半分水没した部屋を居た堪れない気持ちのまま探索していた。先ほど見た光景が脳裏に焼き付いて離れない。凄惨な現場なら恐らく何度も目にしてきたのだ。それこそ、ガーゴイルと戦った時など自分の腕や足が身体から離れるのを間近で見た。北の不死院の牢だって趣味が良いとはとても言えない。だがそれを上回る悪辣さを目の当たりにするなんて、思ってもみなかった。引き受けた使命の責務そのものには耐えられたとしても、こんな惨状をこれからも見聞きするかと思うと…この先に暗澹たる感情を抱いた。
ザブザブと水を蹴る音に交じってどこからか弱弱しい呼び声を耳にした。その音の出どころははっきりとはわからず、なんとなく遠くから呼びかけられているように聞こえる。
「…おい、あんた…」
凄惨な死体を見て、ついに幻聴にでも苛まれたのかと思った。しかしその声は幻聴と片付けるにははっきりと繰り返し同じ言葉を呼びかけ続けている。この先に見える小部屋からだろうか?亡者の線も否定はできない。おまけに、先ほどのこともある。もう一度言葉を聞くまでは様子を見てもいいだろう。緊張しながらじっと身構えた。すると、その声はもう一度私に呼びかけた。
「…こっちだ、こっちだよ…」
警戒を怠らず短刀を構えたまま部屋に入る。すると、樽から頭だけを出した状態の男が部屋の隅に囚われていた。松明が届かない暗い部屋の隅で、声の主は体を震わせすがるように助けを求め続けている。
「…助けてくれよ…頼む」
暗くてあまりよく顔は見えないが、亡者ではなさそうだ。声からして憔悴しきっており、時折鼻を啜っている。泣いていたのだろうか。…こんな場所に一人なら無理もない。通りがかる人間など滅多にいないであろうこのような場所で、絶望の中偶然通りかかる助けを待っていたのなら、流石に同情してしまう。
「待ってて、今助ける」
男の身体は樽にぴったりと嵌っているようで、引っ張ってもびくともしない。金属部分をどうにかするしかなさそうだ。体を傷つけることがないよう、樽から慎重に帯鉄部を外そうと試みる。その間も男はずっと震えていた。樽の留め具を一つずつ壊すと、ようやく金属の輪が外れた。束ねるものがなくなった木の板は、それに続いて解けるように地面へと崩れ落ちた。
「…あ、ありがとうよ」
フードを目深に被っており表情はよく分からない。しかし、石や骨の連なった奇妙や首飾りに、みすぼらしい布を重ねた見たこともない装束。こんな言い方は憚られるが、いかにも”異端“といった出立ちだった。この格好に見覚えはない。ただ、一つ思い当たる節があった。男は恐らく…呪術師だ。祭祀場の戦士が言っていた、病み村に向かった呪術師。私より少し先に訪れていたようだったから、まだ生きていたことには少し驚いた。
男は、自由になった身体のあちこちを確かめ…それから震える声で呟いた。拘束されていた両手を開いては閉じ、閉じては開き、そうして何度か握り直したあと、ようやく顔を上げた。
「あんたのおかげで、あいつに食われずにすんだ…。死ねずに料理されるなんて、考えるだけでぞっとすらあ…」
あいつとは、恐らく私が倒した肉屋の出立ちの人食いのことだ。すぐに先ほどの惨状が頭をよぎる。彼を捕らえていたもの以外にも、この部屋にはいくつかの樽がある。元はこの全てに人が捕えられていたのだとしたら…。嫌な想像をすぐに頭から振り払いたかったが、あの惨状を見た後だと否定しきれない。
もしそうなら、この男はいつ自分の番が来るかと絶望しながら”調理”された者の悲痛な叫びを聞き続けていたことになる。あまりに気の毒だ。あと少し来るのが遅ければ、私が見ていたのはこの男のスープだったかもしれない。
「ほんとに、ありがとうよ」
男は握手を求めるように両手をそっと差し出した。仕方なしに左手を出すと、男はそれを両手で強く握り、上下にぶんぶんと振りながら何度も礼を口にした。
「あの…あまり気にしないで」
「なあ、あんたの名前を聞いてもいいか?俺は大沼のラレンティウス。この借りは、きっと返すぜ」
「私は…いや。礼なら気にしなくていい。通りがかっただけだから」
そう言って手を離そうとすると、男は慌てて私を引き留める。
「待ってくれ…!あんた、きっとこの先に行くんだろう?俺も病み村に行かなければならないんだ」
確かに私の行き先も病み村だ。この男の使命が何なのかは分からないが…話は読めた。
「あんたさえ良ければ、俺も同行させてくれないか?こんなところを見られちまったが、俺には呪術があるんだ。きっとあんたの力になれる」
その声は至って真剣だった。旅の同行…悪い話ではない。この先もデーモンやガーゴイルのような敵が待ち受けているというなら、味方の存在は心強いだろう。太陽の戦士との共闘が蘇る。実際、戦闘は頭数が多いほど有利だ。敵への対処がしやすくなるし、攻撃が一人に集中するのを防ぐこともできる。複数の敵に囲まれないだけでも相当やりやすくなるはずだ。
ただ、一つ不安があるとすれば…私は物心ついてから誰かと行動を共にした経験が少ない。盗賊団などに所属する盗賊とは違って、単身で盗みを働くような盗人だ。常に自分一人生きられればいい私が、誰かと旅など出来るだろうか?…それに、足手纏いになるような者を助けてやるつもりも、面倒ごとを背負うつもりもない。あの酔狂な太陽の戦士ならともかく、私は人助けに興じる気はないのだ。たまたま目についた人間に手を貸すことはあったとしても。善人ごっこをするつもりはない。
それをどう伝えたものかと思案していると、男は静かに右手を上げ、宙にある何かを撫でるようにふわりと手首を返した。するとその手のひらには力強く逆巻く赤い炎が現れて揺れていた。
「…呪術の火だ」
メラメラと燃える炎に照らされて、フードの下が露わになる。意志の強そうな顔立ち、汗ばんだ髪、生え放題の無精髭。先程の魔術師とはまるで正反対の出立ちだった。色素の薄い青い瞳の中で反射した橙黄色の炎が情熱的に踊っている。その視線は真っ直ぐこちらに注がれていた。
「あんたになら、呪術を伝授してもいい。素質があるからな。…それと…俺の感謝の気持ちだ」
彼の格好は学院の魔術師と比べればどう見ても汚く貧相だった。それなのに、彼の手の上で踊る炎も、炎を宿したその瞳も、あまりに美しくて…ただ言葉を失った。彼の手の上の炎は、穏やかな篝火のようでもあり、勇猛を焚き付ける烽火のようでもある。血潮にも似た沸る赤は闇に抗い生きようとする生命の鼓動そのものだ。
呪術を伝授?…ということは、この炎を分け与えるつもりでいるのだろうか。だとしたら、病み村までの同行も悪い話ではない。これが手に入るなら、どんなに守りの堅い城だろうと私は盗みに入っただろう。たとえ神の持ち物だったとしてもきっと私は欲して手を伸ばした。
「…それとも、あんたも、呪術は気色悪い口か?」
男の言葉ではっとする。呼吸すら忘れてその火に魅入っていた。慌てて頭を振る。
「…まさか。こんなに美しいのに、気色悪いなんて」
男の気をよくさせようと色好い返事を返したわけではない。ただ心からそう思った。私の返事を聞いた男は、一瞬目を丸くし固まった後、拳を握り喜んだ。その動きに合わせて、右手の炎も跳ね踊るように忙しなく姿を変えた。この炎に感情があるのなら、間違いなく喜んでいる…そんな動きに見える。とても分かりやすく素直な男だ。どこかで最近、似たような男を見た気がする。
「…おお、そうか!それなら、あんたの役に立てそうだ!」
男はついさっきまで怯えて助けを求めていたのに、もうすっかりそんなことは忘れてしまったかのようだった。人懐っこく屈託のない笑顔で喜んでいる。大の大人の表情にはとても見えない。それにしたって、ロードランを訪れる男はどうしてこうも変わり者が多いのだろう?なんとなく雰囲気の似た彼らを重ね見、マスクの下で思わず笑った。
「…ん?どうかしたのか?」
「…いいえ、なんでもない。…それで?呪術を教えて貰えるのはありがたいけれど…どうしたらいい?生憎、魔法の類はてっきりで」
魔法どころか読み書きだって自信はない。金稼ぎや勘定などの生きていく術は自力で身につけた。だがそれ以外はまるで何も知らない。ある程度の基準を潜り抜けて認められる騎士などとは違って、盗人に求められる能力などないのだ。あったとしても逃げ足の速さくらいか。男は、私の返事に尻込みする様子もなく変わらぬ調子で続けた。
「ふむ。そうだな…じゃあ、まず手を出してくれ。どちらでもいい。あんたが扱いやすそうな手を」
そう言って男は炎が宿されたままの手をそのまま差し出してきた。扱いやすい手とは何だろう。この男は一体これから何をするつもりなのだろうか。
利き手は右だ。武器を握るのも人の金をスるのも右…だが、もしここで差し出した手にあの炎を受け取るというのなら…果たしてこの右手はそれに相応しいだろうか?人を欺き、命を奪い、血に塗れた手。決して無垢ではない汚れた手。そんなものが神秘の業に触れるのは…仮にこの男が許したとしても私が許せるかどうか。あの教戒師に出会ってからというもの、心の片隅にずっと引っかかりを覚えている。犯した罪を雪ぐことは出来るのか?消えない罪は本当にないのか?と。
己の手を穴が開くほど見つめながら、同時に別の疑問を抱いた。そもそもこの男は私が何者であるか気付いているだろうかと。まさか、素性も何も明かしていない者と旅をする気でいるのだろうか。
「…この右手は何に使う手か知っている?」
男は私の質問に首を傾げた。
「さぁ…武器を持つ手か?見たところ、きっと右利きだろう?」
ああ、やはり気付いていない。それもそうか。男は見るからにお人好しそうだ。握手の時に差し出さなかった右手を、握ったまま男の前にかざす。奇術師のようにわざとらしく勿体ぶって宙を撫でると、黒革はそれに合わせて小さく軋んだ。
「…言ってなかったね。私は盗人なの。そして私の右手は、奪うための手。金も命も欲しいものはなんだってこの手で奪う」
男の炎が大きく揺らいだ。何か言おうと口を開きかけたように見えたが、掛けるべき言葉がなかったのかすぐに口を噤んだ。…分かりやすく動揺している。無理もない。病み村まで行動を共にするにしても、呪術を教わるより割り切って露払いに徹した方が互いのために良さそうだ。マスクの下で乾いた笑いを溢しながら、右手を引いた。…はずだった。熱い炎を纏った男の手が私の手首を掴みそれを遮った。
「でも、あんたは確かにその手で俺を助けてくれた。…そうだろう?」
呪術の火で照らし出された青い瞳は、どこまでも澄んでいて…罪を知らない無垢な色をしていた。祭祀場で初めて見た晴天の空よりも澄んだ青。それが心臓を射抜いてしまいそうなほどまっすぐにこちらを覗き込んでいた。
胸が痛むとはこういうことを言うのか、と思った。痛むような良心を欠片でも持ち合わせていたことに私が一番驚いている。こんなお人好しはとてもじゃないが連れて行けない。足手纏いになるからではない。隣にいるだけで、自分がどれだけ汚れているかを思い知らされるからだ。
「…助けたのはたまたま。ねえ、盗人に会ったのは初めてでしょう?いいことを教えてあげる。…あまり人を信用しない方がいい。貴方みたいな人は格好の獲物だ」
男に掴まれた手の指を開く。緩く握られた拳からは、いくつかの紫色の苔薬が散り散りにこぼれ落ちた。私の持ち物ではない。彼を解放する時にそのまま手癖で盗んだ代物だ。何の感情もなく私はこれを盗んだ。悪意すら抱いていない。ただ”こうやって生きてきたから“そうしただけ。言ってしまえば、”性“なのだ。男は愕然とした表情で腰巾着に触れる。巾着の口はぱっくりと力無く空いていた。
「…ね」
その瞳が悲しそうに揺らぎ細められたのを私は見逃さなかった。こぼれ落ちた苔薬を拾うために屈んだ背を見下ろす。汚れた外套は、貧困街で馴染み深い冴えない色合いをしている。色を失うまで同じものを纏ってきたこの男も貧しい暮らしだったであろうことは想像に難くない。もし本当に良心なんかあったら…こんな者から奪うものか。男は拾った苔薬を丁寧に仕舞った後、巾着の口を固く二重に結び直して言った。
「…驚いたな。全く気付かなかった」
苦笑しながら頭を掻いている。何も言わず頷くと、男は静かに言葉を続ける。
「でも、俺はあんたが何者でも本当に構わないんだ。俺を助けてくれて…その上、薄気味悪いものを見るような目で見なかったのは…あんただけだからな」
炎が火の粉を散らす乾いた音と踏んだ床板の軋む音だけが部屋に響いた。普段は意識しないような小さな物音や自分の呼吸すら聞こえるほど静まり返っていた。気まずい沈黙を誤魔化そうとしたのか男は小さく笑った。この男は本当にどこまでお人好しなのだろう。しかもただのお人好しじゃない。頭に馬鹿がつくほどのお人好しだ。こんな男に一人旅をさせたら、いつか必ず私のような者に食い物にされるだろう。盗人のいいカモだ。
「騙されてるよ」
「騙されてなんかいないさ。あんたはそんな人間じゃないって分かる」
ここまで言い切られると、逆にこの男がどこまでお人好しでいられるかを見届けたくなってきた。病み村までという期限付きなら…この男の言う通り、一緒に旅をするのも悪くはないだろう。
それに、呪術を習える機会なんて滅多にない。薄気味悪い目で見なかったのは初めてだと男は言うが、それは私にとってこの男も同じだ。盗人に物を盗まれてまだ同行しようだなんて、普通は思わないだろう。盗人相手に呪術を教えるなどという酔狂な呪術師が今後も現れるとは思えない。これを逃せばもう訪れないかもしれない…そんな上手い話に乗らない手はない。
「…本当に、後悔しない?」
「ああ。あんたこそ…いいんだな?」
「…なら左手で」
左手だって汚れていないわけではない。左手を差し出したのは…私なりのせめてものけじめだった。盗人としてではなく、あくまで人として向き合おうとする男への礼儀。初対面だろうと構わず弟子に取ろうとする彼のことだ。彼にとっては私の右手も左手もさして変わらないのだろう。私の返事を合図に、男は燃え盛る手を添えて瞳を閉じた。
「じっとしててくれよ」
男はフードの中で何やらぶつぶつと呪文のような言葉を呟いた。何を言っているのかは分からないが、その言葉が激しくなるにつれて彼の炎は熱く激しく燃え上がった。添えられた手が徐々に熱くなり、火傷をしそうな熱さになったところで反射的に手を引きかける。しかし男の右手がしっかりと私の手を掴んでいて逃れられなかった。
焼かれているのが肌なのか内側なのか…そのどちらもなのか判別がつかない。ただ、じりじりと焼け爛れるような熱が左手から腕、肩…と全身に巡っていき、やがてそこに沸騰し煮えたぎる別の熱が加えられる。これはきっと、この男の熱だ。熱くて内側から焼き溶かされそうになりながら、歯を食いしばってそれをやり過ごそうとする。私の表情を見て男は少し申し訳なさそうに眉を下げたあと「もう少しだ」とだけ囁いた。観念してその熱を素直に受け入れる。篝火やエストの炎に似た、でもあれよりもっと激しく熱い火が自分の中に溜まっていく。流れ込んでくる熱い何かは、ある程度溜まると私の全身を駆け巡り、やがて男の身体に戻っていった。そうして男の身体を巡った熱がもう一度私に流れ込んで、まるで一つの血管を共有する母子(おやこ)のような一体感に包まれた。何度かそれを繰り返した頃には、不思議と煮えたぎるような熱さも、身を焼かれるような痛さも感じず、身体に宿る熱はただ穏やかな心地よいものになっていた。そして、男の手の中にある最後の焔が私の左手に帰ってくると、男は静かに長い息を吐いた。
「…大沼の火だ。これであんたも、呪術師ってわけだ」
厳かな口調でそう言いながら、彼は私の手をもう一度強く握った。もうその手には火があると促すように。恐る恐る自分の左手を見ると…そこにはゆらゆらと生き物のように形を変え踊り舞うあの炎が宿っていた。…何て綺麗なんだろう。篝火と同じで、眺めているだけで心が安らぐのを感じる。このままいつまででも見ていられそうだ。視線を感じてはっと顔を上げると、彼は腕組みしながらとても嬉しそうにこちらの様子を眺めていた。
「…気に入ってくれたみたいだな」
「うん、悪くない」
「悪くない?…それが“悪くない”って顔なのか?!」
男は半分呆れながら、マスクで隠した表情を探るようにこちらを覗き込んだ。もちろん揶揄うつもりでそうしたのだが、男がまんまと思惑通りに反応したのが可笑しくて笑いが込み上げてくる。ありとあらゆる反応が素直で見ていて飽きないなと思った。
「ふ…いいよ、とても。ずっと見ていられそう。それで?あなたのことはこれから“師匠”って呼べばいいの?」
「それはなんというか…少し気恥ずかしいな。…まあ、あんたが呼びやすい名で好きに呼んでくれ…」
「分かりましたよ、“師匠”」
少し顔を見合わせて、どちらともなく笑い出した。ずっとは続かない、病み村に着くまでの一時的な協力関係。互いが目的を果たせば終わる期限付きなら…別に悪くない話だ。それに、盗人に異端の呪術師だなんて、はみ出し者同士似合いじゃないか。
左手の中で煌々と燃える火が、門出を祝うように激しく弾けている。灯火と呼ぶにはまだ小さいそれは、不思議と松明よりも頼もしく見えた。