太陽の戦士が消えた方向へ進むと、開けた大きな橋に出た。橋は馬車が難なくすれ違えるほどの広さがあり、もし敷き詰められた煉瓦を数えれば月が一巡はする程の大きさだ。そして、その大橋を見下ろすように、巨大な赤い竜が今まさに目指している建物を鷲掴みにして張り付いている。両翼を広げれば、間違いなく橋よりも大きい。竜を見たのは生まれて初めてで、私はただ目を丸くした。大ガラスにデーモンときて、竜までいるのか。
「呆れた…」
赤竜が僅かに翼を羽ばたかせるだけで、人など容易く吹き飛びそうになるほどの風が起きる。その風で転がって来た木の葉があっという間に足元をすり抜けて見えなくなる。あの風をまともに受ければ立ってはいられまい。もし全力で羽ばたけば木の葉と言わず大の男も転がしてしまえるだろう。
竜は時折こちらを向いて、炎の混ざった息を吐いた。見張りでも任されているのか、“何人もここを通さない”といった様子で、風を送るか炎を吐くかしている。目の前にいた亡者の戦士達は、その炎の息から逃げ出す間もなく炙られ一瞬で灰になった。ここを生きて通れる者などいるのだろうか。私はやっと今日まで鐘が鳴らされなかった理由が分かった。こんなのを相手にしては命が幾つあっても足りない。デーモン一匹討ち取ることすら命懸けなのに、人の身で竜を相手取るなど馬鹿げている。祭祀場にいた戦士の態度も頷ける。デーモンや竜を前に心が折れたとしても、誰も臆病とは呼ぶまい。人の身で背負うには重すぎる試練だ。竜の身じろぎで起こった風で、亡者の灰がサラサラと崩れていく。この灰だって、つい先程まで動いていたのに。私はもう一度あの暗く冷たい闇の底に落ちていく”死“の感覚を思い出して身震いした。
どうにか避けて通れる道はないかと辺りを見渡した。竜の足元まで行くのは不可能に近い。あの炎を遮ってどうにか向こう岸にさえ行けばいい。見たところ、ここからもう少し進めば橋脚へ繋ぐ足場の階に潜り込めるそうだ。…灰にされる前に辿り着ければの話だが。
「グルル…」
竜は喉を鳴らして次の獲物を待っている。細長いスリットの入った瞳が不規則に動いている。ある程度の距離があるとその感知範囲から外れるのか、私の姿にはまだ気付いていないようだ。…それ以外、特段弱点も見当たらない。竜鱗を貫くような武器もない、変装や目眩しが効く相手でもないというなら…あとはもう”走り抜ける“しかなさそうだ。
逃げ足の速さに自信があるのは不幸中の幸いだった。ここから橋下へ繋がる階段までなら、足を止めずに走り抜けられる。呼吸を整えて竜の動向を見守る。油断なく橋を嘗める目がほんの一瞬教区の方を向いた。…今だ。
「ーーーっ」
階段の下までとは言わない。踊り場にさえ辿り着けば、あとはそのまま転がり落ちるだけ。もつれそうになる足をなるべく前へ前へと突き出しながら石を蹴る。蹴るごとにじんじんと足裏に響く感触すら置き去るように、前へ。
橋上の侵入者に気付いた竜は大きく息を吸い込んだ。炎が来る。そう思った次の瞬間には熱風が頬を掠めていた。外套がボウと音を立てて靡く。燃えてしまわないようその裾を掴んで、階下へ一気に身体を投げ出した。視界の端で橋はあっという間に焼けて、真っ赤な炎の海に呑まれていく。激しい熱風が狭い端の上で跳ね返り、その勢いに押されて私は階段を勢い転がり落ちた。石にぶつけた身体の痛みよりも、熱さの方が上回っている。頭の上で轟音が響いた。
「はぁ、はぁ…」
なんとか間に合ったらしい。身体が焼けていやしないかとあちこち確かめたが、熱風を受けただけで火傷は負わずに済んだ。マスクに覆われていない肌は少しだけヒリヒリした。
見立て通り、橋脚を繋ぐように作られた道が橋の下に続いていた。ここを通れば竜の真下を通っても炎を受けずに済む。ひとまず安心して良さそうだ。
…そう思ったのも束の間、不死教区の下方に位置する建物から、あり得ないほど大きく育ったネズミがこちらを睨んだ。
「嘘、でしょ…」
カラスにネズミに…一体何を食べたらこの土地の生き物はこんなに大きく育ってしまうんだ。どうせなら飢餓に苦しんだあの頃に出会いたかった。しかし、その問いの答えを知るのに時間はかからなかった。
「ギィイイー!」
尖った前歯を剥き出しにして、こちらに向かってくるネズミ。その口の端から血塗れの腕がだらりと垂れている。人だ…。まだ骨やミイラや灰になっていない生々しい死体を見るのは久し振りだった。ピンク色の肉と白い脂肪が血の間から覗いている。どうやらネズミはこれを奪われまいと必死に威嚇しているらしい。
「…盗らないんだけどな」
説いて話が通じる相手ではない。私の行先を立ち塞ぐなら等しく斬り伏せるまでだ。もう一度前歯を向けられる前に、手早く短刀を差し込んだ。するとその血の匂いに惹かれたのか、奥から似たような大きさのネズミがまた数匹顔を出す。集まってきたネズミは、仲間の死骸に鼻先を擦り付け、ひくひくと激しくヒゲを動かした。そしてそのまま血の匂いを辿り、短刀に顔を近付けてくる。すかさず一太刀食らわせると、敏感な鼻先に攻撃を食らったネズミはパニックを起こして仲間に齧り付いた。訳もわからぬまま耳を齧り、齧られたネズミは反撃で体当たりをする。私抜きで始まった乱闘に呆気を取られつつ、これ幸いと一匹ずつとどめを刺した。丸々育った体に脳の成長は追いつかなかったらしい。
恐る恐る最初に倒したネズミの口を開くと、まだ消化しきれていない肉の塊と対面した。恐らく、私より先にロードランに辿り着いた使命の不死。私と同じように赤竜を逃れてここに辿り着いたのだろう。消化が始まっていなかったのか、その肉はつい今しがた持ち主の身体から離れたと言われても疑わないほど綺麗に原型を留めていた。…不死であるからには、まだ生きているのだろうか。こんな姿になっていても?
…頭をよぎった恐ろしい想像を振り払う。もし生きていたとして出来ることはないが、せめてネズミの腹からは出してやろうと手を伸ばした。すると、人体の一部とは違う見慣れない物体が一緒に引き摺り出された。白と黒が入り乱れた靄のような…人型の…霊だろうか?
「なに、これ…」
それは揺蕩いながら私の方へと寄ってくる。短刀を向けても臆する素振りすら見せない。実態がないのかそのまま刃先をすり抜けて…不思議がっている私の胸元まで重なり、溶け込むように消えた。今のは…なんだ?私の中に吸い寄せられた…?
胸の辺りを撫でて確認するが、特に異変はない。呪いの類ではなさそうだが…こんなものは見たことも聞いたこともない。死者の霊だろうか。祭祀場に戻った時にあの戦士にでも尋ねることにしよう。
気を取り直して梯子を登ると、人の手が入った大きな通りに出た。私が走り抜けた橋とちょうど同じくらいか、もしかするとそれより広いのかもしれない。道の先には鐘楼が聳え立っている。間違いない、きっとここが不死教区だ。この先に行けば目当ての鐘を鳴らせるだろう。
大きな通りだけあって見張りも多い。死してなおこの場所を守らんと剣を片手に巡回する者、矢を番える者とが隙なく並んでいる。これを全て相手取るのは骨が折れそうだが…そろそろ私も弓が欲しいと思っていたところだ。褒美があると思えば腕が鳴る。短刀の時のような掘り出し物を期待して、柄を握る手に力を込めた。
******
どこに続いているのかも分からないまま迷路のように入り組んだ道を抜けた。白っぽい石壁は進むにつれ苔むした緑に変わり、触れると手袋の表面に色が移るほど湿っていた。不死街の方は空気がもう少し乾燥していて埃っぽかった。苔むすほど空気が湿っているということは、植物か水源が近くにあるのだろう。実際、道なりに進んだ先の開けた場所では、鬱蒼とした木々が私を出迎えた。
不死院と競うように高く伸びた木々の迫力もさることながら、何より驚いたのは陽光だった。人の暮らす土地では今や見ることも叶わない日の光が、これでもかと降り注いでいる。もし私が太陽の戦士なら、足を止めてここでしばらく黄昏たに違いない。未だ太陽に慣れない私の目には眩しすぎる陽光が不死を歓迎するように教区の中心部と鬱蒼とした森の二筋道を照らしていた。
森の方へと続く道はマスク越しでも分かるほどの自然の匂いで満ちており、一面緑で生い茂っていた。その中にほとんど崩れかけの廃墟が一つだけ静かに佇んでいる。朽ちているというのに、どこか存在感のある建物。目指していた不死教区とは正反対だと知りながらも、気が付けば閑寂な雰囲気に惹かれ足を運んでいた。
廃墟に近付くにつれ、茂った樹木と新鮮な草木の香りに包まれた。すこし水気を含んだ霧がかった空気に混じる爽やかな青い匂い。こんな匂いを嗅いだのは遥か昔か…それとも初めてなのかもしれない。太陽のみならず、この土地では植物も未だ活力を宿している。陽が届かず、枯れ木ばかりが立ち並ぶ人の世とは大違いだ。
入り口に立つと、廃墟の下の方から規則正しく何かを打つ音が聞こえた。何か硬い…石か金属を打つような音だ。警戒しつつ慎重に足を踏み入れると、すぐに灯りが見つかる。人がいるらしい。音の主が亡者でないことを祈りながら階下を覗く。そこには、立派な白髭を貯えた逞しい体つきの鍛治師が武器を打っていた。
「よう、新顔だな」
鍛冶師は驚いた様子もなくこちらを一瞥し、何事もなかったかのように金鎚を振り下ろした。その太腕から繰り出された強打につられて金床が高い音で弾ける。飛び散った火花と灼け溶けた金属の鮮やかさに目を奪われた私は、歩速を緩めてゆっくりと鍛治師に近付き刀を納めた。
「…俺の名はアストラのアンドレイ。見ての通り鍛冶話なら、力になれると思うぜ」
鍛冶師はそう言い終えるまでの間にも二度ほど心地良いリズムで武器を叩いた。規則正しく打ち込まれるこの音の安定感が、言葉よりも端的にこの男の実直さを伝えている。昨日今日で滲み出るものではないはずだ。
「…刀は頼める?」
「材料に楔石を貰うが、ないならそれも一緒に売ってやる。どれ、見せてみな」
愛刀を手渡すと、鍛冶師は預かった短刀と会話でもするかのように何度か頷いた。まるで武器と会話をしているような素振りだ。それから柄や刃先、その表面をじっくり舐め回して少しの間思案した後ふっと口元を緩めた。
「ワハハ!…あんた、せっかちだろう?ちと無理をさせすぎじゃないか?…それと、片刃を活かすなら力任せに一撃を差し込むより、刃を滑らせた方がいいな。こんな風に」
面食う私にお構いなしで、鍛冶師はほれと手本を見せ始める。その鮮やかな武器捌きは、初めて握って出来るような芸当ではなかった。相当武器を扱い慣れているか、それこそ…武器が語るまま動かしているかのようだった。
「…分かるの?」
「ああ。武器を見れば全部分かる。武器の扱い方も、あんたの戦い方も。癖も性格も。そういうもんだ」
「ふうん…」
そういうものなのか、と思いながら金貨の入った巾着に手を伸ばす。この男になら任せても良さそうだ。しかし、いつもあるはずの巾着を掠めた手はただ腰を撫でた。…ああ、そういえば牢に入れられた時に金品は全て剥ぎ取られたんだった。もし持ち合わせがあったとして、この土地の通貨も分からない。今の私は素寒貧同然だ。…頼みたくても頼める金がない。
それどころか、ここまで倒した亡者の身包みを剥ぐ中で金らしきものは見なかった。私と同様に何もかも奪われ不死院に送られたのなら当然と言えば当然だが…この辺りで金を持つ者などいるのだろうか。一体、どこから調達したものか。
「悪いけど、金を持っていなかった。稼いだら…また来るよ」
預けた短刀を取ろうとすると、鍛冶師は目を丸くした。
「稼ぐ?…お前さん、本当にここへ来たばかりみたいだな。金ならあんたはもう持ってる。ここではソウルでやり取りするんだ」
「…ソウル?」
「あんたが溜め込んでる、それだ。それがなけりゃ俺達不死人も動けなくなる。逆に、それがある限り意志に関わらず何度でも蘇る…たとえ亡者になってもな。だから、亡者達はあんたのような活きのいい不死人を見つけるとそれを奪おうと襲ってくるってわけだ」
思い返してみれば、デーモンや亡者を倒すたび何かが私の中に取り込まれ、力が漲るような感覚があった。あれがソウルだったのか。倒した相手によってばらつきはあるものの、人離れした強い敵を倒すほどその感覚は強かった。これが金になるというなら私にとって悪い話ではない。
「まあとにかく、このロードランではソウルが金代わりだ。金であると同時にここでの寿命みてえなもんだから、大事にな。…それで、武器は預けるのか?」
「うん、頼むよ」
鍛冶師は煤けて黒くなった小傷だらけの大きな手を差し出しそのまま私の手を掴んだ。何が起こるのかと身構える。しかし、身体に何の変化も感じられないまま、鍛冶師は手を離した。…支払いが済んだのだろうか。握られた左手をぼんやり眺める。ところどころ少し剥げた黒革の手袋があるばかりで、目に見えて変わっているところはない。目に見えもせず触れられないものがどう受け渡されているのか私にはさっぱり分からなかった。
「よし、少し待っててくれ。…だが、あまり離れるなよ?この辺りでまともなのは俺とあんたくらいだからな」
そう言って鍛冶師は再び金槌を握り、仕事だと言わんばかりに肩を回した。他人に自分の持ち物を預けるのは盗人の性分としては落ち着かないところだ。だが彼はそういった懸念も杞憂に思わせるだけの実力を持っている。性根は分からずとも、堅実なものを作ることはこの場を取り囲む武器が証明しているのだ。これほどの名工に鍛えてもらえるなら愛刀も光栄だろう。
「また後で来る」
念の為投げナイフを装備し、邪魔をしないよう静かに上階へ移動する。一つ階を上がったところで、先程は見過ごしていた赤い煉瓦造りの建物に続く道があることに気付く。見渡す限り生い茂った木は、不死教区とはまた一風違う建物を守るように枝を伸ばしている。教会のように誰もを受け入れる気はない、荘厳で人を寄せ付けない佇まいだ。武器を待つ間、少し様子を見ても良いだろう。
近付くほどにその建物の異様さが露わになる。物々しい…とでも言うべきか、煉瓦の赤壁は不死街の建物とは違い威圧を感じる。入口は無骨な柵門で固く閉ざされており、何人も歓迎していない。全く生活感は感じられず、そもそもこの入口も人のために作られたにしてはやけに大きいのだ。何か特別な催事で使われる建物なのだろうか?好奇心が抑えられず柵に手を掛けた。もっと奥が覗ければ、いい宝でも見つかるかもしれない。
「うーむ…ウムムムム…」
突如聞こえた唸り声に肝を冷やす。慌ててナイフを構えて敵を探すが…スケルトンや亡者らしき姿はない。代わりに視界に入ったのは、奇怪な丸い鎧に身を包み腕を組む人物だった。私の知る限り鎧は攻撃から身を守り、攻撃を逸らすためにあるのだが、その白く大きな丸鎧は身を守るのに役立つか甚だ疑問を抱くような形をしていた。機動性が損なわれないのだろうか。鎧の重量を考えると、中の人間は相当に鍛えているはずだ。しかし、まだ意志ある人間かどうかは分からない。警戒したまま一歩ずつその白い鎧に近寄った。鎧の人物は、まだ私の存在に気付いていないのかなおも唸るばかりだった。
「うーむ…」
もうあと数歩も近付けば喉元にナイフを突き付けられるという距離にいるのに、一向に気付く気配はない。亡者にしても、動きが鈍いような…。思い切って肩を揺すると、ようやく男はハッとして私の存在を認めた。
「…お!?おお!」
「お前は人間?亡者?…亡者じゃ返事できないか…」
「私か?私はカタリナのジークマイヤー。実は少し難儀していてな」
玉葱みたいな形の兜の切れ込みから、少し反響した声が返ってくる。返事ができるということは、まだまともではあるらしい。思わず漏れた溜め息に構わず男は話し始めた。
「そこの門が開かないんだ。それでどうしたものかと考えていたのだが…うーん、開かぬなぁ…」
確かに門は開いていない。だが、こんなところで座っていても開くことはないだろう。この男も太陽の戦士のような類の者なのだろうか。…ロードランにいる人間は故郷では見たこともないようなおかしな奴ばかりだ。
「うーん…うーん…」
男は腕組みしたまま兜の中で唸っている。この男が馬鹿か無害な善人かという問いはともかく、私は善人ではない。困っている者がいれば相手も見ずに手を貸すようなお人好しではないのだ。スれる金でもあれば容赦なくスっているところだが、ソウルのスり方は分からない。だから、静かにその場を後にした。この先に用事がある訳でもない。触らぬ神に祟りなし、だ。男は私が去ることを微塵も気に留めないまま、一人唸り続けていた。