先の戦いでできた傷に、ウマル・ヒルの清流が滲みる。人里から離れた川の温度は低く、晒した野菜とジャヘイラの手をアイスゴーレムのブレスよりも冷やした。ジャヘイラは、久しく触れていなかった自然の温度に平穏と安らぎを覚えていた。アスカトラの喧騒と腐敗、うんざりするトラブルの数々を目の当たりにした後では、自然のもたらす調和が一層愛おしく感じられる。調和と均衡の取れた世界はこんなにも自由で、静かで、癒されるものだったろうか。ここには、自問を遮るものは何もない。ただ静かに、川に浸した手が冷えていくだけだ。
ジャヘイラは、無意識のうちに虫の声や葉擦れ、せせらぎの音の中に、カリードとの思い出を聞こうとしていた。聞き馴染んだ自然の至る音からも、彼との思い出を辿ることが出来る。それはジャヘイラにとって唯一遺された救いであり、もう二度と埋まることのない空白だった。遺された思い出の痕跡、そのどれをとってもーーもうカリードはいない。分かっている。過去に浸った所で、現実は変わらないのだ。だから川の水に手を伸ばした。未だ悲しみの底で溺れる己の心が凪ぐことを祈り、せめて自然の思い出の中に彼を見たかった。
そんな穏やかな時間を遮ったのは、水とは正反対の、岩のように頑とした男の堅い声だった。
「ジャヘイラ。折り入って相談があるのですが……」
草を踏む規則的な音にハーパーであるジャヘイラが気付かなかったはずはない。ただ、厄介を察知して意識的に聞かないようにしていただけだ。混沌とした現実に帰る時間を引き延ばすように。
ジャヘイラは籠ごと水に晒していた野菜を引き上げた。冷たい静寂から引き揚げられた手に、生温い現実の温度が戻る。
「どうしたの? モンク」
振り向いた先には、打ち伸ばした鉄よりも真っ直ぐに背筋を伸ばした、サンソウルモンクのラサードが礼儀正しく立っている。鍛え上げられた身体はジャヘイラの何倍も逞しいが、その表情はどこか物憂げで弱々しい。顔を見てすぐ、ジャヘイラは何の要件か察知した。……本当に分かりやすい男だ。呆れてため息をつくと、モンクは表情を変えずに「お邪魔でしたか?」とジャヘイラの顔色を伺った。
「いえ。いいわよ、続けて」
野菜に視線を戻し水切りしながら、ジャヘイラはぶっきらぼうに答えた。
「実はその……伺いたいことがありまして」
モンクは俄かに視線を逸らし、胸の前で合わせた手を落ち着きなく揉み始めた。
「ハ! 顔に書いてあるわね、ラサード。女絡みだと」
ジャヘイラが近付いてその顔を見上げると、ラサードは慌てて首を振った。
「いえ、まさか!まあ、確かに女性が関わりますがーーいえ……そう、ですね……」
段々と尻すぼみになっていくラサードに、ジャヘイラは一歩身を乗り出す。
「図星ね。当ててあげましょうか? 口説き文句でも教わりに来たんでしょう。坊や」
ラサードは周囲に誰もいないことを確認してから声を顰めた。
「……どうして分かったのですか」
ジャヘイラは呆れてもう一度ため息をつく。
「ハーパーの観察力を侮らないことね。それで?」
「ええと。私は、長らくサンソウルの教えを説く旅をしていたものですから……女性の口説き方が分かりません。愛を伝えるにはどうしたら良いのか……教えて頂きたいのです」
泳いでいたラサードの視線がジャヘイラへと寄せられる。そのあまりに真剣な眼差しは、迫るものがある。色事など無縁であるはずの敬虔なモンクから発せられている言葉だと思うと馬鹿馬鹿しいが、一人の男の窮状を見て一笑に付すほどジャヘイラは冷たい女ではない。だから、ただ呆れ混じりに短い唸り声を漏らした。
ーージャヘイラは知っていた。この男が口説こうとしているのは、ジャヘイラがゴライオンから預かった形見の娘、殺戮の王べハルの血を引く《彼女》のことだと。イモエン共々過酷な運命を強いられ、ジャヘイラの元にやってきた娘。単に若いというだけでなく、文字通りジャヘイラにとっては娘のような存在だった。血の繋がりがなくとも、今は亡き夫との間で守り続けてきた子供であり、一人の友人。友人ゴライオンと夫カリードの忘形見も同然だ。この男が口説こうとしているのはその《彼女》。ジャヘイラとしては複雑な心境だった。
この男の素行に憂慮すべき点はない。善の道を直走る誠実な男。サンソウル教団でも高い評価と名誉を得ていたからこそ、宣教を任されたのだろう。弱きに救いを差し伸べずにはいられない、善なる光の化身のような男。
しかし、それがこの男の最大の欠点でもある。信念を貫き通す為なら、己の兄やかつての友人とも袂を分かち、その手で決着をつける。秩序と善の強い光の下に落ちる影を知らない。その盲目的な信仰心は、一歩間違えば悪を裁くまた別の悪たり得るのだ。
調和を求めるドルイドであるジャヘイラは見抜いていた。この男は悪と同じくらい厄介で危ういということを。真面目で頑固で冗談すら通じない、底抜けのお人好し。出会ったのが我々だから良かったものの、そうでなければこの腐敗の世で食い物にされていたとて不思議ではない。
そんな男が娘を口説こうとしていると知れば、ため息の一つや二つ溢したくなるというものだ。こんな時カリードがいれば何と言っただろうか……ジャヘイラは夫と自分の馴れ初めの記憶の糸を手繰り寄せた。
夫は戦士の割に内気で、初めは虫も殺せない意気地なしに見えた。人と対峙すれば滑稽なほどオドオドと戸惑い、言葉少なく意見を述べる。しかしカリードは、その振る舞いの内に苛烈さと正義を灯した男でもあった。口下手で、頼りなく、手の掛かる人間。そんな彼を愛し始めたのは、胸に秘めた熱情に触れてからだった。一見穏やかな表情の下に隠されたカリムシャン人の持つ烈火にも劣らない温度。それはまさにカリムシャンの砂漠の灼熱のようだった。
口下手で内向的なカリードはかつて、あろうことかジャヘイラ自身に口説き方を尋ねてきたことがあった。あの時も、今のように分かり切った《恋の相手》の話を聞き、憐れみの目を向けていた。必死にジャヘイラの気を引こうとする亡き夫の姿。それが目の前の哀れなモンクに重なる。カリムシャン人だからなのか、それともこの男と夫が似ているのか。いずれにせよ、瞳の中に燃える激しい恋の炎が見て取れる。説き伏せて諦めるようには見えない。
「……ジャヘイラ?」
生真面目な眉が不安そうに寄ったのを見て、ジャヘイラはわざと肩をすくめてみせた。
「……分かったわ。口説き方ね。まず、相手の良いところを褒めるところから始めるのよ」
「良いところ……? 全てです」
曇りなき眼は、その言葉が冗談ではないことを証明している。ジャヘイラはうんざりした。まさかカリードより筋の悪い生徒がいるとは思わなかった。
「誰にでも当てはまる口説き文句に黙って耳を傾けるのは小石とビホルダーくらいよ、ラサード」
「と言いますと……?」
「愛を伝えたいなら、何故自分が相手を好きになったかを言うのよ。あなたが好きになったからには、他の女にはない魅力があるはずでしょう?」
ジャヘイラは呆れ顔で水切りした野菜の籠を押し付ける。
「ホースラディッシュを口説く時には辛味を。
カボチャなら甘みをニンジンなら歯応えを。あなたが惚れた娘には、どんな特徴があるか考えなさい」
「なるほど」
水の滴る野菜の籠に視線をやった後、ラサードは空を見上げた。夜空の星に愛しの娘を重ね見ているのは明らかだ。
「彼女は……瞳が月明かりのようで美しいです。暗闇を照らす星。私という彷徨える者を導く太陽でもあります。夜色の髪が戦場で靡くたび、星が最も美しく輝く時間を想う。彼女の光が私の心を照らし、闇に堕ちそうになる私に手を差し伸べるのです。いつも冗談で私を和ませて、光が何かを思い出させてくれる。近くにいられるだけで幸福を感じて……こんなことは、彼女が初めてです」
聞くつもりのなかった惚気が耳に入るたび、ジャヘイラは胸焼けを覚えた。ラサードは一息で愛を語り切ると、胸に手を当てて幸福そうに目を伏せた。
「なら、それをそのまま伝えることね。……全く、こっちは晩の食事を作る前から腹一杯よ」
「空腹だから夕飯を準備していたのではないですか?」
ジャヘイラは石頭のモンクが投げ掛ける頓珍漢な質問をまるきり無視して、遠くの篝火で肉を焼いている娘の方を見た。
《彼女》がこの男に向ける視線にもとっくに気付いている。たとえハーパーでなくても、二人の間に流れる温かい空気は誰だって容易に見抜ける。ゴライオンの死、イレニカスからの拷問、過酷な運命で光を失いゆく瞳が、それでも星の瞬きのように輝きを取り戻すのは、この男を前にした時だけなのだ。
朴訥で口下手なモンクが、たとえどんなに的外れな口説き文句を用意してきても、あの娘は手を引いて導くだろう。今となっては《彼女》に残された光はラサードくらいなのだ。
ジャヘイラは「誰に似たんだか」と母のような顔で呟いた。その呟きはラサードに向けたものではなく、ここにいない誰かへの問い掛けだった。
かつて自分も同じように、口下手な男の手を引いた。呆れ、ため息をつきながら、それでも正義の闘志を燃やす男に手を伸ばさずにはいられなかった。その熱が鋼鉄の冷たさで敵に立ち向かうジャヘイラを温めた。そうやって二人は愛を育んだ。困難も少なくなかったが、それでも彼の手を離さなかったのは……一度芽生えた愛という感情がどこまで育つのか見届けたかったのだ。
ジャヘイラの呟きに答えたのは、編んだ髪を揺らす風だけだった。ジャヘイラはその風の声が夫の笑い声のように聴こえて、一人静かに頷く。
「……その娘を必ず幸せに出来るんでしょうね」
間髪入れずにモンクは答えた。
「ええ。彼女を守り支えることが、全てを失った私に残された、ただ一つの喜びだと言えます。月の処女セルーネイに誓って」
モンクの声に含まれる甘く柔らかな愛と幸福に、ジャヘイラは一生懸命に言葉を紡ぐ夫を思い出した。その額に滲む汗も、必死の形相もまだ全て覚えている。あんなのを求婚と呼ぶのは馬鹿げているかもしれないが、それでもジャヘイラにとって愛を手にした大切な日だった。
ジャヘイラは心に湧いた揺るぎない安堵と裏腹に、目の前のモンクに睨みを効かせた。
「もし《彼女》を泣かせたら、二度と拳が握れなくなると思いなさい。剣をよく研いでおくことにするわ」
人差し指を突きつけられたモンクは目を丸くする。
「! もしかして……私の想い人に気付いていたのですか?」
「全部顔に書いてあるわよ」
籠を持たない方の手で、モンクは自分の頬や額をぺたぺた触って確かめた。恐らく、言葉通り顔に文字が書いてあると思ったのだろう。ジャヘイラは冗談の通じない男と野菜をその場に置き去りにして、篝火の方へと歩き出す。一歩踏み出す毎に胸が暖かくなるのは、まだ灯し続けている誰かへの埋み火が、再び激しく燃え上がったからだろう。
「ヨシモ! 鍋の用意はまだなの?」
「ちょっと待って欲しいネ。今油敷いてるのネ」
「今日の味付けはカリムシャン風よ」
ジャヘイラは勝気な顔で仲間を見渡した。異論のない仲間達はその声を号令代わりに料理に取り掛かる。各々がてきぱきと動き出すのを見届け、ジャヘイラは娘を見る。モンク曰く星灯りのような瞳を輝かせ、《彼女》は「カリードの好物ね」と表情を緩めている。ジャヘイラもつられて微笑んだ。カリード。私たちの愛はまだここにある。そして私達のすぐ側では、新しい愛が萌芽を待っている。大樹の枝の先で間もなく開くまだ若い芽。あなたにも見えているでしょう?胸の内で投げ掛けた問いに、小さなそよ風が優しく頬を撫でて答えた。
この男の素行に憂慮すべき点はない。善の道を直走る誠実な男。サンソウル教団でも高い評価と名誉を得ていたからこそ、宣教を任されたのだろう。弱きに救いを差し伸べずにはいられない、善の化身のような男。
しかし、それがこの男の最大の欠点でもある。信念を貫き通す為なら、己の兄やかつての友人とも袂を分かち、その手で決着をつける。秩序と善の強い光の下に落ちる影を知らない。その盲目的な信仰心は、一歩間違えば悪を裁くまた別の悪たり得るのだ。
調和を求めるドルイドであるジャヘイラは見抜いていた。この男は悪と同じくらい厄介で危うい男だということを。真面目で頑固で冗談すら通じない、底抜けのお人好し。出会ったのが我々だから良かったものの、そうでなければこの腐敗の世で食い物にされていただろう。
そんな男が娘を口説こうというのだ。ため息の一つや二つ、つきたくなるというものだ。
こんな時カリードがいれば何と言っただろうか……そう考え、ジャヘイラは夫と自分の馴れ初めの記憶の糸を手繰り寄せた。
そういえば、カリードも熱情を胸に秘めた口下手なカリムシャン人だった。あろうことか、ジャヘイラ自身に口説き方を尋ねてきたのだ。あの時も、今のように分かり切った《恋の相手》の話を聞き、憐れみの目を向けていた気がする。目の前の哀れなモンクに亡き夫の姿が重なった。
「……ジャヘイラ?」
生真面目な眉が不安そうに寄ったのを見て、ジャヘイラはわざと肩をすくめてみせた。
「分かったわ。口説き方ね。まず、相手の良いところを褒めなさい」
「良いところ……全てです」
曇りなき眼は、その言葉が冗談ではないことを証明している。ジャヘイラはうんざりした。まさかカリードより筋の悪い生徒がいるとは思わなかった。
「誰にでも当てはまる口説き文句に耳を傾けるのは岩くらいよ、ラサード」
「というと?」
「愛を伝えたいなら、何故自分が相手を好きになったかを言うのよ。あなたが好きになったからには、他の女にはない魅力があるはずでしょう?」
ジャヘイラは呆れ顔で水切りした野菜の籠を押し付ける。
「ホースラディッシュを口説く時には辛味を。
カボチャなら甘みをニンジンなら歯応えを。あなたが惚れた娘には、どんな特徴があるか考えなさい」
「なるほど。彼女は……瞳が月明かりのようで美しいです。夜色の髪が戦場で靡くたび見惚れてしまいます。いつも冗談で私を和ませてくれます。近くにいられるだけで幸福を感じて……こんなことは、彼女が初めてです」
聞くつもりのなかった惚気が耳に入るたび、ジャヘイラは胸焼けを覚えた。
「なら、それをそのまま伝えることね。こっちは食べる前から腹一杯よ」
「空腹だから夕飯を準備していたのではないですか?」
ジャヘイラは頓珍漢な質問をまるきり無視して、遠くの篝火で肉を焼いている娘の方を見た。
《彼女》がこの男に向ける視線もとっくに気付いている。ハーパーでなくても容易に見抜いただろう。ゴライオンの死、イレニカスからの拷問、過酷な運命で光を失いゆく瞳が、それでも星の瞬きのように輝きを取り戻すのは、この男を前にした時だけなのだ。
朴訥で口下手なモンクが、たとえどんなに的外れな口説き文句を用意してきても、あの娘は手を引いて導くだろう。今となっては《彼女》に残された光はラサードくらいなのだ。
ジャヘイラは「誰に似たんだか」と母のような顔で呟いた。その呟きはラサードに向けたものではなく、ここにいない誰かへの問い掛けだった。
かつて自分も同じように、口下手な男の手を引いたことがあった。呆れ、ため息をつきながら、それでも正義の闘志を燃やす男に手を伸ばさずにはいられなかったのだ。その熱が鋼鉄の冷たさで敵に立ち向かうジャヘイラを温めた。そうやって二人は愛を育んだ。
ジャヘイラの呟きに答えたのは、編んだ髪を揺らす風だけだった。ジャヘイラはその風の声が夫の笑い声のように聴こえて、一人静かに頷く。
「……その娘を必ず幸せに出来るんでしょうね」
間髪入れずにモンクは答えた。
「ええ。彼女を守り支えることが、全てを失った私に残された、数少ない喜びなのです」
モンクの声に含まれる甘く柔らかな愛と幸福に、ジャヘイラは一生懸命に言葉を紡ぐ夫を思い出した。
その額に滲む汗も、必死の形相もまだ全て覚えている。あんなのを求婚と呼ぶのは馬鹿げているかもしれないが、それでもジャヘイラにとって愛を手にした大切な日だった。
夫はまだここにいる。間違いなく私の中に。そして私達が見守った《彼女》の中にも。ジャヘイラは安堵し、目の前のモンクに睨みを効かせた。
「もし《彼女》を泣かせたら、二度と拳が握れなくなると思いなさい。剣をよく研いでおくことにするわ」
人差し指を突きつけられたモンクは目を丸くする。
「! もしかして……私の想い人に気付いていたのですか?」
「全部顔に書いてあるわよ」
籠を持たない方の手で、モンクは自分の頬や額をぺたぺた触って確かめた。文字が書いてあると思ったらしい。
ジャヘイラは冗談の通じない男と野菜をその場に置き去りにして、篝火の方へと歩き出す。一歩踏み出す毎に胸が暖かくなるのは、まだ灯し続けている誰かへの埋み火が、再び激しく燃え上がったからだろう。
「ヨシモ! 鍋の用意はまだなの?」
「ちょっと待って欲しいネ。今油敷いてるのネ」
「今日の味付けはカリムシャン風よ」
ジャヘイラは勝気な顔で仲間を見渡した。異論のない仲間達はその声を号令代わりに料理に取り掛かる。各々がてきぱきと動き出すのを見届け、ジャヘイラは娘を見る。
すると、ぴったりと目が合った。《彼女》は「カリードの好物ね」と表情を緩めている。ジャヘイラもつられて微笑んだ。そうだ。私たちの愛はまだここにある。
そしてそのすぐ側で、新しい愛が萌芽を待っている。