アスカトラに限った話ではないが、港町の夜は存外肌寒い。昼の喧騒は鳴りを潜め、路地を覆う砂は日中とは打って変わってひんやりしている。冒険者や旅人は宿に集い、商人や住民は家の戸に鍵を下ろす。外にいる者といえば、地区の入り口に佇む衛兵と野良猫くらいだ。真っ当な人間なら出歩かない時間に、その男は注意深く周囲を警戒しながら姿を現した。
背丈は5.6フィートほど。体重はおよそ152ポンド前後だろう。中肉中背。暗褐色のフードが風ではためかないよう片手で裾を握りながら、小走りで通りを進む。男は不安そうに何度も辺りを見渡し、しきりに後ろを振り返った。そのせいで路上に転がる腐りかけの果物に躓きかけーーそれでも歩測を落とさず駆けた。段々と地面を蹴る速度は上がり、男はまるで自分の影から逃れるように路地裏に乾いた足音を響かせる。その音はどこか、緊張した心拍にも似ている。乱れることなく砂を蹴り続ける音を数えていた。あと少し。もう2フィート。よし……そろそろだ。
勢いよく角を曲がろうとした男は、不意に角から飛び出した私にそのままの勢いでぶつかった。
「っ!」
「……おっと、失礼」
身体が触れた一瞬の隙に、素早く上腕に針を刺す。薄い外套を貫き、針は確かに標的に命中した。ぶつかった衝撃でよろめいた男は、その拍子に地面に尻餅をつき、間髪入れずこちらを睨み見上げた。
「いやはや、少し急いでいたもので! こっちの通りに行けばスラム一美しいカリムシャイトと楽しめると聞きましてな。しかし……少しばかり酔い過ぎた。旦那もその店をお探しで?」
「……チッ」
「そんな顔をなさらずに。今日は月も星もなく薄暗い夜だ。通りを歩く時はお気を付けて」
「悪いが、急いでるんだ。娼館なら向こうだ。お前こそ気を付けろよ、酔っ払い」
そう言ってふらふらと立ち上がると、男は再びフードを目深に被り直し駆け出した。一歩、二歩……走ると毒の周りが速くなるぞ? ああ、ほら。言わんこっちゃない。男は十歩も待たず、ばたりとその場に倒れ込んだ。
「なんっ……クッ……!」
男は回った麻痺毒で舌がもつれ、言葉にならない声を漏らしている。威嚇するように寄せられた眉とはちぐはぐに、ゆっくりと瞳孔が開いていく。血管が浮き出るほど身体に力を入れているようだが、指一本たりとも動きはしない。この男専用の完璧な調合だ。抵抗などできるはずがない。
「ああ、無理に話そうとするのはお勧めしませんな。舌を噛まれても困る。傷は最小限に留める契約でしてね。こちらとしても、減額されたくない」
「……グッ! ンンンー!!!」
「おお、怖い。そんなに睨まないで下さいな。理由はお分かりのはず」
手早く両手に金属製の枷を嵌め、もがくほど食い込むよう首に縄を通す。
「ご安心を? 少なくとも、送り届けるまで旦那を生かしておく約束だ。大人しくしていれば、その間は無事でいられますぞ」
追加で睡眠薬を嗅がせれば、おしまい。やはり先に麻痺させておくと後が楽だ。力を込めて睨んでいた目はすぐに上を向き、呼吸が安らいでいく。
「さあ、良い夢を。旦那」
脱力した身体を無理のない方向に折り畳み、麻袋を被せていく。麻の軋む音と共に袋の中に詰め込まれた男は、既にただの《荷物》同然だった。すれ違う衛兵がいたとしても、旅人の荷物にしか見えないだろう。あとは標的を引き渡すだけ。《荷の運搬》は張り込みや追跡ほど神経を研ぎ澄ます必要がなく気が楽だ。つい鼻歌でも歌いたくなってしまう。しかし、衛兵に握らせる無駄なチップを浮かせるため、旋律は頭の中に留めた。
標的入りの袋を引き摺りながら、元来た方向と全く反対に歩き出す。酒場や宿から微かに漏れた明かりを躱して、狭い建物の間の、人一人がやっと通れるような闇へ。重い麻袋を引き摺る音が規則的に鳴る以外、辺りには何者の気配もない。裏路地に取り残されるのは、きっと冷え切った静寂と晦冥だけだろう。
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賞金稼ぎとして追った標的は数知れない。ヒューマン、ハーフリング、ドワーフ、オーク、エルフ、ドライアドの告示さえ見たことがある。依頼主が望むならどんな生物の命も報奨金に変わる。だから我々賞金稼ぎは、追跡し罠に掛けるのだ。姿形は異なれど、首に賞金のかかる者は大抵が悪人や犯罪者、権力者に歯向かった者、後ろめたい者たちだ。捕まえて突き出したところで微塵も心の痛まない、情けを掛ける価値のない者ばかりということは共通していた。
賞金稼ぎとハンターはよく似ている。事前に情報を仕入れ、あらかじめ罠を仕掛け、用心深く追い詰める。時に逃走する対象を執念深く追跡し、捕まえてようやく引き換えに報酬を手にする。相手が人型生物となれば、知恵比べと力仕事の合わせ技だ。泥臭く、褒められた仕事でもない。しかし異邦の流れ者にとって、これほど有り難い商売もない。故郷で磨いた技術を存分に活かし、路銀を稼ぎ、街を渡り歩く。気楽な浪人として振る舞う傍ら、西方の言葉や文化を盗んで回った。ああ、それと……たまに懐の銭も。
東方のウォリアー、浪人。つまるところサムライ崩れの盗賊にしては戦果も悪くなかったろう。諜報が出来、世慣れし、腕も立ち、ハーブの知識も豊富。極め付けに口の硬い人材となれば、裏社会で引く手数多だ。街を跨いで名が知れるほどの有名人ではないが、それも含めて私は重宝されていた。表向きは愛想の良い隣人。夜になれば標的を付け狙う影。私が売るのは名ではなく技術と成果だった。英雄への憧れなどとうに褪せ、気が付けばスラムの背景によく溶け込む、錆色の住人として自由と生を謳歌していた。
浪人でい続けるにはコツがある。常に逃げ道を確保し、深入りせず程々を見極める。そして一番重要なルールが、標的に決して情(なさけ)を掛けないこと。それさえ守れば、たとえ世界の裏側を覗いても、首の皮を繋いだまま朝日を拝むことが出来る。これが私の流儀だった。
その日はコパーコロネットの一番安い部屋で残り少ない金貨を数えていた。そろそろ次の仕事を探す頃合いかと重い腰を上げたところで、奇妙なことにドアの隙間から手紙が差し入れられた。
この辺りでは珍しく、ちゃんと封がしてある格式高い手紙。安宿の一室に投げ込まれるにはあまりに異質だった。何より不自然だったのは、私がここに、この部屋に寝泊まりしていることを知っていることだ。コパーコロネットの顔馴染みや同業者はともかく、手紙を差し出してくるような縁遠い者は知らないはずだ。そのために毎日部屋を替えているのだから。
魔法の罠や毒を警戒しながら慎重にナイフで開けていくと、触り心地の良い上質な紙が現れた。宛名は確かに私で、仕事を頼みたい旨と報酬、そして依頼人のメイジの塔の場所が記されていた。符丁の類が記されていないことから、依頼人はこの辺りで幅を利かせているシャドウシーフではないらしい。品良く見える揃った文字に、二桁ほど間違えたのではないかという額面。相手にするのも馬鹿らしい、いかにも胡散臭い依頼だ。しかし、悪い胸騒ぎを覚えながらも私は懐からコインを取り出していた。故郷から持ち去った穴あきの硬貨は、部屋の明かりを反射しよく輝いている。緑青の錆一つなく、よく磨かれた面に自分の顔が反射する。カラトゥアの地を離れた時から幾分か老け、疲れ切った顔が映っていた。
なあ、ヨシモ。この街の腐敗と安酒にも、そろそろ飽きてきたんじゃないのか。好奇心が尽きてしまうほどには、アスカトラという街を隅々見て回った。未だ楽しめるものといえば、スラム街の角にある夫婦の数年に及ぶ不貞関係が、いつ終わりを迎えるのかというゴシップくらいだ。
それに同業のヤリンを見ていると、チーズを撒いてネズミを待つ生活はあと何年続けられるものかと身につまされる。ついこの間は、お気に入りのレディに「白髪、抜いてあげましょうか?」なんて言われたばかりだ。引退を見据え金を稼ぐにしろ、気ままな浪人を続けるにしろ、間違いなく言えるのは先立つものが要るということ。覗き込んだコインの中には、渋い現実に打ちひしがれ情けない顔をした自分が映る。自由とはつくづく金が掛かり、望むほど手に入らない女のような存在だ。そんなことを思いながら、いつものようにコインを弾いた。回転しながら落ちていく硬貨は、滑らかとは言い難い動きで回る。そう、このコインきは明らかに偏りがあると知っている。だから重宝していた。結果は……もちろん表だ。運の女神が告げたのだ、そうすべきだろう。手紙に記された塔へ向かうと決め、すぐさま準備を整える。私はまるで惚れた女に会いにいくような、柄になく浮ついた足取りでコパーコロネットを後にした。
手紙に記されていた塔は、仕事で何度も見掛けた、よくある魔術師の塔だった。ワキーンズ・プロムナードの端で、プライドの高さを誇示するかのように空目掛けて聳え立つ建造物。どう見てもメイジが建てたものだと分かる。外観も、この辺りでは珍しく石造りである以外、殊更気に留めるような特徴などない。正門から足を踏み入れるなり無骨なゴーレムに出迎えられ、手紙の差出人の元へと案内された。用心深く部屋の奥に進むにつれ幾つかの魔術の罠を認めたが、そのどれもが素人に毛が生えた程度の比較的簡単な作りのものだった。
ゴーレムが案内する先には奇抜な出立ちの依頼人が椅子に掛けていた。挨拶もそこそこに聞かされたのは、メイジが潜在的な力を引き出す研究をしており《エッセンス》の抽出を試みているという話だった。頼みたい仕事は至ってシンプルで「《エッセンス》を持つ人物は逃走を試みる可能性がある。だから監視役と抽出の手伝いを頼みたい」とのこと。説明の中で何度も登場する《エッセンス》とやらがどういった代物かは語られなかったが、ハーブや薬の調合を知る者からすれば、それは何らかの魔術的価値を持つ特別な素材のように聞こえた。
こちらとしても、生きたまま対象を引き渡すような荒事より、薬作りや監視の方が有り難い。しかも、どういうわけか一生遊んで暮らせるような大金を積んでくれるというじゃないか。相場を大きく上回る報酬。この金があれば、すぐにでも次の街へ発つことが出来る。それどころか、故郷に帰り隠居することも夢ではない。こんなチャンス、間違いなく二度と訪れまい。
……とはいえ、どうも胡散臭い。メイジの奇抜な服装のセンスを勘定に入れなかったとしても、何か引っ掛かるものがある。経験上、甘い話には大抵裏があると知っていたのもある。疑いを払拭しきれない私は、メイジに適当な質問をし、その回答を伺うことにした。嘘つきは嘘の匂いを知っている。スラム暮らしに慣れると、表情や態度を見れば大体の嘘を看破出来るものだ。事実、アスカトラのスラムに居を構えてからというもの、もう何年も人に騙された試しなどない。
メイジは何かを誤魔化す様子も、答えに詰まることもなく質問に端的に答えていく。監視対象は複数人。依頼の期間は《エッセンス》を抽出し事後処理が終わるまで。計画の秘匿が条件で、仕事の手筈を整えるための前金も必要な額支払われるらしい。そして、一番気に掛かっていた不自然に高い報酬額は、対象が多いことと拘束期間の変動を加味した額面になっている、と。
男の振る舞いから嘘や動揺、不審な点は全く見られない。説明に不足もなく、実際男が纏うローブは身分と金を裏付けるだけの上等な絹で出来ていた。ありとあらゆる仕事をしてきた中で、稀にこういう物分かりの良い依頼人は存在した。金に執着しないタイプで、研究熱心な魔術師や学者に多い。金払いが良く話の分かる依頼人で、こちらからすれば好都合な取引相手。魔術の腕までは分からないが、入り口に張り巡らされた罠のレベルからしてーー何かあったとしても最悪どうとでもなるだろう。リスクを見積もった上で、悪くない話だと思った。質問への回答を終えたメイジは、両手の指を胸の前で突き合わせたまま、愛想なく淡々と決断を促した。
「それで? 契約するのかね」
「……ええ。そのお話、喜んでお受けしましょう」
「契約に際し、一つ条件がある。お前がそうと決め付けるわけではないが、前金を持ち逃げする不届者や、口の軽い素人がいる。お前以前に塔を訪れた者が、まさにそうだった」
「ほう? それは頂けない話ですな」
メイジは神経質そうな青白い顔をこちらに向ける。
「この仕事を秘匿の上遂行すると、誓いを立ててもらおう。期間は先ほど言った通りだ。……どうだ、誓うか?」
「勿論構いませんが……輝く鎧を身に纏う騎士ならともかく、薄汚れた盗賊の誓いを信用するほど迂闊なお人には見えませんな」
「ああ。だから《ギアス》で誓いを立てて貰おう」
《ギアス》ーー制約魔法か。噂には聞いたことがある。割と高位の魔法の一つで、制約を設ける魔法だったか。メイジの妻が夫の浮気を阻むためにかけた……なんて冗談を聞いたことがある。意思に背くと何らかのペナルティを負うようなものだろう。嫉妬深い妻ではなく、神経質そうなメイジに請われるとは、夢にも思わなかったが。
ギアスで誓いを立てるなど初めてだ。しかし、提示された前金の額を思えば何もおかしな話ではない。用心深い依頼者の中には、口止めを兼ねて仕事道具を質に取ろうとする者もいる。運が悪ければ、仕事を終え報酬を受け取る頃になって、口封じのため別の刺客を差し向ける者だっている。仕事道具を奪われるより、よほど合理的だ。いかにも頭の切れるメイジが好みそうな方法じゃないか。盗賊の端くれとして《契約》という響きはどうにも気が進まないがーーとっとと仕事を終わらせて去れば良いだけだ。幸い、ハーブの腕には自信がある。
「ええ、誓いましょう」
メイジの指の間に眩い緑色の魔法陣が現れる。聞き慣れた共通語とは別の契約の口上が唱えられる。メイジが発した言葉がそのまま実体を持ち、回転しながらこちらへ這い寄った。やがて魔法陣は私の身体をぐるりと取り囲み、幾十もの魔法の鎖に形を変えた。あまり良い景色ではない。身体中を蛇のようにずるずると這い回り続ける鎖は、男の合図とともに私の身体を強く締め上げた。鎖はそのまま皮膚や筋肉を通過し、胸のあたりを締め上げるように固着する。
「私はイレニカス。以後、マスターと呼びたまえ」
……契約成立、ということらしい。身動きが取れないということはないものの、呼吸は僅かに重く、纏う装備が一つ増えたような倦怠感と重苦しさが付き纏う。正直に言えば嫌な感覚だ。何かを奪われてしまったような、妙な不安も覚えた。魔法の鎖は、たまに心臓に絡み付きチクリと違和感を与える。とはいえ、貰える額を思えばすぐにでも忘れてしまう程度の痛みだ。この程度なら仕事に差し支えることはないだろう。
ほっと胸を撫で下ろし、その場で前金を受け取った。そこで初めて男の表情が動いた。袋の中身を改める私を見下ろし、実につまらなさそうに目を細めていた。
私の主人となったメイジは、計画の詳細を話しながら魔術師塔の案内を始めた。塔の出入り口は二箇所、客人向けに用意されたホールの玄関と、遺跡に近い裏口。遺跡に近づくにつれ壁は石ではなく薄暗い土が剥き出しになり、長い廊下を渡った先にいくつかの部屋に繋がっていた。どの部屋も表面をなぞる分には整っていて、生活感はあまりない。興味を引くようなものといえば宝箱に仕掛けられた子供騙しのような罠くらいで、それ以外はごくありふれた貴族の生活空間だった。
最後に案内されたのが、そこから少し離れた実験棟だ。受け取った前金の袋の重さに気を良くしていて、どこもかしこも、いかにも魔術師様が好みそうな場所だと内心笑いながら、メイジの後に続いた。
そこでまず目に入ったのはーー怪しげな装置だ。ガンドのクレリックにでも作らせたのかと思うほど、精巧で緻密なよく出来たアーティファクト。だが次に目に入ったのは、装置の中で泡を発生させながら浮遊する不穏な肉塊だった。それから、周囲に散らばる廃棄された人骨、ウジが湧いた死体。いくつもの檻と、檻の中で力無く倒れている幾人かの人型生物を認めた。
「…………おっ、と?」
思わず声が出てしまう凄惨さだった。檻の中の人間はどう見ても拷問を受けたような形跡があり、みな意識はなく、辛うじて呼吸をしているかどうか。まだ新鮮な血で赤く汚れた床や壁が、この実験棟の異常性を証明していた。血と焦げた肉の匂いが混じった生臭い空気に、反射で胃の内容物がせりあがる。気を抜けば、今すぐにでも吐いてしまいそうだ。反射的に手の甲で鼻を塞ぎ、もう一度部屋をよく見渡す。……肉塊のうち何体かは、確実に死んでいるだろう。
「……マスター。これは……」
「先ほど話しただろう。今は抽出に際し慎重に調査を進めている。準備はじきに整うだろう。それまで素材とは接触せず、罠の準備を進めてくれたまえ」
話が頭に入らない。理由は言うまでもない。つい先ほど聞いた話と目の前の光景が私の中で何一つ繋がらなかった。部屋の空気を吸う毎に寒気と後悔に襲われていく。腰の金貨の重みも忘れるほど、一気に夢心地から醒めていった。
頭の中では、藁にもすがる思いであらゆる愉快な可能性を展開していた。これは一種の悪趣味な魔術師ジョークで、笑いどころなのではないか? 幻術が見せている幻なのではないか? それとも、ここへ来る途中で道を間違え、知らないメイジについて来てしまったのではないか? 道も曲がりくねっていたことだ。うっかりどこかで別のメイジと取り違えたのかもしれない、と。
……同時に、最悪の事態を想定して逃走ルートも思い返していた。出口は二箇所とも覚えている。ここから一番近いのは裏口。煙幕を張れば少しは時間を稼げるか? しかし相手はメイジ。そう簡単に撒けないと思った方が良い。状況を把握する時間を稼ぐため、努めて冷静に質問する。
「ええと、この者達が……《エッセンス》ですか」
声は震えていた。眼前の光景をあらためて見渡しながら、呪文のように何度も同じ言葉をなぞっていた。頼む。頼むから冗談であってくれ。しかしそんなまじないも虚しく、主人は素っ気なく檻を顎でしゃくった。
「ああ。よく見たまえ。かれこれ数ヶ月程は魔法を浴びせているが、まだ耐えている。もう少しなのだよ……最高の《素材》だろう?」
……一体、この男は何を言っている? これが最高の《素材》? それならブリーワグは前菜で、デザートはアーチハグか? ゴブリンの料理人だって、人間のことをもう少しマシな呼び方で呼ぶだろう。
「お言葉ですが、マスター。彼らは……《エッセンス》というより……どちらかといえば《人》に見えますな。まあ確かに? 私は少しばかり手荒な仕事の評判もございますが……」
唾を飲み込む。ごくりと喉がなったのを聞き届け、支えていた疑問を口にする。
「まさかその……《人》への拷問があなたの目的で? なんとまあ素敵な趣味だ。メイジの考えることは私にはさっぱりですな」
「拷問ではない、計画だ。教えてやろう。これは肉体の檻に閉じ込められたべハルの神性を持つ魂だ。我が目的は、それを解き放ち力とすること。肉体の方は私にとって残滓に過ぎない。取り出すまでの器だ。そういうわけで、当面の間お前には《エッセンス》の監視を命じている」
なるほど。その説明で分かったのは、よりにもよって依頼人は話の通じない狂ったメイジで、柄にもなく立てた盗賊の誓いは地獄への片道切符だったということだ! 今更気付いたところで後の祭りだ。罠師として恥ずべき一生の不覚。まさか、賞金稼ぎの私がチーズに目を奪われ、罠に迷い込むネズミになろうとは! 運の尽きだ。どうやら私の運命の相手はベシャバだったらしい。焼きが回った。どうりで白髪も増えるわけだ。
メイジは涼しい顔で檻の中を見ている。その横顔には一切の哀れみも同情もーーそれどころか感情すら認められない。自分の異常性を認識しているかすら怪しい。間違いなくこの男は、命を何とも思っていない。そんな男に私は誓いを立ててしまった。
背中を伝う冷ややかな汗で我に帰る。こんなところを墓場にしてたまるか。騙された末、野垂れ死ぬなど罠師のプライドが許さない。今からでも逃げ出す策はないか。抜け道や罠、破綻を見過ごさないからこそ、罠師として生計を立てて来られたのだ。きっと探せばギアスにも何らかの欠陥や抜け道があるだろう。それを探り契約を破棄すればいい。もしかすると、お喋りにさせれば、何か糸口が掴めるかもしれない。
「……《エッセンス》はどうやって抽出するので?」
「ありとあらゆる方法でだ」
「……なるほど。あー、ええと、契約内容には《人型生物の拷問》は含まれていなかったような気がしますが……契約内容を見直すことは出来るのでしょうかね」
食い下がる私をメイジはせせら笑った。
「抽出に際し仮に痛めつけたとして、だからなんだと言うのだ? これは私にとって《素材》だ。種族的分類など関係ない。抽出を手伝うという条件に何ら変わりはないだろう?」
メイジはじろりとこちらを見下ろす。
「……お前の評判は聞いているぞ、賞金稼ぎのヨシモ。標的と引き換えに金を得るスラムの野良犬。私はくだらない些末な命と引き換えに神の力を得るだけだーーさて、一つ質問しよう。我々に一体何の違いがある? お前は金のために何人も痛めつけたことがないとでも?」
鋭い視線が私を射抜く。その瞳は水晶玉のように私の全てを見透かしていた。
「…………」
言葉が出ない。ギアスのせいではない。言い返したくとも、言い返す言葉を持ち得ていないのだ。「私の仕事はお前のように素人じみた非道なものではない」と言い返してやればいい。しかし、頭は先に敗北を認め、言葉を紡ぐのを辞めてしまった。
……ああ、確かにそうだ。私は金のため、両手の指では足りない数の標的を依頼人の元へ送り届けた。殺しはしていない、あくまで生捕りだと自分に言い聞かせながら。他人の命と引き換えに金貨を得、掃き溜めのようなスラムに肩までどっぷり浸かっている。枕の下にナイフを忍ばせて眠り、下世話な噂話に耳を澄ませ、飲む打つ買うで日々をやり過ごし、財布が空になればまた次の標的を探す。腐敗した街の汚泥と、引き渡した者たちの血に塗れた、薄汚い賞金稼ぎだ。《殺しは請け負わない》という矜持で自分を正当化している、只の落ちぶれた盗賊。無垢ではない。崇高な使命を帯びた騎士や英雄でもない。そんなことは明らかだ。でなければ、こんな魔術師の元に辿り着くものか。そうだ。間違いない。私は薄汚いスラムの野良犬だ! それならば今更ーー拷問だろうが監視だろうが、一体何を躊躇う必要がある?
「しかし……」
支配的な蒼眼を真っ直ぐに見つめ返した。しかし、そうしたところで、抗うための言葉は降って来ない。胸の内で己の価値を問い直すほど、卑小な存在であることを自覚し足がすくむ。やはり私は、この男に言い返せるような立場ではない。
「……いえ、仰る通りです」
保身や恐怖からではなく、ただ正論に傅いた。
「お前は私の課した《仕事》をただこなせば良い。契約を反故にしてみたまえ。鎖を握っているのは私だ。お前をそう簡単に逃しはしない」
主人が手を挙げ軽やかに指を鳴らすと、一瞬にして鎖が深く食い込み心臓を締め上げた。血液が流れ込まなくなった全身は、なす術なく地面へと崩れ落ちる。呼吸さえ許されず、間も無く目の前にチカチカする光が現れた。手脚は痺れ、指先一つ動かせない。この男の実力を完全に侮っていたと気付く。身体の自由が効かない。どんな毒草を口にするよりも苦しい。息が出来ない。肺に残ったなけなしの空気を吐いて、命乞いを絞り出す。
「……グ、ァ……ッ! 承知、しました……マスター……!」
「前任者のようにはなりたくないだろう?」
道端の汚物を見るような表情で主人は私を見下ろし、それから部屋の隅の生肉の塊を顎でしゃくった。まだ新鮮な血が滴る肉の中からこぼれ落ちた溶けかけの眼球と目が合う。その血走った黒い瞳が最後に映したのは、間違いなく恐怖であっただろう。
「お前の《忠実》な働きに期待する。ヨシモ」
拘束はほんの数秒。しかし、逃走の選択肢を頭の中からすっかり消し去るには十分な時間だった。私はーー所詮、血に塗れたコインを稼ぐだけの賞金稼ぎ。供物と引き換えに金を得る、安宿暮らしの野良犬。生きる為、金貨を貰う為ならどんな仕事だってこなしてきた。そうする他、生きる道はないのだ。貧しければ奪うしかない。どうせ私に突き出された者たちは、みな私を呪っているだろう。この男と契約する前からとっくに、私はケレンヴォーに裁かれる運命だったはずだ。
「……ッ、……!」
喉まで出かかった悪態を飲み込んだ。やめておけ、ヨシモ。そんな言葉お前らしくもない。反抗なんて似合わない。そうだろう? 故郷のことわざもこう伝えている。《毒を食らわば皿まで》と。くだらない矜持など、貰った金で酒と共に飲み干してしまえばいい。そんなものは、この薄汚れた世界では腹の足しにもならないのだから。
貰った金貨の袋を握りしめた。ずっしりした重みは却って現実感がなく、袋の中でコインが擦れ合う音はいつもよりずっと無機質で下品に聞こえた。それ以上何も口答えはしなかった。
その場を離れる前に哀れな《エッセンス》を横目で一瞥する。他人事ではない。あれは私が辿るかもしれない未来なのだ。冷たい檻の隅で体を丸く折り畳み微動だにしない姿は、灯火が消える寸前の虫のようだった。スラムを歩けば嫌というほど目にする、乞食たちの最期にも似ていた。
宿までの帰り道は、ズキズキと痛む胸を抑え鈍重な足を引きずっていた。痛んだのは胸に根を下ろした魔法の鎖ではない。金貨よりもちっぽけな、なけなしの良心とプライドだ。……いや? まさか! 恐らくはギアスの影響だろう。幾人もの首を突き出して来た賞金稼ぎに、今更痛む良心など残っているものか。昨日までの私に聞かせたら鼻で笑ってしまいそうな冗談だ。今度同業の者たちにでも聞かせてやろう。きっと皆、腹を抱えて笑うはずだ。スラムのプライドなんか野良犬だって食い付きやしない。
夕暮れに染まるアスカトラの見慣れた広い通りが、今や大きすぎる牢獄だった。枷のついた身体は一仕事終えた後よりも軋み、少し奮発した酒の味さえ無慈悲に奪った。砂入りのエールよりもずっと不味い酒で今日見た光景を全て洗い流し、なんとか眠りに就いた。いつもより柔らかい布団は寝返りを打つ度身体にまとわりつき、夢の中でさえ私を囚人に変えた。
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