ラレンティウスが祭祀場を離れてしばらくが経った。イザリスの魔女の手掛かりを得た彼は、感激し、礼を尽くした後、喜び勇んで病み村へと向かった。
その喜びようといったら。「あんたも呪術は気色悪い口か?」と聞かれ、首を横に振ったあの時のようだった。破顔し呪術への熱い想いを語り奮起した姿に、私は報われたと思った。彼がこんなに喜んでくれるなら、この呪われた使命にも意味があった、と。
篝火のように静かに佇んでいるかと思えば、きっかけ一つで大きく燃え上がる。それでいて呪術には貪欲で野心的。呪術への曇りなき透き通った憧憬。炎のように柔らかく形を変える、可笑しな人。そんな彼のあらゆる表情に、私は密かに焦がれていた。
正直に言うと、私にとっては使命なんかより、彼の方がずっと大切だった。皮肉なことに、火の翳った世界で私の心を照らし続けていたのは、この世界が爪弾きにした異端の呪術師だったのだ。使命で奔走する中、何度心が折れそうになっても亡者にならずに済んだのは、別れ際に必ず交わす約束のお陰だ。《亡者になんて、なるんじゃねえぜ》という彼の言葉ひとつで、私は辛うじてこの世界に繋ぎ止められていた。あの言葉は、言葉以上の意味を持っていて、私にとっては一種の《呪い》だった。
だから、彼が再び病み村へ向かうと言った時に、嬉しい反面心細さもあった。もう祭祀場へ戻っても、彼の声を聞けない。そう思うと、引き留めたいという気にも駆られた。あの柔らかく温かい声で、いつもの呪文をかけて貰わないと……二度とここには戻れないような気すらするのだ。ただの験担ぎでは済まされないほど、私はあの言葉に救われていた。
それでも引き留めなかったのは、彼が常日頃呪術に並々ならぬ憧憬を抱いていることを他の誰より知っていたから。こんな滅びの世に、彼ほど純粋で熱い想いを燃え上がらせる存在は他に知らない。うっとりと夢見るような口調で未知なる呪術について語る姿は……側から見ていると恋慕そのものに見えた。呪術への強い情念には、嫉妬を覚えたことも少なくない。
しかし、呪術に身を焦がす彼の邪魔だてをしようなどとは、露程も思わなかった。私が彼に焦がれるように、彼が呪術に焦がれるというなら……成就を見届けたい。惚れた弱みなのだろう。今日まで彼が亡者にならずに済んだ、彼にとっての救い。それが呪術だというなら、取り上げてしまうより、それを手にして喜ぶ彼を見たかった。
別れの寂しさや名残惜しさよりも、彼の喜びと幸せを願ってその背を見送った。
遠ざかり小さくなっていく背を見ながら、次会う時はどんなに興奮した様子を見せてくれるのか、どんなに嬉しそうに呪術の祖の話を聞かせてくれるだろうかと期待を寄せた。
……それなのに。
病み村の底に立つ見慣れた装束の男は……私を視界に捉えるや否や右手を構え、すかさずこちらに火の玉を繰り出した。
嘘だ。脳が理解したくないと、全力で情報の処理を拒んでいる。これは私のよく知る彼ではなくて、よく似た背格好の別の呪術師だ。きっとそうだ。そうであって欲しい。ボロボロの布切れ同然のフードも、最早盾かも怪しい壊れかけの木盾も、その手によく馴染んだ手斧も、見覚えのあるもの全て……何かの間違いであって欲しかった。
私が動揺し立ち尽くす間も、男は攻撃の手を止めない。燃える右手には次の火球が浮かび上がり、見慣れた動作でこちら目掛けて振り上げられる。その一連の動作の合間に、フードの奥の虚な目が見えた。清流の底のように澄んだ青い瞳は、まごう事なき彼の瞳だった。
それで嫌でも理解した。脱力し膝から崩れ落ちると、鈍い音と共に泥が飛沫をあげる。下半身が汚泥に飲み込まれ沈んでいく。毒沼が私を歓迎するように、どぷりと大きな音を立てた。ああ、どうして。運命は彼から呪術を奪い、私から彼を奪い去ったようだ。この毒沼に取り残されたのは、たった一つの救いを失った亡者と、今にも同じ姿になろうと死を待つ私だけだ。悲嘆で人が死ねるなら、きっといま私は死んでいた。だが、この体に刻まれた呪いは、そうやすやすと眠りに就かせてはくれない。
沼にへたり込み泥の一部と化した私に、男はなおも非情に火球を振りかざす。熱い火の粉が、火炎が執拗に肌を焼いた。その痛みは、忌々しくも私がまだ生きている証。そして彼が未だ呪術と共に在る証。
だから拒みはしなかった。運命は彼から正気を奪っても、呪術までは奪えなかったのだ。心から安堵した。いっそ彼の手で終わらせてもらえるなら本望じゃないか。彼の火で焼き尽くされて灰になれるなら……呪われた今生も悪くはない。
抵抗せず全てを受け入れていると、ふと亡者がうめき声を上げた。もう意志も記憶も残っていないだろうに、苦しげに呻きながら頭を抱え振り乱す。運命はどこまで私たちを愚弄するつもりなのだろう。その亡者は、まるで何か思い出せないものを思い出そうとするかのように、頭を掻きむしった。もう覚えていることなど、何一つあるはずもないのに。
ふらふらとよろめきながら、まるで助けを求めるように呻くのを止めない亡者。
それを見て、マスクの下で歯を食いしばる。最後の最後まで、あなたは本当にずるい人だ。堰を切ったように涙が溢れてくる。「大切にしてくれ」と体の一部を寄越しておいて、その私に今度は殺せと云うのか。助けがないと、樽の中からも出られなければ、安らかに眠ることもできないなんて。
——最後まで本当に勝手な人。
この胸で燻る、あなたへの思いも何も知らない癖に。
放っておけば、きっと他の亡者や人食いや蟲達に殺されるのだろう。私が手を汚す必要はない。でも呪術を追い求める姿をここまで見届けたのだ。その褒美に、せめてあなたの《最期》が欲しい。喉から手が出る程本当は手に入れたかったもの。盗人が唯一盗むのを躊躇ったもの。最期まであなたへの愛を燃やした証に、それくらいは求めても許されるのではないだろうか。
上手く力の入らない体に鞭打ち、なんとかもう一度体を起こす。動く度、彼の火に焼かれた髪と皮膚が、嫌な匂いをさせた。いっそこのまま、灰になるまで焼かれてしまいたかった。彼が最後まで想いを寄せたその炎で、強い熱で、溶かされてしまいたい。
自我のない亡者は、近づいてくる私を敵と認め再び右手を構えた。その掌で炎が艶かしく踊る。まるで呪術に向けた愛を見せつけるように。挑発するように。受けて立とうと、短刀をきつく握り締める。呪術など使ってやるものか。その瞳に最後に焼き付けられるのは、呪術じゃなくて私がいい。
「ねえ。その心中に……私も混ぜてよ」
亡者が火の玉を振り上げるのと同時に、その間合いに入り込む。最後の力を振り絞って懐まで転がり込むと、フードの中の虚な青い瞳が、一瞬驚いたかのように揺れた。
「あなたの心臓を頂戴」
ずっとずっと欲しくて、自分の物にしたくて堪らなかった左胸。その奥深くまで、刃を突き立てる。最後まで私には触れさせてくれなかった、一番熱く燃えていた場所を貫く。残る全ての力と、呪いより深い愛を込めて。
亡者は短い呻き声を上げたが、反撃に振り上げた右手はだらりと力を失った。かつて私に火を授けた手は、微かな残り火を迸らせながら、最後に空を掴もうとした。巻物を捲るような速度で、亡者の体はゆっくりと沼へ沈んでいく。胸に打ち付けられた、墓碑代わりの刃を道連れに。
泥へ沈む彼の体の後を追って手を伸ばす。安らかな寝顔が沼に沈みきる前に、願わくばもう一度、その手に触れたい。しかし指先が彼を捉えるより早く、彼の魂は光となり、私の中に注ぎ込まれた。横恋慕というものは、つくづく報われない。
「……私も、すぐにいくよ。師匠」
もう未練もない。魂の名残を一つ余さず受け止めて沼の中へ身を放り出す。柔らかい泥濘が心地良く全身を包んでいく。彼という光を失った冷たい世界と決別できてせいせいする。
霞んでいく視界の端で、かつては彼の一部だった左手の火が名残惜しそうに燃えていた。その輝きはまるで、一夏を惜しんで命を燃やす、小さな蛍のようだった。