久しぶりに訪れた祭祀場は、穏やかな日差しはそのままに、どことなく静かで閑散としていた。彼女の装備を揃えるため戻った。祭祀場につくなり「師匠はここにいて」と荷を任され、篝火から少し離れたいつもの定位置に佇んでいた。
俺が最初に病み村を目指して旅立った頃は、もう少し活気があったように思う。使命に臨む不死人が幾人も通りがかった。多くの不死人は、旅立ったがそれきり……戻らないということだろう。
しかし、一部の見慣れた顔ぶれは変わらずここを拠点としているようで、くたびれた戦士の男や、黒髪の魔術師、いかにも怪しげな商人の男など、最後に見た姿のまま各々の持ち場で休息を取っている。最後に立ち寄ってから、まだそれほどの時間は経っていないはずなのに、既にこの景色が懐かしい。それどころか、灰がかった色の石畳に今や故郷のような安心感すら覚えている。見上げれば、どこまでも澄み切った青空が目に入り、呼吸の度に瑞々しく新鮮な植物の香りを味わえる。かび臭く、薄暗く、じめじめと湿ったあの最下層とは全く大違いだ。
「ただいま、師匠」
「もう戻ったのか。早かったな?」
「目当てのものはなかったんだ。代わりに……珍しいものを手に入れた」
そう言って差し出されたのは、小さな布巾着だった。柔らかく仕立ての良い小綺麗な布は、聖女が纏う装束のように、清らかな純白。その布越しに薄らと透けて見えるのは……小粒の褐色の塊だ。見たところ苔玉よりも小さい。
「《チョコレート》っていう、異国の菓子らしい。種子を加工したもので、貴族が好んでよく食べているとか」
彼女はそう説明しながら巾着を覗き込み、興味深そうに眺めている。色形こそ怪しげだが、香ばしく甘い芳香がする。
「へえ、食べ物なのか。大沼では馴染みがないな」
「私も初めて見たよ。疲労回復と滋養強壮の効果があるってパッチに勧められて……他に良さそうな品もないから、安く譲ってもらった。」
「パッチって…あの死体剥ぎの商人だろう? ……本当に大丈夫なのか?」
「ふふ、盗賊の目利きを疑うの? 盗人なのは私も同じ。安心して、師匠に何かあったら困るから、私が先に毒味してあげる」
彼女は流れるような動作でマスクを外し、巾着から取り出した小さな一欠片を迷いなく口に放り込んだ。
「……っ!?」
俺が彼女の手を掴むよりも早く、その手は「もう食べちゃった」と言わんばかりに大袈裟にひらひらと開かれた。その動きに合わせてニヤリと歪められた口の端には、溶け出した褐色が微かに付着している。石のような見た目にそぐわず、体温で溶けてしまうらしい。はじめこそ彼女は俺の反応を楽しむように笑っていたが、味わっている物体の正体が掴めないのか、次第に眉根が寄せられていく。
「……おい? 大丈夫か?」
「んー……ん……? 思っていたより……甘い。それに……美味しい! パッチにしては、いいものを仕入れていたみたい。当たり」
心底安心してため息をつく。少なくとも即効性のある有害な成分は含まれていないようだ。本当に体に毒でないのかは気になるところだが。流石にあの盗賊も、顔馴染みとなった今わざわざ謀略を仕掛けることはないのだろう。恐らく。そう信じるしかない。件の商人をちらりと横目で見ると、相変わらず下卑た笑みを浮かべて、彼女に挨拶代わりのハンドサインを送った。
真剣に心配する俺の反応がよほど可笑しかったのか、彼女は肩を揺らして笑った。
「ほら、大丈夫だって言ったでしょう? ……師匠も食べてみる?」
「いや……あんたが買ったものだからな。俺は大丈夫だ。さっきの戦いではあんたに任せきりで、それほど疲れてもいないしな」
「ふうん?」
毒を恐れたわけじゃない。俺はそれよりもっと緊急性が高いことに気付いてしまった。菓子を食べて笑う彼女はとてもかわいい!彼女が見せた年相応の溌剌とした表情を、もう少しこのまま眺めていたかっただけだ。
俺の返事に目を丸くしたあと、彼女はいつもの悪戯っぽい笑みを浮かべて、褐色の塊をもう一粒口に入れた。今度は噛まずに舐めているのか、左右の頬を交互に膨らませている。黒革のマスクをしていると分からないが、こうして、ふとした時に見せる子供のようなあどけない表情はとても愛らしく、微笑ましい。悪巧みをしている時には想像もつかない姿だ。いいものが見られたな、と頬を緩めていると、そこにするりと手を添えられる。
「ん……? どうし、」
ああ、彼女のこの顔は……よく知っている。まさに、良からぬことを思いついたときの目だ。背伸びをして一気に近付いた唇が、その勢いのまま重ねられる。なんとかバランスを崩さずに済んだのは、あの目を見て、なんとなくその先の展開を予想していたからだ。驚くべきことに、困惑の感情よりも喜びの方が勝った。抵抗することなくその口付けを迎え入れる。預けられた体重を受け止め、その背中に手を回した。この先は?と視線で問うと、彼女は無抵抗の唇の間に舌を割り込ませてくる。これまでに嗅いだことのない種類の甘い芳香が鼻を抜けていった。
生暖かい舌が、唾液でどろどろに溶け出した甘い塊を絡めてくる。確かに、甘い。……甘ったるいくらいだ。木の実や果実のそれとは比べ物にならない濃度の甘さ。頭の中が、靄でもかかったみたいに不鮮明になる味。さらにその甘さの奥に、微かに酒の風味を感じる。不死になってからは酒を飲んでも酔えなかった。いま体が熱く感じられるのはこのまとわりつくような甘味のせいか、それとも……。
「んん……」
俺にとっては、異国の菓子より甘く感じられる声を漏らしながら、彼女は口を吸い続けている。過酷な旅の傍ら、彼女とこうしていられるのは実に嬉しい。しかし、このままだと理性まで溶けてしまいそうで……後戻りができるうちに離れたいというのが本音だった。
俺の思いは露知らず、彼女はうっとりした表情のまま舌を誘惑するのに夢中になっている。ねだるように触れてくる舌先の柔らかさで、思考が麻痺してしまいそうだ。絡まった舌の中で、とっくに溶け切って液体になってしまった《甘い液》が流し込まれる。ごくりと喉を鳴らし飲み干すと、彼女は満足そうに目を細め、ゆっくりと唇を離した。
「ほら……どう?」
熱を孕んだ翡翠の瞳がじっとこちらを見つめてくる。乾いた喉から声を絞り出す。
「あ、ああ…。美味かったよ。……息が止まるかと……思うほど。毒も入っていないようだし……何よりだ」
たった今行われたことを処理するのに頭がいっぱいで、何を言っているのか自分でもよく分からない。公衆の面前で見せつけて良い行為ではない気がする。思考がまとまらないのは……きっと慣れないものを食べたからだ。まだ口の中に残る甘さを舌でなぞると、先程までの感触を思い出してドキドキした。
最中は気付かなかったが、よく見ると両手が汗でしっとりと湿っている。鼓動も早鐘を打ち、頭はどことなく熱っぽい。これが毒でなかったら、一体何だっていうんだ。疲労回復効果がある?冗談じゃない。彼女がこちらを見上げて、反応をうかがうように小首を傾げてみせるだけで、胸が苦しくなる。
「……こういうのは嫌?」
「嫌かって!?……い、嫌じゃないさ。その……少し驚いただけだ。あんたからこういう風に表現してくれるのは、ありがたいよ。ただ、こういうのは……もう少し人目につかない親密になれる場で出来たら嬉しい。……今もあんたの後ろで聖職者が顔を顰めているんだ」
我ながら、なんて歯切れの悪い返事だ。だが蕩け切った今の頭ではこれ以上の言葉を見つけられない。彼女はもう一度口の端をにやりと持ち上げて、すぐにマスクを口元まで引き上げた。
「ふーん? 人目につかない場所……ロードランにあるかな…」
病み村、不死教区…と彼女は知っている土地の名を挙げながら指を折っている。「墓場は骸骨だらけで嫌でしょう?」と呟く横顔は、もうすっかりいつもの彼女のものだった。
期待と興奮が入り混じるおかしな心持ちのまま、祭祀場を後にした。少し先を歩む彼女の背で靡く外套を見ながら、毒のようにじわじわと心を蝕むあの甘さを思い返していた。風で周囲の木々が大きくざわめく中、はやる鼓動だけがやけに大きく聞こえて、意識せずにはいられない。
俺は薄々勘付いていた。この手の毒はすぐには効かない。回り切るのは時間の問題で、きっと気付いたときには手遅れだろう。口の中に残された毒は、俺の心を蝕み始めたばかりだ。