かつて栄えた神々の都は、伝承に聞いていたより遥かに荘厳で、都一つ神の似姿と呼んでも差し支えない様相だった。絢爛で壮大な建築は、門扉や入り口の大きさからして見るからに小人の規格ではなく、この都が《神のためのもの》であることを示している。壁面の優美な装飾、切り出された質の良い石、騎士像は石工の繊細な技巧が光っている。神の名に相応しい見事な建築た。
しかし、あまりにも美しく造られたこの場所は、いかなる時も自然であろうとする呪術師の目に些か不自然に映っていた。太陽から熱は感じられず、雲は流れることもなく、常に一定の風が穏やかに吹いている。そこには自然の持つ温度…生命の気配が全くと言っていいほどない。熱のない炎の絵巻物を見せられているような…言い知れぬ違和感。見かけばかり美しく、民草のない斜陽の都。居心地が良いとはお世辞にも言えない。
呪術師は異端ゆえ、基本どの国でも歓迎されないものだが…それを加味せずともこの場所は体温を持つ生身の生命を拒んでいるような印象だ。
そんな中、ただ一つ感じられる温もりが隣にあった。手すりに身を乗り出して体をもたれた盗賊が、呪術の火を遊ばせている。最近の彼女は、掌に出した小さな《火の玉》を手の甲へ転がし、指の間を滑らせることに熱中していた。暇さえあれば火と戯れて、篝火の前で休む間も、こうして次の目的地を探す間も火に触れていた。つい先日まで《発火》の呪術さえままならなかったというのに、なんとも目覚ましい成長ぶりだった。
「呪術にはもう大分慣れたみたいだな」
曲芸のように踊る《火の玉》は、俺の言葉に驚き跳ね上がる。それを巧みに掴み直し納めたあと、火の主は、丸めていた背を伸ばしてこちらに向き直った。悪戯っぽく目を細めて小首をかしげながら。
「そうだね。…師が良いから」
「はは、そんなことはない。あんたの覚えが早いだけさ」
俺なんて大したことはない、と肩をすくめて戯けてみせると、盗賊は少し不服そうに眉を下げた。
「…世辞じゃなくて、本当に、あなたの教え方が上手いと思う」
その言葉は、乾いた土に水が染みるように俺の心を潤した。渇いているとすら思っていなかった。まともな友人もおらず、人目に触れれば異端扱い。そんな人間を浮かれさせるには十分だった。のぼせそうな心を気取られないよう隠して、いつもの調子を取り繕う。
「あんたにそう言ってもらえて…嬉しいよ。俺が今も大沼にいたら、弟子を取るような立場ではないからな。師匠が聞いたら腹を抱えて笑うだろうさ」
それを聞いて盗賊は二度大きく瞬きをし「ふうん」と納得のいかない返事を返して、火の玉を転がした。
もし今俺に弟子がいると伝えたら、師匠は何と言うだろう。あのジジイのことだ。きっと「おたまじゃくしに弟子だと!?」と腰を抜かし、蛙のように大きな目をひと際見開いて、腹を抱えて大笑いしたに違いない。唯一、俺の身寄りと呼んでも良い爺さんだ。あのジジイがいなければ、今の俺も、隣にいる盗賊を弟子と呼ぶことも、なかったのかもしれない。…懐かしいな。あのしわがれ声は今でも鮮明に思い出せる。いや、それだけではない、大沼の自然も、沼の匂いも、全て思い出せる。懐かしい故郷。しかし、もう二度と帰ることは出来ない場所。
郷愁に胸を締め付けられながら、夕陽を見上げる。そこに大沼の夕陽を重ね見ていた。ここにあの日の夕陽はないことなど、分かりきっているのに。どうして人は夕陽に故郷を見るのだろう。
「ねえ、思いついた」
俺を現実に引き戻したのは、何やら機嫌が良さそうな盗賊の声だった。俺の前に差し出されたのは、火を纏っていないただの右手。黒革の手甲に覆われた、小さく頼りない女の手。
誘われるままにその手を取ると、盗賊は俺の手を引いて金属で出来た手すりの方へ導いた。
城の螺旋階段から続く屋上の、一番夕陽に近い場所。太陽の光の王女から使命と王の器を渡された後、彼女はまずここに来たいと言い出したのだ。柵すれすれのところで隣に並ぶと、彼女は炎を纏った左手を伸ばし、夕陽の丸い輪郭と呪術の火がぴったり重なるように掲げた。
「ほら、見て」
「…ああ」
身を寄せて彼女が促す景色を見上げてみると、そこには呪術の火に灼かれて溶け出した夕焼けの空があった。まるで、彼女の火が空を焼き、世界を炎の色に染めたみたいだった。温度を感じさせない空虚なこの都の美しさが、途端に生命の熱を持ったように見える。
「面白いことを考えたな」
彼女の手のひらから溢れた、空の緋色が世界を包む。今、俺の目に映るこの景色を、この世界の全てを照らしているのは…俺が手渡した、彼女の呪術の火だった。
太陽の光の王女は言った。大王グウィンの後継として、世界の火を継いで欲しいと。即ち、不死の英雄である彼女自身がこの世界を照らす火となることを求めた。盗賊はその使命を確かに賜り、王の器を受け取った。
…だから、今俺が見ている景色は、そう遠くない未来必ず見ることになる景色なのだ。人の世の夜を終わらせるためにその身を燃やす英雄の終着点。彼女の熱と火が世界を照らす様。
彼女は思い付きと戯れでそうしたのだろう。もしかしたら、謙遜した俺を勇気付けようとでも思ったのかもしれない。だが俺は、そのかわいらしい児戯を見ても素直に笑ってやれなかった。使命の終着点。それが死で済めばマシかもしれない。呪われた不死がその身に神の火を継げば、死ねないまま焼かれることだって考えられる。
始まりの火を継ぐこと。その使命がどれだけ貴いことかは十分理解している。呪術師が火を繋ぐ営みの尊さを知らないはずはない。受け入れられないのは心だけだ。隣にいる彼女は、英雄であるより前に、たった一人の友人だから。
「火を継いだらこんな感じかな」
だったら、案外綺麗かもね。と盗賊は他人事のように笑った。
「…本当に火を継ぐのか」
納得できる言葉が欲しかったのか、それとも…今ならまだ引き止められると思いたかったのか。答えは分かりきっていたのに、気付けばそう問いかけていた。
「うん。夜を終わらせないと」
彼女は呪術の火を真っ直ぐに見ていた。炎で照らされた横顔は、マスクで覆われているが、どこか寂しげな表情に見えた。
「……そうだな」
彼女ならできる。そこには一片の疑いも抱いていない。彼女はやり遂げるまで決して諦めない。呪術もそうやって身に付けてきた。そうやって彼女はここまで歩んで来た。特別な祝福など何もないその身体で、彼女は世界の火を担うだろう。俺は、彼女なら世界の果てだろうと、辿り着けてしまえると確信していた。…だからこそ、心苦しいのだ。師として、友人として、ただの一人の呪術師として、隣にいて欲しいと願うこと自体、彼女の使命を侮辱するも同然なのだから。伝えたいことは沢山あったが、どれも相応しくなくて…全て飲み込んで、ただ笑うことにした。
「あんたなら、きっと出来るよ」
「ありがとう。…見てて、師匠。貰った火で、ちゃんと世界を照らすから」
彼女が溶かした空を見ながら、それを真似て自分の右手を掲げる。横並びになった二つの呪術の火。強さも温度も燃え方も全く異なるが、それでも、とてもよく似た姿をしていた。火の血縁。目には見えなくとも、強固で確かな繋がり。俺と彼女が師弟である証。たとえどれだけ離れたとしても、この火がある限り、何人も師弟を分かつ事はできない。きっと、火継ぎの儀式さえも。
…いつの間にか、あの格好つけのジジイみたいなことを思うようになったもんだ。こんなに故郷を離れても、俺の中には師匠が居る。手の内にあるこの炎が、距離も時間も超えて心を繋ぎ続けてくれる。離れたくらいでは消えたりはしない。その事実に安堵し、今度こそちゃんと笑った。
隣り合わせで燃える火を近付ける。彼女の手に俺の手が重なる。二人分の火が一つになって、その大火が空を黄昏に焼く。
「たとえ、どんな時でも…俺はあんたの一番そばに居る」
「…もしかして、口説いてる?」
「そんなつもりは…! まったく、参ったな…呪術の火の話なんだが…」
「ねえ、師匠……顔赤いよ?」
あんただって真っ赤だろ、とは言わなかった。仮に今顔を赤く染めていたとしても…それは夕陽に包まれているからだろう。
全てを赤く染め上げるこの黄昏の中では、胸の内で燃やす感情の色など…どうせ誰も見分けがつかないのだから。