お目当ての錠はすぐに見つかった。デーモンがいた建物のすぐ裏に、厳重そうな扉に守られた地下へと続く道があった。開けた扉の先は、少し覗き込んだだけでも分かるほど真っ暗で灯りなしでは何も見えない。不死街の路地とは比べ物にならない暗さだ。手が塞がるのは好きではないが、ここまでとなれば仕方ない。亡者から奪った松明に火をつけ、それを片手に階段を降りることにした。
階段を降り始めて間も無く、息をするのも躊躇うほどの腐臭が鼻をついた。放置された食べ物なんて生易しいものではない。腐った肉と腐った水の二重の悪臭が充満していた。少し吸っただけで気分が悪くなる。たった一度の呼吸だけで、吐き気が込み上げてきた。恐らくここは風が通らず、空気の出口がないのだろう。何日も滞留し発酵された強烈な悪臭だった。下水の中だってこんなに酷い匂いはしないだろう。こんな悪臭は人生で嗅いだことがない。ここを通らねば辿り着けない村が“病んでいない”わけがない。衛生面が劣悪であることはこの臭いが保証している。空気すら清浄でないこの場所は、間違いなく病の宝庫だ。“病み村”とはよく言ったものだと思った。
込み上げ続ける胃のむかつきを、唾を飲んで誤魔化す。マスクを容易く貫通する悪臭により、鼻呼吸は諦めざるを得なかった。口だけで息をし、灯りを頼りに下を目指していく。一歩、二歩と階段を降りるにつれ、規則正しい打撃音が耳に入ってきた。ぐちょ、ずるっ、だん。ぐちょ、ずるっ、だん。その音は繰り返し同じリズムで小気味よく続いている。必ず締めくくりに入る打撃音が、密封された部屋の壁に当たりびりびりと反響していた。
松明の火が音の発生源を明らかにするにつれ、心臓が早鐘を打った。音の主は、目の前にある肉目掛けて肉断ち包丁を振り下ろしている。その獲物は、飛び散った管のような臓器や、足の形を見るに、恐らく人間だ。嘘だろう?と自分の目を疑った。しかし、何度見ても刻まれている肉は人のそれにしか見えない。耐えていた吐き気が一気に込み上げ、戻しそうになるのを何とか飲み込んだ。故郷で見た人食いの記憶が蘇る。まさか、そんなはずはない。きっと勘違いだろうと目を背けた先に、“答え”は用意されていた。ぐつぐつと火にかけられた煤けた大鍋の中は、ドブのようなひどい色をしたスープで満たされている。その中に浮かんでいるのは…人の顔だ。頭蓋骨ではない。どろどろに溶けた肉がまだ残る、人の頭部だった。そこから先は全て察しがついた。貧困の街の更に下、下水の中ともあろう場所で安定した食糧になどありつけるわけがない。あるとすれば、定期的に“使命”のために訪れる不死くらいだろう。煮えたぎるスープの中で溶け切ってしまったであろう眼窩と目が合った。この者もきっと、私と同じように病み村を目指した不死人だ。
「っ!」
咄嗟にマスクを外し、勢いに任せて吐いた。食事などろくに摂っていない胃から吐き出されるものなど何もなく、ただ反射的にそうしただけだった。それでも、そうしないよりはずっとマシだった。こんなものを見て何の反応もしない方がどうかしてる。正気じゃない。
嘔吐いた私の声に気付き、肉を切っていた主がこちらを向いた。柱の影になりよく見えていなかったが、その頭は丁度目の辺りだけ穴の空いた不恰好な袋を被っていた。もっと奇妙なのは、肉屋でも気取っているのかエプロンまでつけていることだ。絶対に正気ではないが、もしかすると亡者ではないのかもしれない…。どたどたと乱暴な足音を立て、ブッチャーはこちらへ走り出した。周りにいる亡者たちは自分が標的にされるのを恐れているのか、道を譲り大人しくその場から散らばった。
たとえ正気でも正気じゃなくても、こんな奴と正面から戦うなんて真っ平御免だ。敵が追いつくより前に胸元に隠していたナイフを取り出して投げる。五本あるそれを順に敵の巨体に刺したが、敵は全く怯む様子もなく真っ直ぐ向かってくる。その気迫と異常性に唯ならぬものを感じ、背筋の血が引いた。もう、なんでもいい。投げられるものは全部投げてしまえ。火炎壺や余ったナイフ、そこら辺に落ちている瓦礫を立て続けに投げた。しかしそれでもブッチャーはびくともしない。全く効いていないのだ。
「信じられない…」
眼前に迫った肉断ち包丁を見て、心を決めた。もういい。盾で受け流してから…背中を取ろう。あんなの、まともに食らえば一撃で篝火行きだ。先程相手した山羊頭のデーモンのように、落ち着いて相手の動きを見れば、必ず隙があるはず。初撃を盾で受け、背中側へ身体を翻し転がり込んだ。あまりに重い一撃で、受け止めた左腕がびりびりと痺れかけた。
気を抜かずにもう一度構える。しかし、敵は肉塊を切り刻むのと同じように、ただ真っ直ぐに腕を下ろすだけだった。なんだ、それほど複雑な動きではない。それならば話は早い。三度目の攻撃を、今度も盾で受け止めた。力で押し切られそうになるが、盾の表面にある鋲が攻撃を逸らした。その隙に背中へ周って短刀を突き立てる。腹まで貫くように、深く深く刃を押し込んだ。それから力任せに捻りを入れて一気に引き抜く。大量出血した巨体は、仰向けに倒れ込んで、それきり動かなくなった。
嫌悪感を飲み込んで、もう一度机の上の惨状に目をやる。食材のように刻まれ散らばった肉は、丁度人間一人分のパーツが揃っているようだ。その横に不格好に積まれた大腿骨は少なくとも数人分。スープになった者を含めると…この惨状は今に始まった話ではないのだろう。
これまで散々亡者を手にかけてきた。不死になる前だって、生きるためなら人の命すら奪ってきた。そんな私でも、こんなに悍ましい死体は初めてだった。飢饉で山と積まれた死体なんかより今見ている光景の方がずっと悍ましい。
辺りに散らばる装備の類からするに、この体の持ち主も使命に向かった不死だったのだろう。その無念を雄弁と語るように、兜と剣が鈍い光を返した。何か一つ間違えば、食べられていたのは私だったのかもしれない。そう思うと、散らばった遺体は自分と無関係だとは思えなかった。弔いにはならないだろうが、せめて無念が晴れるように煮え立つ鍋の火をそっと消してその場を後にした。