自己憐憫と自己嫌悪にどっぷり浸りながら、いつまでも暗闇を眺めていた。盗賊が初めて牢に入った理由が“不死になったから“だなんて、これ以上ない笑い話だ。血が滲む口の隙間から乾いた笑いが漏れる。不死を理由に牢に入ったなんて、盗人として全く格好がつかない。恥だ。せめて今生を賭けた一世一代の大勝負で捕まりたかった。澄まし顔の貴族に一泡吹かせてやりたかった。虫籠のような狭い牢の中ではそれすらもう叶わない。格好がつかないと言っても、そもそもこんな牢の中では格好をつける相手もいない。同居人といえば湿った苔と壁を這う蔦と動物の死骸と…かつて人間だったであろう髑髏や骨ばかり。あとは火の消えた冷えた蝋と瓦礫が散らばっているだけで、生き物なんてネズミ一居やしない。不死でなければとっくに飢えて死んでいただろう。
幸い、牢に入れられる前から持っていた鍵束と隠しナイフはそのままだったが…ここでは無用の品だった。始めに試したのは万能鍵。しらみ潰しに全ての鍵を確かめるも、どういう仕組みなのか一つも噛み合わず牢は開かなかった。それならと、錠を覗き込みおおよそ形の目測をつけ、側にある動物の骨をナイフで切り出そうとした。古く脆い骨は少しナイフを当てただけで容易く崩れ粉々になった。こうなると盗賊といえどお手上げだ。鍵開けさえできやしない私にはもう何も残っていない。あるのはダークリングと、骨同様に砕け散った盗人としてのちっぽけなプライドだけ。そんなものは脱獄の助けになるどころか慰めにもならない。早くここを出なければ、牢の外をうろついている動く屍達と肩を組む羽目になる。
薄暗く冷たい石の牢の中は身体からじわじわと体温を奪っていく。身震いをして手袋の中で悴む手を擦り合わせる。身体が動くうちになんとかしなければ。手近にあった比較的大きな瓦礫の破片を手に取って、錆びた鉄格子に振り下ろした。
どれだけの時間そうしていたのだろう。全力で石を打ち付け続けた利き手は、付け根のところから痺れ掛けて鈍く痛んだ。鉄格子は錆に塗れてろくに手入れもされていないというのに、びくともしない。このまま続けても体力を消耗するだけで出られる望みは薄い。仕方なく、最初に牢に投げ入れられた時と同じように壁にもたれた。牢の上方にある崩れた瓦礫の隙間からは星のない夜空が見える。柔らかい月明かりで辛うじて闇と自分の境界が分かる。太陽が失われ常夜に慣れていても、闇に生きる盗人だとしても心細い夜だった。夜は私の罪や汚れを覆い隠してくれる優しい隠れ家じゃなかったのか?自由を奪われ、月を見ることも叶わないなんて、まるで闇に幽閉されたみたいだ。裁かれるべき罪なら両手じゃ足りないほどある。決して無垢ではない。けれど…死も許されず永遠に囚われるなんてあんまりだ。人に課すにはあまりに永すぎる罰だった。牢に入れられてから数日か数旬か。それを判別する方法もないまま、ただひたすら寒さに耐えた。祈るべき神を持たない私には、牢で過ごす夜は永遠にも思えた。
星や月の見える夜、闇夜、いつしかそれを数えることもやめた。僅かに差し込む頼りない光は牢の奥までは照らさない。自分の輪郭まで夜に溶けたように思えた。思考もまとまらなくなり、自分の名も声も故郷も忘れかけていた。そうしてこのまま亡者になるのだろうと半ば運命を受け入れていた頃、突如として鈍い音が降ってきた。崩れた牢の上方から何かが落ちてきたらしい。小型の獣にしては随分重たい音だ。獣の死骸でも落ちてきたのだろうか。警戒しながら近付くと、虚な瞳と目が合った。人…ではない。もう動くことのない人の肉の塊。死体だった。男か女かも分からない程痩せ細っているのに、何故か装備を纏っている。…牢番まで死んでいるとは。手癖で懐をまさぐると、指に何やら硬いものが触れた。懐かしい感触。手繰り寄せると、それは小さな錆びた鍵だった。何の装飾もない質素な作りの鍵は年季が入っていて全面が錆びざらついていた。まさかと思いつつ牢の鍵穴に鍵を挿し込む。すると、心待ちにした音が辺りに響いた。がちゃり。信じられないことに、牢が開いたのだ。助かった…!久しい自由に自然と涙が滲んだ。身体はまだ動く。ここを出られる。自由の身だ。生まれて初めてこの世界で生きることを許されたような、得も言われぬ感情。興奮に突き動かされるまま死体が降ってきた方を見上げると、月光に照らされて光る何かと目が合った。あれは…兜。ということは騎士だろうか。
その騎士は綺麗に磨き上げられた銀の甲冑の上に、褪せた青い外套を羽織っている。月明かりを遮るようにこちらを覗き込んでおり、その甲冑の表面は光を受けて星のように輝いていた。礼を言おうと口を開きかけると、騎士は意味ありげに頷きそのままゆっくりとした動作で立ち去った。
「…ああ」
何度祈れど願えど叶えてはくれなかった神の代わりに、あの騎士は私に自由を与えてくれたようだ。何のために?…どうして?
尋ねなければ。立ち上がるのは久方ぶりで、上手く脚に力が入らない。それでも外へ出ようと、壁に手をつきなんとか身体を支えてようやく立ち上がった。覚束ない足取りのまま牢の外へ足を踏み出す。拙い一歩を交互に前に出し、忌々しい鉄格子を振り返る。囚われの身ではない。もうどこにでも行ける。
拳の中に握った小さな鍵を鍵束に加えてその表面をなぞる。何も与えられなかったこの人生で、ただ一度だけ与えられた贈り物。この錆びた鍵の鈍い輝きは、確かに私を光の方へ導いてくれるような気がした。