だ。油断したら、すぐにでも鼻歌をうたいたくなってしまう。
今はそれを抑えて、まずは彼女の髪を結わなければ。じきにここを後にする彼女の、香りと体温を忘れてしまわないように。彼女が、使命の中で傷付くことがないように……祈りを込めて、結わえた髪の結び目にそっと唇を寄せた。少しいびつなシニヨン越しに見た耳の先は、微熱の色を帯びていた。