牢を出てすぐ、この不死院の異常さを思い知ることとなった。カビと腐臭の混じった湿った匂いが充満し、辺りには人骨と思しき骨がいくつも散らばっている。そして何より、干からびた骨と皮だけの…とても人とは呼べない人型の屍が徘徊している。棺桶から起き上がりそのまま動き出したような骨と皮だけの人型。これが恐らく噂に聞いていた亡者なのだろう。ダークリングが現れた不死人達は死んでも蘇り、やがて心をなくした亡者になると言われている。目の前の亡者達も例に漏れず意思を持ち合わせていないのか、頭を振り乱したり髪を掻きむしったりしている。それはまるで、思い出せない何かを思い出そうとしているかのようだった。かつて人だった者。そして呪われた私がいつか辿る運命。…あれが未来かと思うと気が滅入る。不死人は“人のまま”死ぬことも許されないのか。
彼らの横を通り過ぎ、暗い牢獄の中を彷徨い歩いた。申し訳程度に置かれた燭台の火は、僅かな隙間風で簡単に吹き消えてしまいそうなほど弱々しい。こんな場所でなければ誰がこんな灯りを頼りにするだろう。牢番が訪れることすら想定されていないのは明らかだった。この場所は見張りなど必要としていない。捕えられた者に改心や反省を促すための牢ではないからだ。捕らえ隔離されすればいい…そんな無慈悲さが至る箇所から透けて見えた。誰がこんな悪趣味な建物を作ったやら。ここを出たら直接礼に上がりたいくらいだ。
見渡す限り続く煉瓦と牢と亡者ばかりの景色。変わり映えしないどころか、見れば見るほど作った者の悪意を感じる。出口が見当たらない苛立ちで、足元に転がる小さな骨を蹴る。力任せに蹴った骨はカラカラと乾いた音を立てて転がり、そのまま灯りの届かない暗がりに消えた。追いついてもう一度蹴ると、今度はちゃぷんと水飛沫に呑まれたきり音を立てるのをやめた。水音?こんな場所に?やけに苔むしていたのはそのせいか。骨が落ちた辺りまで行くと道は突き当たりになっており、苔に塗れ腐食しきった梯子を見つけた。手を掛けて揺するもびくともしない。まだしっかりと身体を支えてくれそうだ。どうかこれが出口であって欲しい。何度もそう願いながら、苔でぬめりを帯びた梯子に足を預けた。
期待に胸を膨らませ顔を出した先には、小さな広場と火の消えた篝火の跡があった。火は消えているにも関わらず、近付くにつれそこからほのかな温かさを感じる。あの騎士が火を焚いていたのだろうか。だとすれば、そんなに離れていないのかもしれない。熱に惹かれるまま手をかざすと、どこからともなく火が灯った。…火元なんて、何もないのに。
長く牢にいた影響で幻でも見ているんじゃないかと目を疑った。しかし、これが現実だと言わんばかりに火は周辺の空気を舐め、燃え上がった。嘘みたいな光景に、私はただ見入っていた。ずっと寒い牢にいて冷え切った身体は熱を欲している。出来るなら、もっとこの火に触れていたい。失われた体温を取り戻すまで、ここで微睡んでいたい。…だが、今はまずあの騎士を見つけるのが先決だ。篝火が残っているなら、まだ遠くには行っていないはず。そう確信を得て、懐のナイフを取り出し再び歩き出した。
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大扉に迎え入れられ、再び建物の出口を探して彷徨い歩いた。狭い通路に牢が連なっている建物の造りは先程までと変わりないが、進むほど好戦的な亡者が多いことに気付く。手慣らしがてら相手をすると、その音を聞きつけた次の亡者が襲いくる。亡者同士で争わないのを見る限り、私が亡者でない確信を持って襲っているようだ。一体何を目当てに襲っているのかは分からない。ただ、彼らが一様にこちらの命を狙っていることだけは確かだった。兵士や戦士の出立ちをしているからには、生前は戦いに明け暮れていたに違いない。正面戦闘は専門外だが、鈍った身体の勘を取り戻すにはちょうど良い相手だった。
「さて、これで全部…」
突き刺したナイフを抜き取ってベルトに収める。牢から出た時は立つのもやっとだったはずなのに、動いてしまえば案外身体はついてくるものだと思った。しかしこの先もナイフ一つで戦い続けるのは、あまりに心許なく効率も悪い。一体ずつ相手できるうちはいいが囲まれれば今のようにはいかないだろう。
何かナイフに変わる良い武器はないかと死体の山を漁った。鈍の直剣がいくつかとハルバード、弓…どれもこれも私には大きい。欲を言えばもう少し取り回しが良く小ぶりなものがいい。そう思いながら視線を外すと、まるで何かに導かれたかのように真新しい遺体を見つけた。私が倒した亡者ではない。牢の奥で武器を抱えたまま事切れた遺体は、片手で刃を抱き込みもう片手は柄を握っている。よく見ればその武器は剣ではなく片刃の短刀だ。遺体の状態からしても死んで間もないのだろう。一般的な剣よりも刃が広いというのに錆一つ無く、持ち主から大切に扱われてきたことが分かる。この短刀なら申し分ない。遺体から抜き取って構えると不気味なほど手によく馴染み、刃は私に応えるように刃先を光らせた。ついでに傍らにあった小盾も拝借する。短刀と盾さえあれば、ここから逃げ出すには十分な装備だろう。思わぬ掘り出し物に気をよくして鼻歌交じりで牢を出た。
しばらく歩くと、どこからともなく苦しげな息遣いが聞こえた。亡者のものかと身構えたが音の主は一向に私の元には現れない。時折咳き込みながら、カチャカチャと金属を触れ合わせる音を立てている。まるで何かを探しているみたいに。
「…誰かいるの」
断続的な呼吸音が、深い深呼吸に変わる。そうして短い沈黙を破ったのは、息も絶え絶えの男の声だった。
「ここだ…」
急いで声のする方に向かうと、そこには苦しげに瓦礫の山にもたれる騎士がいた。それは紛れもなく、私に鍵を持つ死体を寄越した先程の騎士だった。
「…おお、君は…亡者じゃあないんだな…。よかった…」
駆け寄ると、ぐったりと項垂れていた頭を少しだけ持ち上げて兜だけでこちらを向いた。
「…大丈夫?」
騎士のガントレットは力無く腹部を押さえている。その手を持ち上げ握ると、べったりと鮮血が付着していた。出血している。それも大量に。慌てて押さえようとするが、騎士は静かに首を振りそれを制止した。
「私は、もうダメだ…もうすぐ死ぬ。死ねばもう、正気を保てない…」
騎士のものとは思えないほど弱々しい声だった。たまに喉の奥でなるゼェゼェという濁った喘鳴が、もう猶予がないことを告げていた。聞き覚えがある。この喘鳴は死者の呼吸だ。彼はもう…長くはないだろう。
「…だから、君に、願いがある…。同じ不死の身だ…観念して、聞いてくれよ…」
兜の隙間から見える青い目が、返事を待つように優しい眼差しをこちらへ向ける。何も言わずただ首を縦に振ると、騎士は満足そうに手を握り返した。
「…恥ずかしい話だが、願いは、私の使命だ。…それを、見ず知らずの君に託したい…」
そう言って騎士は、最後の力を振り絞り私に語り掛けた。
「…私の家に伝わっている話があるんだ。”不死とは、使命の印である。その印あらわれし者は、不死院から古い王たちの地にいたり、目覚ましの鐘を鳴らし、不死の使命を知れ”と」
頭の中で騎士の言葉を繰り返す。目覚ましの鐘を鳴らし、不死の使命を知れ。目覚ましの鐘に不死の使命…生憎私はどちらも知らない。それどころか検討もつかない。何のことを言っているのかはさっぱりだ。しかし、この願いばかりは聞き入れないわけにいかない。義理も人情もない盗人の私にだって、恩に報いるくらいの道徳は持ち合わせている。彼は名も無き盗人に、神が見放したこの命に、初めて救いを与えてくれた。その恩にはどんな形であれ報いたい。聞き届けた今この時から、この使命は私の使命だ。
「…よく聞いてくれた…これで希望をもって、死ねるよ…」
段々と乱れる呼吸の合間に紡がれる声音は、これまでの人生で聞いたことがないほど柔らかく穏やかだった。それは、とても今から死ぬ人間の声とは思えないほどに。
「ああ、それと…これも君に託しておこう…不死者の宝、エスト瓶だ。それと、これも…」
そう言って騎士は懐から深緑のガラス瓶を差し出した。火の粉のような鮮やかな色の液体が薄っすらと底に残るものの、それ以外中身は空だ。続けて手渡された鍵は、先程の鍵より少し大きく何らかの紋様が刻まれている。どこのものか分からない…この辺りのものだろうか。手渡された鍵をしっかり鍵束に納めるのを見届けると、騎士は最後に力強く私の手を握り返した。
「…じゃあ、もう…さよならだ。死んだ後、君を襲いたくはない…いってくれ…」
ゆっくりと、その指から力が抜けていく…その輪郭は差し込む光に溶けて消えていくようだった。魂が天に呼ばれているのだろうか。身体が段々と透け、私の目に映る景色が、その背中にある瓦礫の山ばかりになった最後の瞬間。耳元ではっきりと声がした。
「…ありがとうな」
その直後、身体に何か温かいものが流れ込むのを感じた。錯覚などではなく、確かに騎士の魂が、命の名残が…自分の中に吸収されたようだった。こんなことは初めてだ。そして、同時に見覚えのない光景が浮かぶ。
冠と礼装に身を包んだ老齢の男が、片手には鞘を、もう片手には青い宝石のついた剣を持っている。私は男の前に行儀良く跪いており足元にいた。老齢の男の羽織った青いマントには繊細な金刺繍があしらわれている。男は宝石剣の切先を軽く持ち上げ、跪いた私の肩を軽く数度叩いた。…叙勲だ。この国と主人に誓いを立て、私は高揚感と使命感に燃えている…。
言葉を失ったまま、彼の遺した深緑のガラス瓶を見下ろす。今のは彼の記憶の幻視なのだろうか。不死の…使命。恐らく彼は、今しがた見た主君から使命を預かったのだ。その誇らしさと使命への熱意が、今では自分のことのように理解できる。その剣に誓った誇りや忠義の重みも、背負った鎧に隠し続けた孤独も、本心では自分で使命を全うしたかったという後悔も。
こんなに大切な使命を託す相手がよりによって盗人だなんて、運命は人を愚弄する趣味があるに違いない。彼は私の素性をついぞ知ることはなかった。誇りや誓いなんて無縁の薄汚れた盗賊だということを。だがそれでも託していった。その人生を賭した使命を。
手の内にある深緑のガラス瓶と、彼が遺した約束。それが何もない私に与えられた唯一の導きだった。らしくもない誓いを、墓標代わりに心に立てる。これからは己のためではなく彼とその使命のためにこの刃を振るおう。
盗人の誓いに耳をそばだてるように、辺りは静まり返っている。生命を感じさせない冷たい石と土が周辺一帯の音を吸収している。温かく柔らかい陽の光を受け、埃っぽい空気の中からいくつもの細かな光の粒が照らし出された。この場所で何も変わらないのは、騎士を天へと看取ったその光、ただそれだけだった。