#3

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薄い壁越しに聞こえる誰かの大いびきで、壁に立て掛けた鞘の下緒が揺れていた。コパーコロネットの壁が薄いのには慣れている。スラムに暮らしていれば、怒声や酔っ払いの歓声の中でだって眠れる。だから、耳に入る雷のような轟音は全く問題ではない。誤魔化しが効かないのは、外から入る音ではなく、精神が上げ始めている内なる悲鳴の方だ。
生活の目まぐるしい変化を思うと無理もない。十日前までは気ままな浪人だったのが、今や狂ったメイジの奴隷。標的の前で、さも味方かのように振る舞い、自分の身を案じながら、常に変化する盤上でミスなく立ち回るというのは……なかなかに頭を使う。一つでも計算違いをすれば命はない。そのプレッシャーが眠りを妨げていた。仕事柄、元々眠りは浅い。しかし、こうも寝付けないのは初めてだ。これが続けば身体は持つまい。ギアスなどなくとも、この状況に身を置き続けるだけで、尋常なら弱り果て床に臥せよう。……命令を果たし終える頃に、果たして私の髪は残っているだろうか? あの狂ったメイジのように、髪の代わりにピンを刺す羽目にならないと良いが。
毛羽立った毛布を胸の上まで引き上げる。目を閉じたところで、一向に眠気は訪れない。瞼の裏の闇だけが、私と共に退屈な静寂を聞いている。かつては酒を飲んでやり過ごしたこの無為な時間すら、今は「私に残された最期の時間なのではないか」と惜しみたくなる。……全て、ギアスのせいだ。ギアスに縛られる前の私は、こんなに感傷的な男じゃなかったはずだ。死が迫ると人は変わってしまうらしい。
仕方なく起き上がり、鞘を掴む。刀を研ぐ間は、かろうじて《自由》を錯覚できた。静寂を埋めるように、繰り返し刃の上を往復する。刀身をなぞるたび砥石が心地良い音を立て、波立つ私の心を落ち着かせた。ただ無心で磨き、研ぐ。やがて、磨かれた刃の上には、疲れ切った男の死んだ魚のような目が映し出された。
……まさか今日一日、ずっとこんな顔をしていたわけではあるまい? 慌てて《エッセンス》の横で繕っていた笑みを浮かべ、その胡散臭さに鼻で笑う。奴らはこの顔を信用しているのか? 本当に? 私なら絶対に信用しない。だが奴らのお人好しぶりは、目も当てられない。半日も共に過ごせば、それは嫌でもよく分かった。

遡ること半日前、《エッセンス》たちは主人の塔から脱出し、数ヶ月ぶりに陽を浴びることになった。そこまでは、概ね想定通りに事が運んでいた。シャドウシーフたちに襲われながらも、彼らは英雄の名が伊達ではないことを証明する戦いぶりを見せ、無事、下水の出口へと辿り着いた。
道中の想定外といえば、変わり果てた伴侶を見つけたドルイドが取り乱したことくらいか。だが、最も警戒していた対象の判断力が鈍るのはこちらにとってありがたい。この出来事は《彼らを誘拐した犯人》への憎悪と、パーティの結束を深めるという実に好都合な結果に落ち着いた。頂点に達した彼らの怒りは、報復を求め犯人を追う流れに繋がり、即ちそれは私の任務を容易にするーーはずだった。
外へ出ると、我が主人の塔があった場所は既に無惨な瓦礫の山で、その瓦礫の上では塔の持ち主がシャドウシーフに抵抗し、強力な魔法を惜しげもなく放っていた。閃光で焼かれたシーフたちは跡形もなく消えた。文字通り消し炭になったのだ。しかし、ことが終わる間もなく今度はカウルドウィザードが主人を取り囲んだ。
イレニカスは何の躊躇いもなく、カウルドウィザードの一人を塵に変える。取り囲む老メイジに抵抗するイレニカスは《エッセンス》を視界に認めると、無表情のまま彼女を称賛した。
「……混乱に乗じて脱出したか。流石だな、ノア」
真っ先に動いたのは《エッセンス》ではなく、赤毛の娘だった。私が止める間もなくイレニカスへ向かって歩き出し、次の瞬間には魔術の閃光を放っていた。
今にして思えば、この一手が運命の歯車を大きく狂わせたのだろう。カウルドウィザードはイレニカスを魔法の檻に閉じ込め、スペルホールドへの連行を告げた。赤毛の娘は巻き添えになる形でイレニカスと共に連れ去られることになりーーその場に残された《エッセンス》と仲間たちは怒りの矛先を失い、困惑ののち、静かに武器を下ろした。

顔を見合わせ、起きた出来事を飲み込もうとする面々の最後尾で、私は眉を顰めていた。眼前で連行されたばかりの主人が、《送信》魔法で新たな命令を寄越してきたからだ。
『監視を続けろ 素材を逃せば命はないと思え』
私の返事を待たず、魔術の繋がりは途絶えた。その途絶がカウルドウィザードの介入によるものなのか、イレニカス自身の意思によるものかは分からないが、いずれにせよ私に自由意思がないことだけは確かだった。カウルドウィザードが主人を無力化することを仄かに期待した私は、仲間を攫われた彼らと同じようにひどく落胆した。
赤毛の娘を攫われた《エッセンス》は、明らかに動揺し呆然と立ち尽くしている。冷静さを取り戻したドルイドが口を開くまで、身じろぎ一つせず、攫われた娘のいた虚空をぼんやり見つめていた。
「……ノア。ゴライオンの子、しっかりしなさい。まずは状況を整理しましょう。どうやら、私たちを拷問した男はイレニカスと言うらしいわね。そしてここは、私の記憶が間違いでなければ、昔カリードと訪れたことがある……アムンの首都、コインの都。アスカトラだと思うわ」
「ええ、確かに。あなたの読み通り、ここはアスカトラだ」
私がそれを認めて彼らの輪に加わると、ドルイドは澱みなく続けた。
「イモエンを連れ戻すにしても、まずは情報を集めましょう。こういう時はスラムをあたるべきね」
伴侶を失ってなお怜悧。彼女はただのドルイドではない。何かと手慣れている。実力者として要警戒対象だ。《エッセンス》の無知につけ込めたとしても、この慧眼は半端な芝居では誤魔化せない。つまり、警戒されずに監視を続けるならーー私は有益な《仲間》として本当に知恵と技術を提供するべきだろう。そうでもしないと、即座に排除されかねない。一つの嘘を覆い隠すには、九つの真実が必要というわけだ。
「ドルイド殿のおっしゃる通りですな。幸い、アスカトラなら私の庭だ。ご案内しましょう。冒険者や情報を探すなら、スラム地区のコパーコロネットがおすすめですぞ」
素直で従順な《エッセンス》は私の言葉を聞き届けると、すぐに顔を上げた。
「なら、まずはそこに行きましょう。あなたはアスカトラに詳しそうね。案内してくれる? ヨシモ」
そう言い終える頃には、不安と動揺をすっかり払いのけ、晴々としたリーダーの顔になっていた。どうやら、見た目ほど打たれ弱くはないらしい。家族同然に育った友人を拐われて、内心は気が気じゃないだろうに。凄惨な拷問に数ヶ月耐えただけのことはある。だが、スタッフを握る指の先が少しだけ震えているのを私は見逃さなかった。
「ええ、お任せください。ヨシモは喜んで」
「ブーとミンスクもついてるぞ!」
タトゥーの大男は片手に乗せたハムスターを彼女の方に突き出しながら、もう片方の手で自分の胸を力強く叩いた。ドルイドは短く息を吐き、乾いた声で「行くわよ」と一行を促した。

ワキーンズプロムナードからスラム地区に向かうまでの道すがら、私は街の様子を探っていた。カウルドウィザードが駆けつけるだけの事態だ。何の影響もないわけがない。この街の気怠げな衛兵は、相変わらずやる気がなさそうに巡回し、商人は口々にシャドウシーフの名を噂し、貴族はそそくさと歩いている。しかし、通りすがる街の者の中に、ちらほらと怪しい影が混じっていた。旅行者を狙うスリにしては目付きがいやに鋭い。妥当な線で見れば、恐らくシャドウシーフ。だが、全くそれ以外の勢力ということも考え得る。何せ主人はカウルドウィザードにまで喧嘩を打ったのだ。今の我々はどんな勢力から目をつけられても不思議ではない。
時折接触を試みるような動きの不審な影から《エッセンス》を庇いながら歩いた。英雄と呼ばれているのだからもう少し冒険に慣れているかと思ったが、《エッセンス》は興味に誘われるままキョロキョロと視線を移し、いかにもこの土地に来たばかりという風に歩いている。いいカモだ。冒険者向きの店について話し、付かず離れずの距離を保つ不審者に気を配りながら歩いた。この分じゃ明日には財布が空になっているだろう。そんなことを思いながら歩く間に、気付けば我々は地区を跨ごうとしていた。
「一ついいですかな、ノア。この先のスラム地区はスリや物乞いが多……」
「クゥー! これはこれは。あんた、俺の探していた奴じゃないか? ノアだろ?」
物乞いに気をつけるよう言い掛けた矢先のこと。くすんだ色の外套に身を包んだ、スラム訛りの男が《エッセンス》に話しかけていた。
「そうだけど……何の用?」
ああ、《エッセンス》……嘘だろう? 英雄ともなると、見知らぬ者に堂々と名を明かすのか? 私は信じられない気持ちで彼女の顔を見る。スラムでそんなことをするのは、命知らずか旅行客くらいのものだ。……全く、この娘の経験の浅さを完全に読み違えていた。彼女を挟んで向こう側で、ドルイドも同じことを思ったのだろう。余計なことを喋るなとローブの袖を引いている。対峙する男は構わず身を乗り出す。
「やはりな! なぁ、あんたにとびっきりの、いい話があるんだ。あんたはカウルドウィザードに捕えられた若い娘の情報を求めてるんだろう?」
そう言って、今度は馴れ馴れしい態度で《エッセンス》に一歩近付き、欠けた歯を見せ付けるように胡散臭い笑みを見せる。交渉慣れしている。恐らく素人ではない。どちらかといえば、同業側だろう。
男から見えない角度で私は刀の柄に手を伸ばした。ドルイドに目配せで意思の疎通を図ると、すぐに目が合い、彼女も小さく頷いた。考えていることは同じらしい。いつでも反撃ができるよう、スピアをきつく握っている。
当の本人は袖を引かれてようやく警戒することを思い出したようで、近付いてきた男を見上げて、慎重に一歩距離を取った。
「……その話を聞く前に、あなたは何者なの?」
「おっと! こりゃあいけない。危うく礼儀を忘れるところだった。俺ぁゲイラン・ベールだ」
ゲイラン・ベール。世話になったことはないが、スラムに暮らせば一度は聞いたことがある名だった。有名人というほどじゃない。だが、裏の世界で名前が知れているということは、善良な市民でもない。腰を屈め《エッセンス》に耳打ちをする。
「奴の名は聞いたことがありますな。裏の世界で顔が効く奴で、約束を守る男だとか。……奴に利があるうちは、という注釈付きですが」
《エッセンス》は気難しい表情で眉を寄せ、もう一度男に向き直る。
「どうしてあなたはイモエンのことを知ってるの?」
「ああ……イモエン。たしか、そんな名前だったな。なぁ、あんたは彼女を見つけたいんだろう?」
ゲイランと名乗った男は相変わらず口元に薄い笑みを湛えているが、瞳の奥は決して笑っていない。
「あんたのためにイモエン、あるいはあんたを痛めつけたウィザードの行方を追う協力を申し出る者がいると言ったら……どうだ?」
きな臭い話だ。だが《エッセンス》は顎を持ち上げて露骨に興味を示した。ゲイランはその反応を見て、にこやかに小首を傾げる。
「クゥー! 興味があるみたいだな。だが、こんなところでその話をするのはまずい。話をするのに、もっといい場所があるんだ」
私含む全員がすぐには足を動かさず、石のように立ち止まった。流石の《エッセンス》も判断に困ったのか、ドルイドの顔を見上げ指示を仰いでいる。ドルイドは少し尖った耳の先をぴくりと動かしてから「あなたが決めなさい」と母のように諭す。それを見てゲイランはバツが悪そうに頭を掻いた。
「……おっと、そんな心配そうな顔をするな。罠じゃないさ。ほら、ついてきな」
そう言って人差し指と中指で手招きをすると、ゲイランはふらふらとスラムの奥へと歩いて行った。その少し後を不安げな足取りで追う《エッセンス》の背に我々も続いた。

着いた先はスラムの民家だった。褪せた漆喰、レンガも欠けているが、アスカトラのスラムの中では上等な方だろう。ゲイランは扉を開けると安全だと示すように部屋の中心で肩をすくめた。外から覗き込んだ限り、罠は見られない。「見た限り、本当に罠はなさそうですな」と呟くと、《エッセンス》は安心したように敷居を跨いだ。
「さて、扉は締めたな? 本題といこうか。俺はあんたの力になってくれる強力な組織を知ってるんだ」
「どんな組織?」
「……それは言えないな。だが、彼らが強力な手助けになることは確かだ。あんたが望めば彼らは手を貸す。さあ、どうする? 助けを借りるか、借りないかだ」
口振りからして、個人の伝手ではないらしい。この辺りで情報通の組織といえば……大なり小なりシャドウシーフが絡んでいると見て良いだろう。私個人としては避けたいところだ。だが《エッセンス》からすれば、手掛かりは今これしかない。彼女は腕組みをし、片足に体重を預けた。
「タダじゃないでしょう? いくらかかるの?」
「20,000ゴールドだ。まぁ、探すのにも色々と金が要るんだろう。手持ちが足りないなら稼いでくればいい。俺はここで待ってるぜ。コパーコロネットに行けば仕事があるだろう」
人探しの協力にしては随分気長な組織だ。結局、《エッセンス》はその場で返事をせず気難しい面持ちでゲイランの家を後にした。その顔が、提示された額面を持っていないことを雄弁に語っていた。私の方も、自分がどれだけ厄介な状況に巻き込まれているのかと考え……やはり考えるだけ無駄だと結論付け、手を叩いた。
「さて。どうなさるおつもりだとしても、喉を潤しながら話したいものですな? コパーコロネットでアムニッシュ・エールが待ってますぞ」
踏みつけた砂が乾いた音を立てて我々を出迎える。扉の閉まる音を聞き届けると、ラシェミの男はタトゥーがある側の頭を掻きながら、もう片方の手に載せたハムスターに話しかけた。
「ブー! 教えてくれ。ミンスクはこれから誰のケツを蹴り上げたらいいんだ?」
ドルイドがラシェミの太い腕を叩いて笑う。
「じきに分かるわよ」
暗い顔をしていた《エッセンス》も僅かに笑みを取り戻す。ベハルの子としての過酷な人生を支えてきたのは、こういうささやかなやり取りだったのだろうなと他人事ながらに思う。
「さあ、みんな。久しぶりの酒よ」
彼女の指す《みんな》に、既に当然のように自分も含まれていることに安堵する。この分なら監視もしやすく、ついでに金も貯まるだろう。何より大きな利は、ベハルの子の庇護下にあるということだ。我が主人か、彼女か……状況に応じて私は有利な方につくだけだ。

西陽の差す時間。コパーコロネットの賑わいはピークに達していた。ベルナルドに軽く挨拶を済ませ、カウンター近くの席を取った。私の薦めで並んだ四つのジョッキにはアムニッシュ・エールが並々と注がれている。しかし誰一人まだ手をつけず、それぞれの事情に思い耽っているようだ。……ああ、頼むからそんなに深刻な顔をしないで欲しい。お前たちはまだ酒の味を楽しむ自由があるのに。勿体ない。
「乾杯の音頭は誰が取るので? ほら、こんな時こそ酒ですぞ。しばらくぶりの地上ですからな。そうでしょう?」
ジョッキを手に取り、戯けて《エッセンス》を肘でつつく。表情からして、その場にいない娘のことを考えているのは明らかだったがーー私が促すと彼女はおずおずとジョッキを持った。
「みんな。必ずイモエンを連れ戻しましょう」
「そしてカリードの仇を取るわ」
「悪党のケツを蹴り上げる日のために、力をつけろとブーも言っているぞ!」
がさつな動作でぶつかった四つのジョッキが鈍い音を響かせた。渇きを癒そうと勢いよくエールを飲む彼らを見ながら、安酒をよくもこんなに美味そうに飲むものだと思った。死への恐怖と自由意思のないストレスで、酒の味すら分からなくなりかけている私とは決定的に違う。ジョッキに閉じ込められた小さな泡たちは、逃れる先を知っている。鎖に繋がれていない軌道は、どこまでも高みを目指していけるだろう。……それとも、私が《高み》に送るのか。思いついた冗談のくだらなさに口の端を吊り上げていると、《エッセンス》と目が合った。
「心強い味方が出来てよかった」
おっと、それはどうだか。
「ヨシモもあなたにお供できて嬉しいですぞ」
冷ややかなメイジの視線と違い、お人好しの眼差しは居心地が悪い。容易く人を信用するなと、ドルイドは教えてくれなかったのか? 哀れなことだ、本当に。この娘を見ていると、余計に酒が不味くなりそうだ。
「今日はもう遅いから、明日、情報収集をしましょう。他に手がなければ……20,000ゴールドを稼ぐ手立ても見つけないと」
「イモエン殿が心配ですな」
「イモエンならきっと……大丈夫」
確信というより、そう自分に言い聞かせているようだった。
「あなたとイモエン殿はどういった関係で?」
「彼女は……幼馴染で、妹みたいな感じ。一緒にキャンドルキープで育ったの」
嘘はない。私が調べた情報と一致している。
「家族同然の大切な友人でしたか……お気の毒に。ずっと一緒に旅をされていたので?」
「ええ。いつも一緒だった。同じ布団で眠ったこともあった。大人たちは私たちを《二人組》として扱っていた。私の……半身同然なの」
親身に話を聞くフリをしながら、遠くで奏でられる下手くそなバードのリュートの音に意識を向けていた。こんな話を聞いて本気で同情するほど、お人好しでも素人でもない。なるべく話を聞き出して、私が持っている情報と一致させる必要があるというだけだ。
「それはそれは。長く囚われの身でいたところに、今日の出来事は応えたでしょう?」
「そうね。……でも、キャンドルキープを離れた時に、覚悟しておくべきだったのかもしれない。今日みたいなことを」
今にも泣き出しそうなのに無理やり口の端を持ち上げて微笑むその横顔は、しみったれたスラムの安宿によく似合っていた。
「キャンドルキープで育ったと仰いましたな? あそこはフェイルーン中の書物とオグマのモンクが集まると聞いたことがありますが……そこで育っただなんて、珍しい話だ」
「……私は賢者ゴライオンの養子なの。事情があって……彼に引き取られたの」
「事情が?」
彼女は話すべきか思案し、視線を泳がせた。目敏く会話を聞き付けたドルイドが、向かいから身を乗り出す。
「ノア。その話はここではまずいわ。酒場では誰が耳をそば立てているか分からないってことを忘れないで」
「そうね。気を付けるわ」
「……誰にでも秘密の一つや二つありますな。ヨシモは深入りしませんよ」
「ありがとう」
「それはそうと……アスカトラの酒は口に合いませんでしたかな? もしや、ドラコニアン・エールの方がお好みで?」
指であまり減っていないジョッキを示すと、《エッセンス》は慌ててそれを傾けてごくごくと気持ち良く喉を鳴らした。いい飲みっぷりだ。それだけ飲めば……効果は十分だろう。
調べた情報の裏が取れたのも大きい。おまけに、彼女はもう私を信頼し始めている。初日にしては充分な成果を得られ、私は久しぶりに束の間の満足感を味わった。それは硬いパンや不味い酒より、胃に走るキリキリとした痛みをずっと和らげてくれた。

数刻後。酒場の喧騒は次第に落ち着きを取り戻し、バードもリュートを抱えて欠伸を嚙み殺す時間。いつまでもジョッキにエールを注ぎ続ける《エッセンス》に呆れ、ドルイドは先に部屋へと引き揚げた。私が伴侶について無遠慮に尋ねたのもある。彼女は一人になりたかったのだ。一方、ラシェミの大男は私が口実を考えるまでもなく「この宿はノミが多い! ブーの毛並みに良くない!」と言い残しその後を追って行った。あの男がハムスターに入れ込んでいる理由は未だに掴めなかったが、好都合だった。私の思い描いた通りの状況が仕上がったわけだ。
自分に有利に働く状況を作り上げることを《罠を仕掛ける》という。技術的な罠以外も、当然私は使いこなしてきた。話術や駆け引きが能力として軽んじられるのは世の常だ。そして皮肉なことに、軽んじている者ほど案外術中にはまってしまうものだ。
《エッセンス》の瞳は先ほどからこちらを見ているようでーー何も捉えてはいない。ありもしないものを目で追っているのか、ふわふわと宙を泳ぐばかりだ。手を振っても反応はなく、肩に手を置くとようやくハッとして目が合う。私が混ぜたハーブの影響だ。もちろん、いかにも悪人好みするような大層なものじゃない。ほんの少し喉が渇くように仕向けただけだ。この状況で喉を潤そうと思えば、自然と酒をあおる羽目になる。それだけのことだ。
「ヨシモ、あなたは……どこから来たの?」
「お嬢さん。私の記憶が正しければ、確かその話はーーさっきもしておりますな?」
「あれ? うそ、ごめんなさい。私……酔ってるのね」
「お気になさらず。アスカトラの酒がお口に合ったなら何よりだ」
《エッセンス》はジョッキを目の高さまで持ち上げて、薄目で酒の残量を確認している。そのジョッキは三十分も前からとっくに空だ。丁度通り過ぎたばかりのウェイターの袖を引き水を頼むと、迷惑そうにドン!と力強くジョッキを叩きつけ、足早に立ち去っていった。
「さ、これをどうぞ。ご自分で飲めますかな……」
確かに、気を緩めさせるために私はハーブを忍ばせた。理性の鎧を脱がすつもりで酒を勧めた。だが、いくら冒険者とはいえこんな小柄のソーサラーが大酒飲みだなんて誰が想定するだろう。結局、私が事前に得た以上の話で役に立つ情報は得られていない。強いて言えば彼女の信用を掴むいい機会ではあるが……この分では、明日どこまで覚えているのやら。
「エール……エールが足りないわ!」
「ここにあるでしょう。ほら、お望みのエールだ。スラムでは夜遅くなると酒を薄めるんですな」
「へえ……確かに薄いわね」
呆れるほど無知で、騙されやすいお人好しの標的。バルダーズ・ゲートの陰謀を挫いた中心人物だと聞いていたが、蓋を開けてみればこれだ。知恵比べにすらならない。こんな娘相手に監視など、主人の気が知れない。放っておいても死んでしまいそうじゃないか。ベハルの血を引いているとて、果たして私を雇うほどの人物だろうか。
「ねえ、あなたは……夢を見る?」
「夢? さあ……私を慕う金持ちの未亡人に言い寄られる夢なら、数えきれないほど」
「ふっ……アハハ! あなたって面白いわね、ヨシモ」
何が面白いものか。ゆくゆく拷問することになるであろう相手と酒を飲み交わすなどという、ろくでもない仕事の真っただ中だというのに。
「それで? どうしてそんな質問を?」
「うん……? ああ、そう。言っておこうと思って。私……よく悪夢を見るの。だから、深夜に私が飛び起きていても、気にしないでね」
「へえ。邪悪なメイジに恐ろしい魔法を掛けられ逃げ惑うような夢ですかな?」
「それも怖いけど……もっと怖い夢。人に話したくないくらい、恐ろしい夢」
「なら、聞かなかったことにしましょう。酒の席の話は、どうせ朝日が昇る頃には忘れるものですからな」
《エッセンス》は私を品定めするみたいに目を細めた。それから、目を逸らして悪戯を隠す子供のように笑った。
「そうね。明日には……ううん。なんでもない。明日は忙しくなりそうね」
遠くを見る目が何を追っているのか、手に取るように分かった。だからこそ分からないままでいようと努めた。彼女に付き合って飲んだ酒の味が、ほんの僅かに苦いと感じられたからだ。
「ねえ、最後に乾杯しましょう。ええと……新しい仲間に、乾杯」
「……ええ、乾杯」
空いた適当なジョッキをいい加減にぶつける。ガチャン!と騒々しい音を立てたグラスは不安定に持ち上げられ、彼女の口元へ運ばれていく。待て……その軌道は確実に溢れる。どうして酔っ払いは顎で水を飲もうとするんだ。ほら、溢れた。言わんこっちゃない。賞金稼ぎは、標的の酒の始末までする仕事だったか? これでは保父の間違いだ。
「ローブが……思ったより濡れてますな。ビッチクイーンを怒らせたって、ここまで派手には濡れますまい。これなら寝巻きに着替えた方が早いですぞ。ほら、ジャヘイラ殿の部屋まで歩けますかな……」
ジョッキを取り上げて、覚束ない足取りを支えた。階段を登る背中を押して、クォータースタッフが支えて進めなくなっているのに手を貸し、相部屋の扉を叩き、ドルイドに愛想良く話しかけ全てを委ね、扉を閉めた。
やっと訪れた静寂をため息が破る。全く、このままでは先が思いやられる。何が計画だ。主人が怪しげで高尚な実験に意気揚々と取り組んでいるであろう中、私は《エッセンス》に甲斐甲斐しく水を飲ませ、介抱し、部屋に送り届けている。こんな回りくどいことをするくらいなら、いっそこの場で毒瓶を渡して飲ませる方がずっと楽だ。こんな仕事、やっていられるか。
懐に手を入れ金貨を擦り合わせる。とても静かに眠れる気分ではなかった。適当な安酒じゃなくて、きつい酒を飲み直したい。うんと強いやつだ。

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