材料の重みでたわむ荷袋が歩くたび腰の横で揺れる。呪術の材料も旅の備えも、これでしばらく足りるだろう。想定していたより捗ったのは、彼女との約束があるからだろうか。最近は辺境にばかり用があるらしく、彼女は滅多に祭祀場には訪れなくなった。ところが、いきなり帰ってきたかと思えば数日は祭祀場に留まると言って、わざわざ名指しで時間を空けるよう頼んできたのだ。呪術のために。
そんな風に言われたら、悪い気はしない。張り切って材料集めに勤しんだ結果、荷袋の空きが先になくなって、帰ってきたという訳だ。一仕事終えた充足感で、帰り道の足取りも軽やかだった。それを止めたのは、戦士の男の無愛想な声だ。
「おい、呪術師。魔術野郎から伝言だ。お前に用があるってよ」
思わず眉を顰めた。あの魔術師とは顔見知りではあるものの、関わりは薄い。せいぜい挨拶を交わしたくらいの仲だ。どんな用で呼ばれたのか皆目見当がつかない。思い当たる節がないか逡巡していると、戦士の男はつまらなさそうな顔で続けた。
「まあ、行きゃ分かるだろ」
「……そうだな」
礼代わりに軽く手を挙げて、その場を後にする。相手が相手であるためか、心中はあまり穏やかでない。
というのも、俺のかわいい一番弟子は、最近になり魔術を習い始めたのだ。熱い炎と冷たい結晶。分かたれた二つの物質を、そのまま体現したような俺と魔術師。情熱を燃やす俺と、結晶のように物静かで冷静なグリッグスとでは、性格的共通点は見当たらない。そんな二人を師にして、間を行ったり来たりしているのだから、いくらかわいい弟子と言えど俺は少し面白くなかった。
グリッグスの性格がどうあったとしても、人嫌いの俺にとって他者と関わる機会自体、僅かな緊張を伴うものだ。異端と指を差されたことは数知れない。理屈っぽい学者を前に、どう振る舞えばいいのか分からない。
鼻から深く吸い込んだ息がゆっくりと吐き出される。頬の産毛を撫でる風は、少しだけひんやりしている。意を決してグリッグスに声を掛けた。
「なあ、用があるって聞いたんだが…」
魔術師は積み上げられた本の山の間で涼しい表情を浮かべている。何か思案するように添えられた手が、声に応じてふわりと宙を撫でた。友好的な挨拶にほっと胸を撫で下ろす。
「ああ。急に呼び付けてすまなかった。君の耳に入れておいた方がいいかと思って……茶などはないが、座って話そうか」
頷きを返しながら、意外にも人当たりが良いこの男を誤解していたと思った。取り澄ました立ち姿、氷のような視線。自分とは全く異なるタイプの人間だと思い込んでいた。土の温かさなど知らなそうな魔術師が、足を崩して地面に座り込んだのを見て、内心驚いた。
グリッグスは俺が胡座の姿勢を取るのを見届けて、何気ない風に切り出す。
「《クレセント》という男を知っているか」
身に覚えはない。すぐに頭を振る。
「いや。……聞いたこともないな」
「そうか。実は、私たちの共通の友人、つまり《彼女》から……とある話を耳にしたんだ」
グリッグスは神妙な面持ちをしていた。彼女の名が上がり、つい背筋が伸びた。何か良からぬことがあったのではないか、と不安が過る。魔術師は声を潜める。
「彼女に《落下制御》の魔術を教えていた時のことだ。途中から、なんだか憂いを帯びた表情をしていたものだから、私は思わず理由を尋ねたんだ。……君も知っての通り、彼女はあまり自分のことを話さないだろう? だから初めは少し躊躇っていた。やがて、ぽつぽつと話し出した。……その時聞いたのが、この《クレセント》という男の話だ」
少しだけ自分の呼吸が浅くなるのを感じた。思わぬ方向に話が動いて身体に緊張が走る。
俺が呪術を教えている時には、彼女の口から自分の知らぬ男の名が出たことなど、一度もない。何だか落ち着かなくなり、足の上下を組み替える。魔術師は続けた。
「彼女が言うには『落下制御をもっと早く習っていれば《クレセント》は死なずに済んだ』のだそうだ。なんとなく表情からして、特別な感情を抱いているように見えた。だからつい気になって、その男のことを尋ねたんだ。……どんな男だったのかと。すると彼女はこう答えた」
一瞬生まれた間に、唾を飲み込む。ごくりと喉が鳴った。
「『《クレセント》はビジネスパートナーで、いい奴だった。聡明で機転が利くから、色んな仕事を共にした。私は彼が好きだった……』と」
話を聞き終えて、何か思うよりも先にまず、力が入りすぎて冷たくなった指先を摩った。知らず識らずのうちに手をきつく握っていた。グリッグスは何を言わず俺の言葉を待っていた。
好きだなんて、俺は言われたことない。人嫌いの俺がいうのもなんだが、彼女は盗人で、他人なんか基本的に信用していない。その彼女が好きと言ったのか?とても信じられないが、だとすれば、それは相当強い情を含んだ言葉のはずだ。
眩暈がする。なんでこんな感情にならなければならないんだ。乾いた喉に唾液を送り、沈黙を破る。
「……どうしてその話を、俺に聞かせようと思ったんだ?」
グリッグスは答えづらそうに口を引き結び、それから視線を落として言った。
「私の目に映る君と彼女は、協力関係を超えた絆を育んでいるように思う。だから、この話を聞いた時、真っ先に君は知っているのかと気になったんだ。……もしかしたら、ただのお節介なのかもしれないな」
再び訪れた気まずい沈黙。俺は燃える掌の上で小さな火の玉を作り出し、その形が変わるのを眺めていた。火は勢いを増していく。その焔の端々に、言葉にならない感情が滲んでいた。炎はめらめらと音を立てる。
俺が《クレセント》と言う男の名を知らないことが、全ての答え合わせじゃないか。
飲み込んだ言葉が腹の奥でのたうち回る。他に何も言葉が見つからず、黙ったままフードを深く被り直した。
「……」
「色んな可能性を考えて、伝えずにいるのとどちらが良いか……これでも悩んだんだよ。その反応からすると、知らなかったんだな。……君たちの仲を密かに見守っていた一人として、少なからず胸が痛い」
肩に魔術師の手が添えられた。その重みを感じないほど胸が苦しくて、上手く息が出来ない。刺すような鋭い痛みが胸の中で暴れ回っている。なんだこの痛みは。なんなんだ、この感情は。胸中の奇妙な感覚を通して、俺は初めて彼女への感情を自覚した。ただの協力関係では生まれ得ない感情が激しく燃えている。魔術師はそれを見抜いていたというのに、俺だけが気付いていなかったのか。
「……この話を俺に聞かせたこと、彼女には……」
言いかけた俺の言葉を、戦士の声が遮った。
「祭祀場で話題の女じゃないか。使命は終わったのか? 嬢ちゃん」
少し離れてはいるが、この距離だ。恐らく、戦士もこの話を聞いていただろう。そして俺たちに分かるよう、わざわざ声を張り上げている。彼女の帰りを知らせているのだ。
力が入らない身体を無理やり立ち上がらせて、いつもの場所へ足を引き摺る。こんなに短い距離が妙に長く感じる。
「師匠! あっ、先生も。やっとソウルが集まったから呪術を…………師匠?」
目の前に立ち塞がった彼女は、いつもと違う様子の俺に気付いて怪訝な顔をする。すぐ近くにいるのに遠くに見える。精一杯気丈に振る舞ったつもりで出した声は、魔術の結晶のように硬く、冷たかった。
「……あんた。悪いな、今は取り込んでるんだ。後で戻るよ」
驚く彼女の横を通り過ぎて、材料集めで来た道を引き返す。何かから逃げるように小走りで狭間の森を目指した。今の俺には、眩しい陽の光よりも鬱蒼とした森の静寂が必要だ。小走りからだんだんと速度を上げて、胸が悲鳴を上げるまで走って、走って——このまま足でも滑らせて、深い谷の底まで転げ落ちてしまいたかった。
******
夜空には月が昇っている。その大きさに圧倒されている間は、胸の痛みを感じなくて済みそうだ。森の空気を吸うと、胸に満ちた苦々しい思いも少しは薄れていく。このままもう少しここにいれば、嫉妬で煮えた俺の頭もきっと冷えるだろう。そう思いながら、掌の上に灯した火を眺めていた。彼女以外に気安く話し掛けられる友人は火くらいだ。火先が空気を焦がす匂いで、彼女との出会いを思い返す。
格好が付く出会いではなかった。救い主は彼女の方で、自分は情けない声を出して必死に助けを求めていた。暗闇から現れた顔を一目見た時に思った。この世界にはまだ救いが残っていたんだと。
瞳の中に炎を見た。その火は凍える吹雪の夜にたった一つ見つけた、蝋燭のようだった。希望だ。その希望は瞬く間に俺の絶望を熔かし、温めた。その時俺は、自分には必要ないと言い聞かせてきたものが、なくてはならないものだったと知った。悴む手を握られて初めて、自分が炎の中で一人凍えていたことを知った。彼女は最下層からだけでなく、孤独からも救い上げてくれた。
その温もりに救われたからこそ、俺も彼女を温める火でいたかった。……だが、彼女の心の灯火は別のところにあるらしい。仕方がない。一人占めしたいと思う俺がまだ未熟なだけだ。彼女の心に知らない男が住んでいたとて、何も俺との関係が泡と消えるわけじゃない。
虫の羽音が耳を掠め通り過ぎた。湖の方へ飛んでいく翅が月明かりでよく見える。親子か番か。二つずつ連れ立って飛ぶ姿を見て、また勝手に胸が痛む。あんな風に寄り添っていたかった。しかしそう思っていたのは、俺だけなのか。睦まじいペアの虫達は段々と小さくなり、やがて霞む月明かりに馴染んで消えた。
堪えきれず温かいものが頬を流れ、顎を伝って落ちていった。落ちた雫が橙の帯を暗く染める。それをきっかけに、堰を切るように感情が溢れ出し、声を押し殺して泣いた。泣くつもりなんてなかったのに、感情が溢れて止まらない。瞬く間にマンシェットが濡れていく。火がそれを乾かすより早く、次の涙が染みを作った。
涙が枯れ果てる頃には、喉の奥に灼けつく痛みだけが残っていた。
乾いた頬に残る最後の雫を指で拭う。すると、どこからか慌しい呼吸が近付いてきた。辺りを見渡しても誰もいない。何の音だと首を捻っていると、その音は丁度頭上に留まった。
「……ハァ、ハァ……ここもダメ……」
その声は、遥か頭上からする。目を細めてよく見ると、彼女が膝に手を当てて息を整えている。
「! ……あんた……?」
呼び掛けてから、自分の声が涙声なのに気付いて少し後悔した。曲がりくねる崖のような道の上方で、きょろきょろと辺りを見渡している。もう一度声を掛けるとようやく彼女はこちらに顔を向けた。
「師匠!?」
俺の姿を認めると、彼女は何か細いものを掲げて、迷いなく——崖を飛び降りた。彼女の身長の数倍はある、切り立った崖を。いくらなんでも、これは無茶だ。不死だからって怪我をしないわけじゃない。
彼女の落ちる位置まで勢いよく駆け、受け身を取る。……頼む、間に合ってくれ。鈍い音と共に彼女が腕の中に落ちてくる。当然、腕では受け止めきれず、バランスを崩す。結果的に地面と彼女の間に挟まれて、胸と背中に鈍痛が走る。
「っ……大丈夫か!?」
「師、匠……なん、で、下に……」
「なんでって……こんな高さ、怪我するぞ!」
鈍い痛みを堪えて起き上がる。見たところ彼女に怪我はなさそうだ。差し出した手を取ってよろよろと立ち上がりながら、彼女は呻いた。
「《落下制御》かけてたから……」
握る杖の先に魔術の静かな気配が渦巻いている。掲げていたのは、杖だったのか。事態を把握し気まずくなり、頭を掻く。
「……それは、悪いことをしたな」
こちらに歩み寄った彼女は、俺の顔を覗き込んで目を見開く。
「どこか痛むの? ……怪我は?」
黒革に覆われた指が頬をなぞる。……しまった。涙の跡を見られてしまった。
それをきっかけに彼女は慌しく全身を確認し始める。涙の理由を何と説明しようか悩む間にも、彼女は身体を軽く押したり衣服の下を覗こうとし、しまいにはエスト瓶の栓を開け口元に押し付けてくる。その慌ただしさに可笑しくなって、震える声を絞り出す。
「いや、違う。……違うんだ、これは」
「……本当に? どこも怪我はない?」
「《どこも》と言われると……いや、違う。大丈夫だ。本当にエストは足りてるんだ」
唇に押し付けられた瓶を取り上げる。彼女は不安そうにこちらを見上げている。異端の男相手にそんな顔をするから……勘違いさせてしまうのにな。
「それより、そんなに急いでどうしたんだ」
「どうしたって……師匠が何処かへ行ったと思ったら、戦士が『ありゃ死んだな』って言うから。グリッグスも『すぐ後を追った方がいい』って」
「……全く、お節介な奴らだな」
「グリッグスに訳を聞いたら、急に死んだネズミの話を持ち出して……まったく意味がわからない。とにかく、あなたに何か危険が迫ってるのかと思って、祭祀場の周りを急いで探し回った」
森が静寂を取り戻す。俺は耳を疑った。
「……死んだ、ネズミだって?」
「《クレセント》の話をしたんでしょう? どうしてその話であなたが死ぬことになるのか、さっぱり分からない……」
未だ状況が掴めない彼女の横で、俺は腹を抱えて笑うしかなかった。なんて馬鹿馬鹿しい話だ。俺がひとしきり笑い終えるまで、彼女はただ困惑していた。
「……はぁ。悪いな。あんたは、心配して探しに来てくれたんだろう? ありがとうよ」
「それはいいけど……なんで笑ってるの?」
ラレンティウスは苔むした岩肌に背中を預け、その場に座り込んだ。自分のすぐ隣を軽く叩いて彼女にも座るよう促す。
「訳を聞いたら、あんたも笑うだろうさ。……でも、その前に。あんたと《クレセント》の話を聞かせてくれよ」
耳をそば立てるみたいに森は再び静まり返った。外套の留め具を触りながら、彼女は遠慮がちにゆっくりと話し出した。
******
「クレセントと出会ったのは……三日月の夜。聖女のローブのように白い月が輝いていた。明るい夜は、盗みに入るのに向かないんだ。だから、路地裏で半分腐ったパンを食べながら、娼婦を買ってお楽しみに励む客を見てた。……帰り道に襲って、金を奪ってやろうと思って。
そこに奴は現れた。宿屋から一直線にこちらに向かって走って来て、キーキーとうるさい鳴き声をあげる。客の気を引きたくなかった私は、千切ったパンくずを投げて寄越したの。
『お前も金が欲しいなら働いて』って。そうしたら、太ったドブネズミは片方の後ろ足を引き摺りながら、一目散に駆けていって、客のズボンの下に潜り込んだ。何を思ったか財布から紙幣を抜いて……私の元へ戻ったの。利口でしょう? 初めは目を疑った。男は娼婦に夢中で最後まで金を盗まれたことに気付かなかった。私は褒美にパンを全部あげた。
パンをもらってからのクレセントは、よく懐いた。きっと、私の前に飼い主がいたんだと思う。私が回れと言うと回るし、腹をくすぐると笑うの。ネズミの癖に凶暴で、猫相手にも威嚇する度胸のある奴だった。片耳が三日月のように欠けていた。……猫にでも噛みちぎられたんでしょう。だから《クレセント》」
そこで彼女は月を見上げた。欠けていない月に指で三日月を描き、再び話し始める。
「私はクレセントに芸を仕込むことにした。鍵を放り投げて、取って来たら餌をやるの。何度もそうするうち、クレセントは《私が鍵を欲している》ことをちゃんと理解した。腹が減ると、鍵を持ってくるようになった。その度に私はパンくずをあげた。
ある夜、店の金庫破りをしていた。手持ちの鍵が合わなくて……珍しく難儀していた。時間をかけ過ぎると店の主人に気付かれる。焦ると余計に上手くいかなくて、諦めて脱出を考え始めていた。するとクレセントは、どこからかよく磨かれた鍵を持って来た。黙って取り上げようとすれば酷く怒って噛みつこうとする。仕方なく、来る道で盗んだブドウをひと粒あげた。彼は喜んで鍵を落とした。その鍵は……見事その金庫を開けた」
「ずいぶん賢い奴だ」
彼女は嬉しそうに頷く。ネズミの友人について話す彼女は、いつになく楽しげだった。こんなによく喋るのだって初めてだ。まだ俺の知らない顔をこんなに隠していたのか。たちまち変わる表情を一つも見逃さないよう、身を乗り出して聞いた。
「仕事のパートナーになったクレセントと私は、二人でいろんな場所に行った。門の裏手、宝物庫、牛舎、地下室、梁の上。彼との最後の夜は……屋根上だった。
普段は屋根になんか登らない。でも、屋根から入るのが都合が良くて、慣れない仕事を選んだのが運の尽きだった。忍び込むつもりで降りた足場には、張り込んでいた警備隊がいて。驚いた私は、屋根のテラコッタを踏み抜いて、音を立ててしまった。その音で気付かれて、逃げながら私は隣の屋根に飛び移ったの。焦っていた。慌ててクレセントに命令した。『跳んで』って。……私が連れて跳べばよかった。
彼はその通り跳ぼうとした。でもネズミは飛べない。彼は、屋根と屋根の間の虚空に消えた。暗闇に紛れていって、何も見えなかった。呼び掛けてもクレセントは答えなかった。私がネズミに呼びかけたのを、警備隊は協力者がいると勘違いした。私を追うのを辞めて、居もしない男を探し始めた」
彼女は目を閉じて俯き、首を振った。
「日頃から沢山餌を貰ってきたクレセントは、普通のネズミよりも重かった。地面に叩きつけられたあと、きっと、すぐに動かなくなった。警備隊の元に戻るわけにはいかなくて、私が見つけたのは翌る朝。そこには、身体を丸めて動かなくなったクレセントがいた。
あんなに柔らかかった腹も、死んだらすっかり冷えて固くなっていた。抱き上げても、パンくずを鼻の周りに近付けても、鼻をヒクヒクしない。ずっと夜風のように冷たいまま。本当に……いい奴だったのに」
死を悼む彼女の頬に一筋の光が流れた。その光は、今日の月と同じ色をしていた。
かけるべき言葉が見つからなくて、代わりにそれを指で掬った。彼女は小さく鼻を啜る。
「あれから、一人でずっと後悔してるの。唯一、家族と呼べたのはあのネズミだけなのに。私の三日月。……私が殺してしまった」
喉の奥から搾り出されたような声。
今の彼女の瞳に見えるのは、力強い火でも満月の光でもない。どこにでもいる、普通の娘。その瞳の色。特別な使命を帯びていようと、鐘を二つ鳴らそうとも、彼女だって俺と変わらない人間だ。彼女も喪失と孤独を知っていたんだ。だからあの日、俺に手を伸ばした。
留め具をきつく握るその手に、火を灯した手を重ねる。彼女はそれを拒まなかった。
「……あんたが殺した訳じゃないさ。運が悪かっただけだ」
彼女は意思を持って強く首を振る。
「私は……もうあんな思いをしたくない。特別な存在を失うなんて御免なの。
——だから、魔術を習い始めた。あなたを失わないためなら、私は、どんな手段だって使ってみせる。魔術は、呪術と全然違うけれど……さっきみたいに身を守る術も多くて、役に立つ」
言葉を失った。そうだったのか。突然魔術を習い始めた時、呪術では足りないのかと思ったことを恥じた。
彼女はもういつもの毅然とした表情に戻っている。悲しみの涙などで消せやしない炎が、瞳の中で静かに燃えている。あの日と同じだ。俺はその力強い火に見惚れていた。
「……私の話はこれで終わり」
物語を終えた彼女は、少し照れくさそうに「おしまい」と手を合わせる。
「それで? 師匠の話は?」
促され、話そうかと思いかけ……胸の内にしまうことにした。言わなくても、どうせすぐ分かることだ。
「俺の話は……あんたの話ほど聞く価値のある話じゃないさ」
「ふうん……? とにかく、師匠が無事でよかった。本当に……」
掌の火に照らされ、明らかになった表情は、微笑みとも安堵ともつかぬものだった。
冴えた夜の空気を肺いっぱいに吸い込む。もう胸の奥に支えていた悲しみはない。今ここにあるのは、木々をざわめかせる風と、互いを温めようと灯した、寄り添う二つの炎。そしてその温もりだけだ。
「それにしても、あんたが落ちてきた時は、本当に肝が冷えたな」
「……私は嬉しかったのに。あなたが見つかって」
笑い合ううち、身体も温まってすっかり夜の冷たさを忘れていた。満月が注ぐ淡い光の下、二人分の影が落ちている。火に照らされ揺れる影は、誰も知らない森の中でゆらゆらと混ざり合い——やがて一つに重なった。
******
祭祀場に戻ると、呆れ顔の戦士が両手を広げて出迎えた。勿論、抱擁をするためではない。やれやれと肩をすくめ、皮肉を言うためにだ。
「亡者にはならずに済んだみたいだな」
そのすぐ横で、魔術師は組んだ両手を顎に当て俯いている。相変わらず表情は涼しい。こちらに気付くと、姿勢を伸ばして何か言いたそうに口を開きかける。
「おい、あんた。もしかして《クレセント》がネズミって知ってたのか?」
「……まさか」
魔術師は呆けた顔でこちらを見上げる。戦士は俺と彼女を交互に見て、それから腹を抱えて笑い出した。
「ネズミ? ネズミだったのか?……ハハハハッ! 傑作だな」
「みんなして……クレセントをなんだと思ってたの?」
彼女は怪訝そうに戦士に尋ねる。《余計なことは言わないでくれ》と視線を送ったにも拘わらず、戦士はニヤけた顔で続けた。
「嬢ちゃんの昔の男かと思ったんだよなあ? 呪術師。……こりゃ一杯食わされたな。お笑い種だ」
顔から火が出そうだ。察しの良い彼女は戦士の発言を聞いて合点がいったらしく、何か言いたげにこちらを見ている。戦士は笑い涙を拭い、こちらへ身を乗り出した。
「……それで? 結局お前たちはどうなったんだ? 随分帰りが遅かったじゃないか」
「どうって……」
返事に困った彼女はこちらを仰ぎ見る。
時間が止まったみたいに見つめ合った末……彼女から答えは出なかった。同じ質問をされたところで、俺だってこの二人相手には、何も答えなかっただろう。
炎が輪郭を掴めないように、俺と彼女の間には絶えず形を変え揺れる感情がある。今はまだ——それだけだ。
お節介な戦士は懲りずに「仲良しこよし」だのなんだのと皮肉を交え、好き勝手探りを入れてくる。それでも俺たちは何も答えない。ただ、意味ありげに顔を見合わせる。教えてやらない。
それを見た戦士は、自分から首を突っ込んだくせに、「あーあー、他所でやってくれ」とうんざりした顔で手を払った。
ふと視線を外すと、その横で眩しいものを見るみたいに目を細めているグリッグスと目が合う。声は出さず口の形だけで「良かった」と俺に言う。全く、誰のせいなんだと肩をすくめてみせる。魔術師は小さくクスッと微笑むと、またいつもの涼しい顔に戻って本を読み始めた。
もうとっくに夜が更けているというのに、篝火の前は賑やかで温かい。束の間の団欒。仲間でも家族でもない奇妙な面々を見渡して、こんな日も悪くはないのかもなと思った。
いつか。彼女の答えを聞く時が訪れたら、俺の答えはその時に聞かせよう。
落ちて来る彼女を受け止めようと駆け出した時。それともあんたが俺に手を差し伸べたあの日から、俺の方は——とっくに落ちていたんだって。