掃除したばかりの準備室を舞う塵が夕陽に照り付けられ、燦然と輝いていた。鮮やかなオレンジに染まった夕の五時は、くたびれた独身教師と華の女子学生が過ごすには勿体無いほど見事な景色だった。そこにある全てが陽の色に染め上げられ、命を吹き込まれたかのように輝く時間。希望とノスタルジーを同じだけ混ぜたら、こんな色になるだろうなと思った。切り取ればそのまま絵画に出来そうな景色…なのだが、一つだけ足りない。彼女だ。
昼にバレンタインデーのささやかなお礼を手渡し「放課後一緒にこれ飲もうよ」と誘いを受けた。我ながら驚くほど単純で、その言葉に浮かれ切って午後を乗り切り、普段は気にも留めなかった準備室の棚の埃をはたき、いつの間にか増えていたカップを丁寧に並べて、主人を待つ犬のように彼女を待つこと二時間。いつもならそろそろ来るはずの時間はとうに過ぎ、薄々今日はもう来ないのだろうと思い始めていた。それならそれで構わない。元よりプレゼントとして渡したものだ。俺と一緒に飲まなくても、彼女が楽しんでくれればそれでいい。その気持ちに偽りはないが…一人で浮かれていただけに、あまりに馬鹿みたいだった。夕陽がいつにも増して綺麗な程、今の俺の虚しさと滑稽さが浮き彫りになるだけだ。
「…はは」
何やってるんだろうな、俺。渡された《落とし物》のチョコレートが本命だと言われて、自惚れていたのかもしれない。今はまだその時じゃなくても、いつか彼女とは、教師と生徒ではなく一人の人間として向き合いたいなど…身勝手な淡い期待を抱いていた。この放課後の先の未来を勝手に夢見て、その日まで彼女はここに通ってくれるものだと思い込んでいた。
考えてみれば俺と彼女の間には約束ひとつない。ただ居場所のない俺と、彼女と、たまたま空いている準備室があるだけで、毎日何時に放課後に来るなんて話は一度もしていない。気付いたら彼女が足繁く通うようになり、それに慣れて、いつしか当たり前になっていた。この風景に彼女がいるのが当たり前で、いないだけでこんなに物足りない気持ちになるなんて…そっちの方が変だ。どうかしてる。これじゃ彼女に会うために職場に来ているみたいだ。
苦い気持ちを切り替えようと、窓の方へと目をやる。部活動の掛け声すらまばらで、グラウンドを走っていた生徒達はトラックの端で顧問の話を聞いている。そろそろ撤収する頃だろう。
…俺も帰るか。空のまま並んだカップを一瞥して、持ち上げようとしたその時。人の少ない廊下をバタバタと猛スピードで走る足音が聞こえる。放課後の廊下は妙に音が響く。この階中に響いているであろう全力疾走の音は徐々にこちらに近付いて…まさかなと顔を持ち上げると同時に、上履きがキュッと音を立てて扉の前で止まった。次の瞬間、珍しく乱暴に開けられた引き戸がぴしゃんと開く。
「せ、せんせっ…ごめん!! まだいるっ!?」
肩を上下させ呼吸を整えながら、彼女は今しがた思い切り開け放った扉にそのままもたれた。
「…どうしたんだ?そんな勢いで。あと、廊下を走ると危ないぞ」
「…よか…よかった……まだいた…」
呆れて腰に手を当てながらも、内心安堵する自分に気付いた。こんなに息を切らすまで走ってきてくれたことに。俺だけが彼女を待っていたのではないことに。
「放課後っ…一緒に飲もうねって言ったのに…遅くなっちゃったから……」
鞄を抱えてぺたんと座り込んだ彼女に手を差し伸べる。彼女は躊躇いなくそれを掴んで俺に体重を預けながらよろよろと立ち上がった。少し冷たい手を、なんとなくそのまま握っていた。五秒は経たなかっただろう。しかし違和感を覚えるには十分な時間で、彼女は握られたままの手を見て、こちらを少しだけ不安そうに見上げる。まだ整い切っていない呼吸の合間に「せんせ?」と小さく掠れた声がした。…変に思っただろうな。俺だってそう思ってるさ。口元だけで薄く笑いながら、ゆっくり手を離す。目の前の少女はただ今しがた起きた出来事に理解が追いつかない様子で首を傾げていた。
「……待ってたよ。来てくれてよかった」
「せ、先生が、私のこと…待っててくれたの…?」
「ああ、もちろん…って、なんだその顔」
離したばかりの手を今度は両手で掴みながら、彼女は笑いを噛み殺すような可笑しな表情を浮かべていた。笑っているのか、照れているのかよく分からない。俺が覗き込もうとすると、手に力を入れながら顔だけ背けようともがく。少し崩れたポニーテールをぶんぶん振って、見ないで!と子供のような意思表示をする。あまりにかわいい仕草に思わず吹き出すと、彼女も照れ隠しのようにつられて笑い出す。もう夕陽も暮れかけた薄暗い準備室が二人分の笑い声で満たされる。俺の待ち焦がれた時間だった。さっきまでの虚しさが嘘のようだった。…本当、俺って奴はつくづく単純だな。
いつものように会話に花を咲かせ、紅茶とジャム、それから彼女の新鮮な反応のひとつひとつを楽しんだ。楽しい時間は過ぎるのが早いというが、彼女を待つ時間と比べて何と短いことだろう。カップが空になる頃には、夕日はひっそりと傍に佇んで、空には濃紺の幕が降りかけていた。紺に滲んで溶けたようなオレンジは、音を立てて燃え上がる前の炎と同じ色をしている。息を呑むような美しい色。でも果たして、隣に彼女がいなくとも俺はそう思っただろうか?彼女なしで見る夕陽より、景色に魅入るその横顔の方が完成された芸術品のようだった。背伸びした化粧の下に見える繊細な表情。心動く度に見せるその感情が、この空間で最も輝いている。俺は彼女の表情を通して見る世界が好きなんだ、きっと。もう取り返しがつかないくらい魅了されている事実に、ため息をひとつ溢す。
「ね、先生。あの夕焼け、先生の呪術みたいだね」
「…俺の、か?」
「うん。あったかくて、優しい炎の色」
そう言って彼女は両手で俺の右手を恭しく顔の前に持ち上げる。尊い身分の者にそうするみたいに。そして、期待の眼差しでこちらを見上げる。彼女がこの目をする時、どうすればいいか俺は知っている。促されるまま《発火》してみせると、彼女は満足げに微笑んで同じ動きを真似た。こんなに呪術を楽しんでくれる生徒もそういない。二つ並んだ火は互いを焼くことなく重なったまま燃え盛っていた。準備室中を照らすには不十分な灯りが、二人分の影をゆらゆらと浮かび上がらせる。そんな光景は一種の儀式めいていた。
「先生がくれた火は…私をいつも導いてくれる」
思わぬ言葉に内心動揺しながら、必死に言葉を探す。どんな意味で言っているにしろ、自分に相応しい言葉には思えなかった。
「そんな大層なことは…してないさ。俺が教えられる呪術は…ほんの一部だけだしな。教科書に載るような、偉大な呪術師でもない…」
「でも、屋上でサボってる私に呪術を教えてくれたのは、呪術王ザラマンじゃなくて、先生だよ?」
視線が交わって目が逸らせなくなる。翡翠色の瞳の中で揺らめく炎が俺を捕らえて離さない。そんな目で見続けられたら、言うべきでないことを口走ってしまいそうだった。俺にとってもあんたが特別だってこと、あんたの想像以上に胸を焦がしていること、毎晩眠る前に夢の中で会えやしないかと願いながら眠りに就くこと。全部…言ってしまえたらよかった。守りたいからこそ言えないこともある。そうやって募った想いを焚べられて、掌の炎は瞬間的に大きく燃えた。それは不安定に揺蕩い、形を変え続ける。二人分の呼気と辺りの音を全て舐め取って燃え盛る炎の向こうで、翡翠の瞳は未だ俺を逃がそうとはしなかった。
「…ありがとうな。そんな言葉を貰ったのは初めてだ。俺も……あんたが…」
何を言おうとしてる?
帰宅を促す最後の予鈴が言葉を遮る。規則正しい音階は、素行不良教師の過ちを正す警告音のようにビリビリと重く胃の底を揺らした。…分かってる。今の俺にその資格はないことくらい。危うく言い掛けた言葉を飲み込んで、静かに掌の炎を消す。放送の最後の音の余韻、その無音部分に残されたノイズまで聞き届けて、また深く息を吐く。訪れるはずだった静寂は、耳の奥で鳴る自分の鼓動で掻き消された。
「先生…? いま、なんて言ったの…?」
「ん? 続きは………いつか、今度な。ほら、暗くなっちまう前に帰るぞ」
「なにそれ! 超〜気になるじゃん…」
彼女は不服そうに唇を尖らせ、握ったままの手を離そうとしない。炎の端は怒りを代弁して激しく揺れている。…そりゃそうだ。
「ほんとに…いつか教えてくれる?」
「…ああ。約束するよ」
掴まれているのと反対の小指を出すと、彼女は《満更でもない表情》を隠しきれていない含みのある笑みを浮かべて、小指を絡めてきた。
「約束ねっ!? …絶対だよ?」
そう言って絡められた指に力が込められる。握り返した指にまとった炎は、彼女の指を巻き込みながら穏やかに迷いなく燃えた。もう誤魔化しようがないこの感情を決意に変え強く握り返す。彼女は念押しするみたいに結んだ指を何度もぶんぶん振ってから、その何倍も時間をかけてゆっくりと指を離した。
「さあ、気を付けて帰るんだぞ」
「はぁーい。また来るね」
「あぁ…待ってるよ」
振り返っては何度も手を振る姿を見送った。階段に差し掛かり姿が見えなくなる時、「せんせー、ばいばーい」と反響した声が取り残されて、それきりまた静寂に包まれた。
もうすっかり日も暮れて空は紺一色に染まっている。密やかな約束を結ぶには相応しい、己の狡さや後ろ暗ささえ隠してくれそうな晦冥。しかし、それを闇に隠そうなどとはもう思わなかった。指先に残る火照りが、紛れもなく俺の心を温めていることに気付いてしまった。いくら目を逸らしても飛び込んでくる未熟な焔が、いつの間にか俺の世界を新しい色に塗り替えていた。