瓦礫と苔と亡者ばかりの不死街の奥にもう一度足を踏み入れた。病み村は下層にあるということだから、不死教区とは反対の方向に向かわねばならない。しかし、縦に増築されていったであろう街の造りも手伝って一向に下に辿り着けないのだ。確かに足場は見えているのに、そこへ辿り着くための道が分からない…そんな具合に迷い続けて辺りの亡者を一掃した頃、ようやく下層へと続く鉄の扉を見つけた。
錆びた鉄格子は今にも壊れそうな錠一つで閉ざされている。サイズと凹凸の目測さえ誤らなければ簡単に回りそうな閂式だ。私の持つ万能鍵で事足りるだろう。大きさの近い鍵を探り当て回してやれば…下層地域への扉はいとも容易く私を迎え入れた。ここへ来てからはとんと鍵破りをしていなかったから、鍵一つ開けただけなのに安らぎすら覚えてしまう。
「やっぱりこっちの方が性に合ってる」
不死になってさえいなければ、きっと今も“招かれない場所”を訪れては金品を盗みスリルを楽しんでいたに違いない。飽くなき渇望を満たすための盗みは、結果的に私の天職だった。貧しい生まれや恥ずべき過去は変えられなくとも、未来だけは盗みによって支配できる。その感覚を私は堪らなく愛していた。飢えて死んでゆく貧者など気にも留めない世界が、この手一つで混乱に陥るのが心の慰めだったというのもある。何はともあれ、今でこそ使命という崇高な目的を抱いているが、どれだけ立派な使命を託されたところで人の本質はそう簡単には変わらない。それを私は身をもって知っていた。
長い階段を降りると、旅人の篝火とは異なる大きな焚き火が目に入った。火があるからには人がいるはずなのに、暗く荒んだ広場にはネズミの一匹も見当たらない。枯葉と焦げた炭の欠片が舞うばかりで、街と呼ぶにはあまりに閑散としていた。しかし、注意深く目を凝らしてみれば土に薄らと足跡が残っている。何の足跡かは分からないが、確実に生き物がいた証だ。それに、壁は苔や蔦で覆われているのに、扉や玄関ポーチはその前を避けるように草や蔓が伸びている。これが意味するのは、この辺りは最近まで人の出入りがあったということだ。
それなのに亡者の一人も見当たらないのは却って不自然だ。となると、何者かが潜んでいてもおかしくはない。辺りを見渡しながら、息を殺して姿勢を低くした。こうしていると、本当に不死になる前の暮らしを思い出すようだ。
一歩、二歩と足を進めるうち、遠方に歪な黒い塊を見つけた。岩かと思ったが、もぞもぞと動いている。そして、向こうもこちらに気付いたのか…こちら目掛けて一気に駆け出した。涎を垂らし歯を剥き出しにして唸る四足歩行の獣…恐らく野犬だ。盾と短刀を構えて迎え撃つ準備をする。獣は予測不能な動きで右左と蛇行し跳ねた。体当たりを盾で受けて、すぐに短刀を突き出す。しかし、軽々とそれを避け獣は吠えた。
「ワウゥウウッ!」
その瞬間、閉ざされていた家屋から次々と亡者が顔を出す。読み通り、やっぱり隠れていたようだ。一人で相手をするには数が多すぎる。空いた手で腿に隠していたナイフを続け様に投げた。まず数を減らすところからだ。
「…ワウッ!」
「!痛っ…」
しかし、ナイフが敵を貫くより前に犬の牙が脹脛(ふくらはぎ)に突き刺さった。どうやら正面で戦っていたのとは別の犬が背後に回っていたらしい。犬は鋭い牙を深く刺したまま、肉を噛みちぎろうと頭を振っている。肉が引き剥がされ断裂していく痛みを耐え、何とか引き剥がそうともう片方の足で顔面を蹴り上げる。びくともしない。仕方なく、その背をなぞるように短刀を滑らせると突き立てると、犬はようやく頭を振るのをやめた。
「はぁ、はぁ…」
痛む左足を庇いながら後ろへ下がる。敵はまだ沢山いる。このままでは…取り囲まれてしまうだろう。何かないか。油の樽でもあればまとめて焼けるだろうが…いや、そうか。火だ。広場の入り口にある焚き火までいけば、形勢を逆転できるかも知れない。追いついた獣から優先して切り付ける。幸い、敵は散らばっていて同時に群がってくることはなさそうだ。
足を引きずり、なんとか焚き火の後ろ側へ回った。壁と焚き火との距離はちょうど人一人通れるくらい。この場所から私を相手取るには、敵は焚き火を通るか、壁と炎の間を通るため一列に並ぶしかない。結局、亡者達は行儀良く私の前に並ぶ羽目になり、順々に襲いかかってきた。盾で先頭の亡者の攻撃を弾き、とどめの一撃を差し込む。その後ろで、別の亡者が私に追いつこうと進路を変えた。しかし残念ながらそっちは炎だ。ボロボロの布に引火した炎は一瞬で亡者を火だるまにした。爪先から頭まで炎に包まれた亡者は激しくもがきながら助けを求めて他の亡者へ手を伸ばす。そうして次々と燃え上がり、あとは刃を向けるまでもなく敵は片付いた。
「…痛っ…」
獣にやられた左足は脹脛の一部を噛み千切られ、中の肉が丸見えになっている。ずたずたになった肉から滴った血が地面を赤く汚した。死に至るほどでないが、この足で歩き続けるのは難しいだろう。
「くそっ…」
治るまで待つか?いやそもそも、ここまで深い傷は治療したところで完治するのだろうか。我々不死人は不死とはいえ、肉体が損傷すれば死に至る。そして死ねば最寄りの篝火に還る。そこまでは鐘守のガーゴイルと戦った時に確かめた。不死人が不死たる所以は、死なないことではなく、死んでも何度でも生き返るところにある。逆に言えば、死にさえすればどんな傷を負っても傷のない状態で目覚めることができるが…死に至らない傷は死ぬまでそのままだ。となると、この傷が自然に治癒するかは大分怪しい。もしかすると、死ぬまでは治らないのではないかと内心思っていた。
きちんと治すなら、触れても焼かれないあの篝火にさらすことでもしかすると癒せる…のかもしれない。篝火が我々不死人の故郷であり何度でも蘇る力の源なら…そこに傷を曝せば治療を施せる可能性がある。しかしここで一つ問題があった。この辺りには篝火が見当たらないのだ。元いた篝火はここから戻るにはかなりの距離がある上、戻るとしてもこの足では階段を一段登るのも一苦労だ。怪我をしたのが足でさえなければ向かったが、今はそうも行かない。一瞬で戻れればいいのに…。
そこまで考えてふと、何気ない思いつきが頭をよぎった。死ねば身体は完全に回復し篝火に戻れるのなら…いっそのこと、死んでしまった方が楽かもしれないと。死ねばきっと足が治った状態で篝火へ戻される。だがそうするには、死なねばならない。短刀の切先を見て自分に問う。そんなこと、本当にできるだろうか?研がれたばかりの鋭い刃先は、どんな獲物も容易く切り裂き、安らかな死へと導いてくれそうだ。これを首に押し当て引くだけで、きっとまた暖かい篝火に帰れる…?
「……いや」
まだ治るかもしれない。エストを飲んで少し休めば、完治とは言わなくとも今より多少は良くなるだろう。壁に背を預けて滑り落ちるようにずるずるとその場に座り込んだ。ほんの少し目を閉じて休憩すれば…きっとこんな馬鹿なことを考えずに済むはずだ。
不規則に火が弾ける音は私をすぐに心地良い眠りへと誘った。思いの外疲れていたのか、あっという間に夢に呑まれてしまいそうだった。眠るのがこんなに気持ちがいいなら、もっと早くそうすれば良かった。ガーゴイルが倒せず苛立った時も眠るべきだったのだ。
しかし束の間の安らかな微睡は、ドンドンと喧しく壁を叩く音で妨げられた。
「誰か!誰かいないのか!…なあ!!…くそっ、こんなところで…」
少し離れた扉から鈍い音が続いている。声からするに、まだまともな人間のようだ。私と同じように使命を持つ不死人なのかもしれない。壁に手をつき痛む足を引き摺りながら、なんとか音のする方へ向かう。まともに手当てをしていない脹脛は歩く間も血を流し続け、通った道に赤い血痕を作る。盗人の私からすると、自分のいた場所に痕跡が残るのはどうにも後味が悪かった。
「…誰か、いるの?」
「人か!?頼む、ここから出してくれないか!」
声がする扉の前に立つ。鍵がかかっているようだ。内側からは開けられない状況…となると捕えられているのかもしれない。罠を警戒して慎重に鍵穴を覗くと、扉の向こうにはいくつかの樽と遺体と…黒い装束に身を包んだ男が部屋の中で立ち尽くしていた。閉じ込められて立ち往生…か。
寂れた住居の鍵はどこも似たようなもので、この不死街の鍵穴も見覚えがある。私のコレクションを使えばきっとすぐに開けられるだろう。
「ちょっと待ってて。今開けるから…」
ベルトにつけていた鍵束を取り出す。この大きさでこの色と形の扉なら、恐らく…これで開いただろう。答え合わせするように引き手を捻ると、がちゃりと耳触りの良い金属音がした。重たい扉を引くと、軋む音と共に砂埃が舞った。落ちてきた砂を蜘蛛の巣が受け止めて揺れている。小部屋の隅には、声の主であろう色白で背の高い男が立っていた。
「ありがとう、助かったよ。君には、不甲斐ないところを見せてしまったな」
男の髪は肩まで伸びており、よく手入れされているのか艶がある。品のある装いに細身な体つき。身に付けている上着の裾には刺繍まであしらわれている。”良いところの出”であることは明らかだ。おまけに、よく見れば杖を持っている。
「もしかして、あなたは魔術師?」
「ああ。私はヴィンハイムのグリッグス。学院の魔術師だ」
恐らくこの男が戦士の言っていた魔術師なのだろう。身綺麗で落ち着いた佇まい。いかにも学院に居そうな細い面持ち。私が暮らしてきたような街にいれば…まず真っ先に獲物にされたであろう品の良い立ち居振る舞い。一つ一つの所作が貴族のように優雅で、埃を払っているだけでも育ちの良さが感じられる。じっと観察していても、身に付けている衣服がそう見せるのか、彼の佇まいが優雅なのかはついに分からなかった。
「君には感謝するよ。これで旅を続けられる」
「あなたも使命が?」
「…ああ。きっと君もそうなのだろう?ただ、今はそれより…」
男は流れるような動作で屈み、私の左足に顔を近づけた。その動きも軽やかで、布の擦れる音一つしなかった。
「酷い傷だ。少しだが手当ての心得がある。触れてもいいかい?」
「…ええ」
出会ったばかりの男に傷を見せても大丈夫だろうか?と一瞬悩んだが、私を襲う気ならとっくにそうしていただろう。
頷いて、傷付いた足を前に出すと、男は懐からエスト瓶と布を取り出した。何をするのかと見守っていると、まるで消毒液のように布にエストを浸し、それから何の前触れもなく傷口に当てた。
「いっ…!?」
突然もたらされた滲みるような鋭い痛み。男は容赦なく布を傷口に当てている。剥き出しの傷口いっぱいに押し当てられた布は、獣の牙の数倍強い痛みを与えた。正気か?と睨むと、魔術師は申し訳なさそうに眉を下げた。
「すまない、我慢してくれ…こうすれば少なくとも傷口は塞がる」
観念して足を魔術師に任せ歯を食いしばった。あまりの痛みに生理反射で目が潤む。とにかく声を我慢することに集中した。
やがて、男は緊張した表情を緩め再び眉を下げた。
「…ほら。もういいだろう」
押さえられていた傷口は、獣の牙の跡を僅かに残したもののまるで何事もなかったかのように綺麗に塞がれていた。チクチクと針で小突かれるような小さな痛みは残っているが、剥き出しの肉も元通りだ。化膿の心配もない。これならもうしばらくは歩けそうだ。
当てていた布を丁寧に畳み直し、魔術師は音もなく静かに立ち上がった。
「ありがとう。お陰で旅を続けられそう」
「気にしないでくれ。少しでも借りを返せたならよかったよ。私は祭祀場に戻るから、もし見掛けたらまた声を掛けてくれ」
それでは気を付けて、と言い残し、魔術師は優雅な足取りで小屋を後にした。妙に姿勢が良いその後ろ姿を見送り一息つく。
エストは飲むだけでなく、手当にも使えたのか。よく考えれば、入れ物こそ酒瓶に似ているものの中身は飲み物ではなく液体の炎。飲んで身体を癒せるなら、浸しても同じ効果が得られるということだろう。そもそもが原理不明の炎なのだ。私が知らないだけでまだ他の用途もあるのかも知れない。この知識はこれからの旅でも役立ちそうだ。
瓶に残る炎を飲み干すと、全身が一度に軽くなる。痛みも疲労もまとめて癒す、なんて便利な代物だろうか。こんなに便利なものが本当に代償を伴わないのかは気になるところだが…。今は考えていても仕方がない。飲み終えた瓶を懐に戻して、私も小屋を後にした。この分なら、もう暫くは篝火で休まなくとも進めるはずだ。