その名前を呼ぶとき

不死×ラレ
夢主の名前の由来が出てくるので注意。(名前は出てこない)いちゃいちゃしてる。
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「あんたの名、変わっているよな。大沼では……聞いたことがない」
片膝を立て、武器を研ぐ姿を篝火越しに眺めながら、ラレンティウスはぽつりと呟いた。生まれも国も時代も異なる不死人同士。名を知る機会もないまま別れることも少なくない。
例えば祭祀場に居座る陰気な戦士。彼の名を知る者は誰もいないだろう。そして、このロードランでラレンティウスの名を知る者は、目の前にいる不死人ただ一人。仮初とはいえ師弟の契りを結んだ縁でお互いの名を知っている。それだけでうっすらと特別な意味を感じているのは、自称人嫌いゆえの思い上がりかもしれない。
真の名を明かすことの呪術的な意味合いを差し引いたとしても、ラレンティウスにとってその名は繰り返し頭の中でなぞるに値する重要なものだった。異端としてではなく、自分を一人の人間として認めてくれた初めての友人の名。ラレンティウスからしてみれば、心の鍵を渡されたも同然だった。暇さえあれば頭の中でその名をなぞり、込められた意味や願いを考えていた。辺境の大沼には多くの国から異端が流れ着く。その大沼でも聞いた覚えのない名前。考えたところで由来など分かるはずもなく、募る好奇心のまま呟いたのだった。
武器を研ぐ手は何か考えるように一瞬止まったが、やがて何事もなかったように元のペースで錆びかけた刃を削り始めた。
「変わった名というか……本名じゃない。通り名みたいなもの」
穏やかな眼差しの奥に、ほんの少し翳りが覗いたのを見逃さなかった。ラレンティウスは静かに己の思い上がりを恥じ、それと同時に酷く納得した。この手癖の悪い友人が、出会ったばかりの他人に容易く身元を明かす筈がないということを……すっかり失念していた。二人の間で不規則に小さく爆ぜる薪の音に寂寞を聞いた。聞き慣れた火の粉の音がどこか遠かった。
「……通り名、か。悪名高かったのか?」
「ううん。噂にもならなかった。義賊でも大泥棒でもなし、賤しい盗人は目立たなければ目立たないほど良い。名が知れるなんてもっての外。……だから、この名は自分でつけた」
どうりで全く聞き馴染みのない名だと思いながら、好奇心に突き動かされるまま、再び問い掛ける。
「どういう意味なんだ?」
マスクの下でクスリと小さな笑い声が漏れる。そんなことを気にしてどうするのか、とでも言いたげだ。
「……大した意味もない。その日限りで街をとんずら、明日にはもういない。そんな蜉蝣みたいな暮らしをしてたから。故郷の言葉で《蜉蝣》という意味」
何者も音を立てず静まり返る中、炎だけが激しく踊り狂っていた。ラレンティウスの頭の中もまた、焔のように揺れる感情が渦巻いていた。湖沼や清流を飛び回るあの儚く美しい虫の名を聞いて、これとないほど彼女に似合わしいと思ったからだ。誰にも知られず水底で命を育み、やがて翅を得て空へ舞い上がる。その命の期限は一日足らず。儚くも力強い生き様は、まるで彼女そのものだった。
彼女の名は皮肉にも、その身に背負う運命とも一致している。
これから向かう火継ぎの儀式。それは、不死人たちから不死の呪いを解くためのものだ。生命をあるべき形に戻せばやがて死が訪れる。自然の摂理として正しく望ましいことだが、それが自分たちに間も無く訪れる《別れ》であることは、確かめ合わなくとも互いに感じ取っていた。呪いを解いたとて、彼女が穏やかな余生を全うすることなどない。使命を果たそうとする限り、それは逃れられない運命だ。
ラレンティウスにとってこの奇妙な二人旅は、終わりを定められた束の間のぬくもりだった。雨上がりの虹や、空を駆ける流星と同じ類の幸運。どれだけ祈ろうとも消えてしまう、永遠や不死とは真逆の性質の、しかし胸の奥を確かに温め燃やし続けるもの。ずっと続けばいいと願わずにいられないものだ。もし願いが叶うなら、ラレンティウスはこの友人を《一夜で消える運命の蜻蛉》にはしたくなかった。
それ故、「似合いの名だ」とは口に出せず、押し黙ったまま大沼の清流にいたあの虫を思い出していた。大食べる事も眠る事もせず、ただ風を舞い、自由を謳歌する薄い翅。先が透けて見えるほど薄いのに、光を受けると明るく輝く美しい若葉の色。触れれば壊してしまいそうな小さな体躯。掌に閉じ込めて我が物にしてしまえたら、どれほど良かっただろう。しかし、捕まえたとしてもその翅は二度と動かないのだろう。ラレンティウスは吐息と共に胸の中で燻っていた言葉を漏らした。
「蜉蝣か……蜉蝣は儚いが、俺は好きだ」
刃を研ぐ音が止み、不死の友人は顔を上げ目を伏せる。それから少し間を置いて、三日月の形に目を細め揶揄った。
「フッ……どの蜉蝣が?」
「そりゃ、もちろん……虫も。……あんたも、だ」
ラレンティウスは言わせないでくれと肩をすくめて頬を掻いた。その頬が紅潮して見える理由を問い詰めない代わりに、彼女はすぐ隣まで来て腰を下ろし、ボロ布のフードの中を覗き込んだ。
「私も、あなたの名前が気に入ってる」
「……それは意外だな。どんなところだ?」
思わぬ言葉に口元が緩みそうになるのを、辛うじて引き締める。ラレンティウスは怖けずにその視線を正面から受け止めた。正直なところ、目を逸らさずにいるのがやっとだった。名前を褒められたのは初めてだ。
「呼ぶと嬉しそうに顔を上げるところ。その時の表情」
「そ、そうか。それは……よかっ、た……?」
ラレンティウスは顔の熱を隠すように、顎髭を撫でながら口元を覆った。こんなにくすぐったい気持ちになったのは初めてだ。爪先から頭の中まで茹って思考がままならない。そんなことなどお構いなしに彼女は続ける。
「あなたの名前の由来は分からないけれど、名前を呼ぶ度に陽だまりを思い出す。春に咲く名前の知らない花や、街の子ども達が歌う童謡も」
そう言って彼女は、死体を漁る時によく口遊む鼻歌を機嫌よく歌い出した。旅の同行者なら知っている。その歌も花も陽だまりの日向ぼっこも、仕事のない時に彼女が好んでいたものだ。宝石や金貨や宝箱より彼女が愛した、金で買えない平穏。そのことに気付いたラレンティウスはついに耐えきれなくなり、髭を撫でていた手でそのまま顔を覆った。
「……あ、ありがとうよ……」
確かめなくたって分かる。今、自分は間違いなく目の前の篝火よりも赤い。そう確信しながら、無遠慮に心を侵略する不届き者から背を向ける。だが、盗賊に背を向けたのは悪手だ。トドメを刺せる相手を見逃すはずもなく、致命の一撃が繰り出される。
「ラレンティウス」
その囁きは薪が燃える音にかき消されそうなほど優しく、しかしはっきりとラレンティウスの耳に焼きついてしまった。幾年経ってもこの声を、鮮やかに思い出せる確信がある。大沼の師匠以外の誰かが、自分の存在を認めてこの名を呼んだこと。それは、地に落ち灰になる前の小さな火の粉が、ひときわ強く燃えるあの輝きにも似た尊い感情だった。
未だ煩い鼓動を聞きながら、ラレンティウスは少し得意げな顔の盗賊を一瞥する。こういう話題でもなければ、教えてもらったその名を呼べそうもないと思い、名前の由来を聞いたというのに。……逆にしてやられてしまった。この旅が終わる前に、名前を呼べる日が来るだろうか。もし呼んだら、あんたはどんな顔で振り向いてくれるだろう。
声には出さず、心の中で名前をなぞる。俺にとっての木漏れ日で、悪戯好きな春嵐。孤独な夜を照らす灯火の名を。

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